清掃員さんと先生のサマーホリデーの話
10 パーティーの裏側
体が動かない。
ヒトハは痺れの残る指先を何とか動かそうとして、諦めた。まだあまり力が入らず、どれほど動かせているかも分からなかった。
(魔法……)
これは一時的に身体の自由を奪う魔法だ。防衛魔法の授業なら多少は躱せたかもしれないが、実際に使われると、こうも綺麗にかかってしまうものかと感心する。やはり模擬戦をいくらやろうと実戦経験には敵わない。
ヒトハの体は硬い石床に放り出されていた。五体は無事だが、手首と足首が縛られているせいで不自由である。露出した肩や頬に砂が押し当てられて、少し痛い。
部屋は薄暗かった。燭台の灯りは部屋の隅にあるテーブルを照らしている。そこには取り上げられたヒトハの私物と、大きな箱のような物が見えた。
それからここには、獣がいるようだった。今の体勢では見えないが、時折頭の後ろから金属が擦り合う音や、何かの唸り声がするのだ。部屋がやけに獣臭いのは、そのせいだろう。
ヒトハは自分の置かれた状況を、こう判断した。
まずい場所を見つけてしまい、まずい人たちに捕まった。
(どうしよう)
思考を止めると、じわじわと恐怖が頭に滲んでくる。怖い。どうしよう。
「殺しはしないから安心しろ」
突然、ヒトハの背後から声がした。低い男の声だ。
満足に体が動かせないヒトハは男の声に反応することもできず、息を潜めてそれを聞くことしかできない。
「ここで殺しても後処理に困るからな。大人しくしていれば、後で記憶を弄ってその辺に帰してやるよ」
もうひとりが言った。この部屋には、自分以外に少なくともふたりいるらしい。
記憶を弄る、ということは魔法だろうか。このふたりが魔法士かは分からないが、記憶を弄るレベルにまでは到達していないようだ。ということは、あともうひとり来る。その人はそれなりの魔法士だろう。
「……死んでるのか?」
「いや、麻痺してるだけだ」
肩を引かれ、ごろりと転がされる。仰向けになったヒトハは自分を覗き込む男を見た。顔に薄い傷があること以外、とりたてて特徴のない男である。
身体が自由であれば悪態の一つくらい吐いてやりたかったが、生憎まだ舌も上手く回らない。ヒトハはぼうっとした顔で、男を見上げることしかできなかった。男はフン、と鼻で笑った。
「魔法士様の作る魔法道具ってのは便利だな」
そうして彼は視界から消えた。
(“魔法士様”の、“魔法道具”)
つまり、彼らは魔法士ではない。
暗い状況に一点だけ光が見えてきた。彼らは魔法が使えない。つまり、魔法が何たるかを正確に理解していない可能性が高い。
どうりで魔法士相手に両手を縛る程度の対処しかしていないわけである。杖も取り上げられてはいるが、そもそも杖がなくとも魔法士は魔法を使える。大きなリスクは魔法の難易度が少し上がるのと、ブロットが溜まりやすいことくらいだろうか。
ヒトハはぐぐ、と目に力を入れて眼球を動かした。視界の端の端にクラッチバッグが見える。
あれだ。あれさえ浮遊魔法でなんとかできれば……。
「なぁ、あいつが来るまで暇じゃないか?」
わき腹のあたりに人の気配を感じて、ヒトハはフッと魔力を途切れさせた。
(は……)
生ぬるいものが腰から太ももまでをスルスルと撫でる。
手だ。触られたところからゾッと鳥肌が立ち、自然と背に汗が滲む。ヒトハは恐怖と緊張で呼吸を乱した。
まだ身体の調子が戻っていないのだ。これでは暴れて手を振り払うこともできない。魔法で弾くことはできるだろうが、しかしここで魔法が使えるのを知られることだけは避けたかった。
殺されないだけましと思って、耐えるしかないのか。
(や、やだ……)
ヒトハは暗闇に引きずり込まれるかのような絶望を感じた。こんな場所で、ひとりになってしまったせいで。この男たちを追いかけてしまったせいで──
(嫌だ……助けて、先生、嫌だ……!)
そのとき、傷の男が大きなため息をついた。
「はぁ」
そして気怠そうに言う。
「やめろ。そいつは帰すんだ。下手に傷つけたら意味がないだろう」
捕まっていた痕跡が残れば、そこからこの部屋のことが明るみになってしまうかもしれない。傷の男は理性的なようで、ヒトハを解放した後のことを考えているようだった。
そして彼は、呆れた声で続けた。
「大体、お前、そんなのがいいのか?」
ヒトハは「ん?」と考えた。
(…………そんなの?)
「それもそうだな」
(…………それもそうだな?)
ぱっと手が離され、ヒトハの体は驚くほど呆気なく解放される。男は「あいつを探してくる」と言って石床を鳴らしながら遠くへ行き、そして部屋から出て行った。
そのときにはもう、ヒトハの涙はすっかり引っ込んでいた。
(は?)
命拾いをした。けれど、この敗北感は何だ。
そんなの?
(はぁ~~~~~~~~!?)
ヒトハは激怒した。身動きが取れたならば大暴れしているところである。
勝手にベタベタと触っておきながら、そんなのとは何だ。
自分は学園の生徒たちに「近所のお姉さんって感じ!」とそれなりに好感を持たれているはずだし、あのヴィルからも「ちゃんとしていれば悪くないわね」と言われたことがある。クルーウェルからも「素材はいい」と常々言われているのだ。──そう、つまり、着飾っている今、ちゃんとしているのだから、それなりに“良い”はずである。
大体、こっちだってお断りである。
毎日のようにレオナ・キングスカラーとヴィル・シェーンハイトの麗しい姿を見て生活しているのだ。寮長たちが並べばツイステッドワンダーランドの九割の男は霞む。知性も品性も彼らの足元にも及ばないくせに、何を生意気な!
ヒトハは腹をぐらぐらと煮立たせながら、テーブルの上のクラッチバッグを睨んだ。
頭の後ろで獣たちがざわつき始める。部屋に残された男は「なんだ!?」と慌てながら部屋の奥へと駆けて行った。
ヒトハは歯を食いしばった。
自分は極東から来た平凡な魔法士だ。ただのヒトハ・ナガツキだ。金も地位も権力も輝く美貌もなく、魔力すらない。けれど根性だけは、誰にも負ける気がしなかった。
(──絶対に、後悔させる!)
***
「ヒトハさん、どうしたんでしょう?」
リオが心配そうに言い、クルーウェルはスマホに落としていた目を上げた。
化粧直しに行く、すぐに戻る、と言いながら帰って来ない。しかも、通話にもメッセージにも応答しないのだ。今いる場所を離れるのはよくないと思って留まっていたが、さすがに探しに行かなければならないだろう。
魔法でなんとかなるか、と懐から杖を取り出そうとしたところで、リオが「あ」と声を上げた。彼は手の上に何かを載せている。クルーウェルはそれを覗き込んだ。
「蝶か……?」
リオの手のひらには真っ赤な蝶がいた。蝶といっても生物ではない。羽状の紙である。その内側に、口紅で何かが書き殴られていた。
「これ、花の街に行ったときにヒトハさんがお土産で買っていた魔法道具です。たぶんこの文字は……僕の名前ですね」
とても読めたものではないが、リオが指差した文字は、確かに彼の頭文字の“L”に見えた。
彼曰く、この蝶は魔力を使わない魔法道具なのだと言う。近くにいる誰かにメッセージを伝えるための手紙だ。魔力が切れた今は、リオの手の中で紙切れとなっている。名前以外は何も書かれていない手紙だが、それがただならぬ状況を表しているようにも見えた。
「嫌な予感がするな」
クルーウェルは今度こそ杖を取り出した。形状変化で細く短くしていた杖をいつもの指揮棒の形に戻す。彼女は細く短い杖を愛用しているようだが、これくらい太さがあったほうが手に馴染む。リオは杖を見ながら興味深そうに言った。
「どうするんですか?」
「元来た道をたどらせる」
クルーウェルは呪文を唱え、杖で紙切れを軽く二度叩いた。それは光を纏って浮かび上がり、再び羽ばたき始める。羽の動きといい、なかなか精巧な作りをしているようである。
蝶はふらふらと宙を舞いながら、会場とは別の方角へと飛び始めた。レストルームは会場にあるはずだ。なのに、なぜそちらから来たのか。
クルーウェルは眉間に深い皺を刻みながら、蝶を睨んだ。
「──よし。リオ、カム」
「は、はい」
ふたりは薄暗い庭園の中、ふらふらと飛ぶ蝶を追いかけた。蝶は光らせているおかげで見失うことはないが、人の通り道ではない、変なルートを飛んだ。ふたりは木にジャケットを引っかけ、靴に土をこびり付けながら、それでも黙々と前に進む。
リオは草花のある場所を踏むのを躊躇っていたが、それも最初だけだった。むしろ慣れてきてからは身軽なくらいだった。
「何でこんなところに……」
クルーウェルは後ろから聞こえる声に応えた。
「俺が聞きたいくらいだ」
しばらく飛び続けた蝶は、最終的に滑り込むように建物の中に入って行った。紙の体を器用に折りたたんで扉の隙間から侵入する動きは、おおよそ生物のものではない。
建物は整えられた庭園の片隅にある、鬱蒼とした場所に忽然と建っていた。長方形の古い建物で、蔦がやたら這っているのを見るに、手入れもろくにされていないらしい。外壁には使用しているのかよく分からない箒が立てかけられ、錆びたバケツが放置されていた。中には人がいるようで、扉の隙間から光が漏れ出ている。
物置なのだろうか。しかし妙なのは、この獣臭である。学園の牧場に行けば同じ臭いが嗅げることだろう。こんな場所に彼女がいるとすれば、それは普通のことではない。
クルーウェルは隣に並んだリオに、緊張した声で囁いた。
「杖を持て。戦闘になるかもしれん。そうなったら、俺はお前の面倒までは見れない。教授に防衛魔法は習ったか?」
リオは杖を握りながら、申し訳なさそうに首を横に振る。
「すみません、あまり役に立てないかもしれないです……」
クルーウェルは片眉を上げた。考えてみれば彼はまだ勉強中の身である。
「では自分の身を守ることに集中。余裕があればナガツキを確保。実戦は経験だ。習うより慣れろ」
一息に言った言葉をリオは一言一句逃さずに飲み込んで、大きく頷いた。
「よし、慎重に行くぞ」
「はい……!」
クルーウェルはヒュンと指揮棒を振り上げた。
「え」
リオは彼の杖先が豪快に軌道を描く様に目を奪われた。そしてそれは、慎重とは真反対の、暴力的なまでの突入の合図となったのである。
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