清掃員さんと先生のサマーホリデーの話

09 パーティーの裏側

(私は、ただのヒトハ・ナガツキ……)

 鏡の中でまばたきをする女をじっと見つめる。口を閉じ、動かないままでいれば他の参加者に紛れることはできるが、本質はまるで違う。このパーティー会場にいるのは、地位も権力も実力も、自分とはかけ離れた魔法士たちだ。分かってはいたが、クルーウェルに言われて、改めてそれを認識した。
 ヒトハはすっかり元通りになった頬を両手で叩き、鏡の前で気合を入れ直した。

「……よしっ!」

 自分は所詮、ただのヒトハ・ナガツキである。でもリオは「応援してくれませんか」と言ったのだ。それなら自分にだってできるはずだ。パーティーの夜はこれからも続く。ふたりの元へ戻って態勢を立て直し、早速会場に戻らなければ。
 ヒトハはレストルームを出て、ふたりを残してきた庭園へ向かった。
 クルーウェルはどうやらこういったことには慣れている様子だし、ゲストの中で言えば最年長に近いから、怖いこともないはずだ。巻き込んでしまうのは申し訳ないが、彼はああ見えて面倒見がいい性格だから、一度世話すると決めた仔犬たちを見捨てる真似はしないだろう。
 それにしても、とヒトハは薄暗い庭園を歩きながら、先ほどのことを思い出した。また頬から耳が熱くなってきたような気がする。
 彼は今日に限って手袋をしていなかった。治療の関係で触られることはあるが、大抵は直接肌が触れ合うものではない。

(熱かった……)

 頬を滑った皮膚のざらつきが、生々しく蘇ってくるようだった。もう少し華奢な手をしていると思っていたのに、まったくそんなことはなかったのだ。考え始めたら頭がそれでいっぱいになってしまって、せっかく冷ました顔が真っ赤に戻っているような気がする。
 それに、何といっても、顔が近かった。長い睫毛をじっくり堪能できるくらいには。見慣れた顔が違って見えたのは、いつもと違ってドレスアップしていたせいかもしれない。リオが来てくれたおかげで正気を取り戻せたが、あのまま流されていたら、どうなっていたのだろう。

(先生、あのとき一体何をしようとして──はっ! ま、まままさか、キ…………ん?)

 はたと足を止める。ヒトハは庭園の真ん中で立ち尽くし、周囲を見渡した。

「あれ?」

 剪定された木々は目線以上の高さがあり、空は見えても遠くまで見渡すことができない。それに庭はゲストが来ることをあまり想定していないのか、そこそこに暗いのである。
 ヒトハは熱くなった顔を瞬時に冷まし、呟いた。

「──ここ、どこ?」

***

 まさか同じ敷地内で迷子になるとは。
 ヒトハは眉間を揉みながら考えた。考え事をしながら歩いていたせいで、どこから来たのかもいまいち思い出せない。この状況はハーツラビュル寮の迷路で迷子になったときに似ている。あのときは箒があったから、飛べば解決できた。

「でも、箒ないしなぁ……」

 ヒトハはスマホを出そうとして、それも諦めた。そもそも自分の居場所がよく分からないのに、電話をかけたところで無駄だろう。
 とりあえず明るいところに向かって歩いて行けば会場には戻れるはずだから、そこからクルーウェルに電話をかけよう。ヒトハは思い立って、踵を返した。
 見知らぬ場所をひとりでとぼとぼと歩くのは心細いもので、ヒトハは杖に光を灯しながら、考え事を始めた。もちろん、クルーウェルのことではない。リオのことである。
 あの三人に引き離されたとき、確かに自分は何かを飲まされそうになっていた。追い払われた男の反応を見るに、飲んではならないもので間違いないだろう。
 しかし悪戯をするにしても、男と一緒に来た女に仕掛けるものだろうか。あの会場には様々な人がいた。ひとりの人もいないわけではなかったし、自分よりもっと女性的な魅力がある人もいたはずだ。
 ではなぜ、彼らはわざわざ三人がかりで自分たちを引き離そうとしたのか。

(……狙っていたのは、リオさんのほう?)

 一体何を話していたのか、その内容をヒトハは知らない。少なくとも、楽しい話ではなさそうだ。戻ったらリオに聞いてみなければ。
 そこでヒトハは、近くに光を見た。よく見れば、ぼんやりとした灯りの中に人影が見える。それは二つ連なって進んでいた。
 ちょうどいいところに現れたふたりである。ヒトハは救いの光に駆け寄ろうとした。しかし彼らは思いのほか足が速く、そしてヒトハは無駄に細いピンヒールのおかげで遅い。
 近づけば離れる姿にむきになって追いかけていると、二つの光は忽然と姿を消した。

「あれ……?」

 このとき、ヒトハは気にせず別の道を行くべきだった。変な人たちだったと捨ておくべきだったのだ。しかしヒトハは不審に思いながらも、その光が消えた場所へ走った。ただ胸に小さな好奇心が芽生え、それに従ってしまったのだった。

「古い建物……」

 たどりついた先には、建物があった。石造りの、かなり年季の入った建物だ。雑草生い茂る夏の風景に紛れ、長い蔦を外壁にびっしりと這わせている。外壁には箒とバケツが立てかけられているが、直近で使用された形跡はない。
 しかし木製の扉の隙間からは、細い光が漏れていた。中には先ほどのふたりがいるのだろうか。
 怪しい建物だが、とはいえ誰かがいるのに勝手に開けるわけにはいかない。
 ヒトハは扉にちょっとだけ顔を近づけ、その臭いに首を傾げた。

(んん?)

 頭を上げて建物を仰ぎ見る。そこそこ大きいが窓はなく、窮屈そうな長方形の建物だ。

(でも、それにしては……)

 ヒトハは扉に視線を戻した。そのとき、後ろ首にぞわりとした感覚が走った。

「────!?」

***

「それで」

 ベンチに座り、額を抑えていたクルーウェルはリオを睨み上げた。リオはばつが悪い顔で、視線をそっと逸らす。それは学園で仔犬たちを叱り飛ばしているときの、彼らの姿によく似ていた。
 元をたどれば、すべての元凶はこの男である。
 昨年末に大規模なユニーク魔法を発動させてオーバーブロットにまで至り、敷地内にいた全員を殺しかけた。そして今回は彼女をこんなところまで連れ出したのだ。クルーウェルにとっては、疫病神そのもののような男だ。
 しかし悔しいことに、ビジュアルの仕上がりは上出来だった。彼の上品でありながら甘さのある顔立ちは、王道から少し外れたデザインのタキシードとマッチしている。あのヴィル・シェーンハイトにうつつを抜かす彼女のことだ。一目見て大喜びしたに違いない。そういうところが、また腹が立つわけだが。

「よくもナガツキをこんなところに連れ出してくれたな。生まれたての仔犬をドッグランに放つくらい愚かなことだぞ」

 クルーウェルは苛立った声で言った。
 ヒトハ・ナガツキは正真正銘の魔法士だが、この場には似つかわしくない“普通の”女である。普通であることは悪いことではない。しかし海に生きる者を無理やり山に連れて来るようなことは、少なくとも良いことではないだろう。それにあの性格である。怒り半分、心配半分で追いかけて来てみれば、案の定だ。
 しかしリオは、クルーウェルの言葉を聞いても、いまいちピンときていないようだった。

「ナガツキは魔法士だが、魔力も魔法力も充分とは言い難い。それと家柄という点で言えば、お前とは釣り合わない」

 そこまで言ってやっと理解ができたのか、彼は申し訳なさそうに眉を下げた。

「僕の配慮が足りていなかったようです。もう少しヒトハさんと話しをしてから、お願いするべきでした」

 リオは素直に非を認め、それから「あの」と控えめに続けた。

「先生とヒトハさんは恋人同士、なんですか?」
「違う」

 眉を寄せながら、クルーウェルは短く答えた。それがリオの疑問を増やしてしまったようで、彼は躊躇いがちに問う。

「では先生は、どうしてここまで?」

 リオがヒトハと同じ疑問を持つのも、無理からぬことだった。ここは輝石の国である。たまたまその辺にいたというのも考えにくいし、実際に自分は歓喜の港にいたのだ。
 しかし馬鹿真面目に理由を口にするのも癪だった。だからクルーウェルは、適当に誤魔化すことにした。

「仔犬の世話は俺の仕事だ。お前のことも、教授から様子を見てくるように頼まれている」
「え、でも、さっき僕のこと置いて……」
「なんだ?」

 リオはピッと背筋を伸ばし、素早く首を振った。

「い、いえ。助けてくださって、ありがとうございました」

 クルーウェルはそれに尊大な笑みを返した。これで七割は溜飲が下ろうというものである。残りの三割は、今後次第だが。
 リオとの楽しい会話もそこそこに、クルーウェルは会場のある方角へ顔を向けた。 

(あいつ、まだ戻らないのか……)

 この庭園は広いが、会場へは真っすぐに行けばそれほど遠くはない。そろそろ戻ってきてもいい頃合いだった。
 何気なく周囲を見渡していたクルーウェルは、リオがまだ何か言いたそうにしている様子に気がついた。このパーティーにわざわざ参加しようと思うくらいには度胸があるようだが、本来は控えめな性格のようだ。
 ここへ来たのは、彼の父親から様子を見てくるように頼まれたからでもある。先ほどの話は、実際のところ嘘ではない。モーリスは息子のことをよく心配していた。何か焦っているようだと。無理をしていないか心配だと。
 リオはクルーウェルの視線に気がつくと、ぐっと頬を引き締めた。素早く周囲を見渡し、「先生」と声を低くする。聞かれては不味いことだろうか。「どうした」と聞くと、彼は意を決したように口を開いた。

「僕、実はあのとき、少し気になる話を聞きまして……」
「話?」

 あの三人からヒトハとリオを引き離したときのことだろうか。クルーウェルが聞き返すと、リオは無言で頷いた。

「先生とヒトハさんがいなくなった後も、そのことについて聞き回っていたんです。みなさん、僕のことを何というか……舐めている、ようでして……結構簡単に、色々と聞かせてもらえて」

 彼は何とも複雑そうな顔で言った。それはそうだろう、とクルーウェルは思った。
 先ほどはヒトハを引き合いに出したが、彼だって元はこんな場所とは無縁で生きてきたのだ。妙なことを吹き込もうとする輩もいるだろうし、カモにしようとする輩もいるだろう。
 しかしそんな悪い輩の意に反し、彼は彼なりに会場でやるべきことをやって来たようだ。適当に逃げ回っていればいいものを、多少は勇敢なところがあるらしい。

「それで、先生のご意見を聞かせて欲しいのです」

 クルーウェルは眉を上げた。

「なぜ俺を頼る? 父親にでも聞けばいいだろう」
「父はこの場に居ませんし、それに、父は先生のことを信用しています。ヒトハさんも、それから、僕も」

 リオは一度大きく息を吸い込み、そして深刻な声で訴えた。

「ですから、先生を頼りたいのです」

 クルーウェルはリオの強い眼差しに目を瞠った。性格なのか、彼の置かれた状況がそうしたのかは定かではないが、それほどにも彼を突き動かすことがあったのだろう。
 ここまで頼み込まれては断るわけにもいかない。

「お前はおだてるのが上手いな」

 リオはほっとした顔で微笑むと、再び顔を引き締めた。
 それから一息置いて、静かに告げたのだった。

「ここでは、違法に生体の取引がされているようなのです」

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