清掃員さんと先生のサマーホリデーの話
08 再会
クルーウェルは一直線に会場の外を目指した。鏡面のごとく磨き抜かれたフロアを、学園のそれとまるで変わらない勢いで踏み鳴らす。
会場にはゲストがひしめき合っていたが、通り道に困ることはなかった。この煌びやかさに似つかわしくない怒りを惜しみなく発している男を、顔面蒼白の女が速足に追いかけているのだから無理もないことである。彼は振り返りもせず、不機嫌に言った。
「あの野良犬が寄越したシャンパンは飲んでいないだろうな?」
「え!? の、飲んでませんっ!」
ヒトハは何とか慣れないピンヒールを操りながら言い返す。
「まだホストの方に挨拶もしてないのに!」
「どうせ多忙だ。後でいい」
「リオさん、ひとりじゃ不安です!」
「あいつは男だ。お前とは違う」
ヒトハの抵抗をものともせず、彼は会場出口の扉を潜り、玄関ホールまで通り抜けようとしていた。その先は外で、夜の広大な庭園だ。一体どこまで行こうというのか。人が減ったのをいいことに、ヒトハは慌てて叫んだ。
「っていうか先生! どうやってここに!?」
「旅先で偶然教授に会ってな。無理を言って手配してもらった。俺も知り合いの魔法士に連れて来てもらったことになっている」
「教授に!?」
そんな偶然あるものだろうか。この広いツイステッドワンダーランドで、たまたま各地を旅している人に出会うなんて。しかも、そこでパーティーの話まで漏れてしまうなんて。
あんなに気まずい思いをしながら隠し通したのにと思うと何だか無性に悔しくなって、ヒトハは無意味と分かっていながらも食い下がった。
「でっ……でも! ここは若い魔法士たちの集まりですよ!?」
ほとんど八つ当たりである。クルーウェルはそれを聞くなり、ぴたりと足を止め、素早く振り返った。
「──俺は、まだ若い!!」
「ひゃっ!?」
カクン、とヒールが傾く。立ち止まることに失敗したヒトハの体は、今度こそ地面に崩れ落ちたのだった。
「いたたた……」
青いドレス生地の中心でヒトハは呻いた。捻った足首がじんじんと痛みだす。歩けないほどではなさそうだが、復帰にはしばらくかかりそうだ。
足首の痛みを意識すると、今度は指先と踵までもが痛んできたような気がする。圧迫され続けていた指はズキズキとするし、踵は擦れてヒリヒリと痛む。ここまで耐えていたのが不思議なくらいだった。「衣装は持って来なくていい」と言われ、自前の靴さえ用意していなかったことが仇となったのだ。
こんな場所で恥を晒し続けるわけにもいかず、ヒトハはなんとか立ち上がろうと地面に手を添える。そのとき、ちょうどクルーウェルがヒトハの前で片膝をついた。
「あっ!?」
素早く膝の後ろに差し込まれた腕が、ぐんと持ち上がる。突然横抱きにされたヒトハは、たった二本の腕で支えられている不安定さに怯え、クルーウェルの肩にしがみつきながら叫んだ。
「おおお、おろしてください!」
身長こそあれ、どちらかというと細身の男である。重さに耐えきれず落とされては堪らない。
しかしクルーウェルはヒトハの想像よりも遥かにしっかりと体を抱き、なんと歩き始めたのだった。そしてわぁわぁと騒ぐヒトハを「うるさい」と叱った。
「歩けます! 歩けますって!」
「じっとしていろ。落とすだろう」
「だから下ろしてくださいって言ってるんですってばー!」
ヒトハは目尻に涙を滲ませ、かと言って飛び降りる勇気もなく、タキシードの肩をぐしゃぐしゃにしながらしがみ付くことしかできなかった。
「靴選びと健康は無関係ではない」
ん? とヒトハは顔を上げた。
「合わない靴は足を変形させ、歩行に影響を及ぼす。歩行が困難になれば運動量が減り、結果、体力の低下を招く。そればかりではなく、足の筋肉が弱るような病気になれば、いずれは腰痛、肩こり、頭痛などの全身に不調が現れるだろう」
満開の花々がライトの中に浮かび上がる庭園。ロマンチックの限りをつくしたような風景の中で、淀みなく続く“靴と健康”の講義。ヒトハは従順な仔犬たちのように口を噤んだまま、それに耳を傾けていた。悲しきかな、口を挟めば痛い目を見ると体に染みついているのである。
「──つまり」
長々と続いた講義が結論に到達すると同時に、ぴたりと足も止まる。
「見た目ばかりを気にして合わない靴を履き続けるのは愚かなことだ。分かったな?」
「は、はい……」
頷くと、クルーウェルは剪定された植物たちの脇にベンチを見つけ、そこにヒトハを降ろした。そして片膝をつきながら、靴に手をかける。擦れた踵が夜風に晒され、沁みるように痛んだ。彼はヒトハの靴を片手に、深く長いため息を落とした。
「俺が選んだなら、こうはならなかった」
それは不貞腐れたような声だった。いつもと違う野晒しの指先が、ストッキング越しに赤い皮膚をなぞる。ヒトハは鋭い痛みに顔を歪めた。
クルーウェルはヒトハの足を捕まえたまま、短い呪文を唱えた。淡い光と共に疼くような痛みが消え、足がスッと軽くなる。
「応急処置だ。この靴で無理はするな」
彼は顔を上げると、品定めをするようにヒトハの頭の天辺から爪先まで視線を滑らせ、やはり不服そうな顔をした。
「たいそうな衣装だな。あの駄犬からか」
頷くと、彼は「ふぅん」とつまらなさそうに言う。そのうえ「なぜ青を選んだのか、まるで理解ができない」と、文句すら口にした。青を選んだのは自分だが、それを白状する気にはなれなかった。このままでは空気が重くなる一方である。ヒトハは恐々と口を開いた。
「あの、先生はどうしてここに……?」
“どうやって来たのか”は聞いたが、動機をまだ聞いていない。ここは輝石の国である。賢者の島でもなければ、彼の故郷でもない。いくらモーリスの手助けがあろうと、ここへ来るにはとてつもない手間がかかるはずだ。
「それはお前が一番よく分かっているはずだが?」
クルーウェルは目を細め、ヒトハを睨んだ。
「よくも俺に『父親が腰を怪我した』などと、くだらない嘘をついてくれたな?」
その答えに、ヒトハは目を丸くした。彼の目を見る限り冗談でもないらしい。
つまり、彼は嘘をつかれた怒りでここまで遥々追いかけて来たのである。なんというプライドの高さ。なんという執念。あの嘘が、まさかこれほどまでに彼を怒らせることになってしまうとは思わなかった。
「ご、ごめんなさい……」
ヒトハは萎れた。考えてみれば、この嘘のために彼は不要な魔法薬を作ろうとしてくれたし、健康な父を心配してくれたのだ。その件に関しては言い訳のしようもないことで、自分にできることは素直に謝ることだけである。
クルーウェルは再び深いため息をつき、ゆっくりとした口調でヒトハを問いただした。
「なぜそうまでして、こんなところに来た?」
「だ、だって……」
じっとこちらを見上げる目から逃げるように、ヒトハはベンチの木目に目を移した。
「先生、リオさんのこと嫌いみたいだし。パーティーのことを言ったら、ダメって言うかなって……」
ヒトハは思った。あの日リオの話で衝突していなければ、今日のことをクルーウェルに言っていたかもしれない。手紙の送り主のことも教えただろうし、ポムフィオーレの生徒たちではなく、彼に意見を聞いていただろう。
「でも、私、リオさんの力になりたかったんです」
一度は断ろうとも思った。けれど手紙に書かれていた切実な願いを無視することはできなかった。困難な道を歩んでいた彼が、あの冬以来、初めて頼ってくれたのだ。自分にできることをしたかった。それからヒトハは、言いにくそうに付け加えた。
「それに……島の外の魔法士の人たちにも、興味あったし……」
「興味?」
クルーウェルはぴくりと眉を動かした。
「その結果があれか?」
あれ、と言われた、先ほどのことを思い出す。彼らの意図は分からないままだが、少なくとも良いことではないのだろう。それを言われてしまっては、ヒトハは何も言い返すことができない。
「俺は昨年末、お前に教えたな? ここにどういう層の魔法士がいるのか、まさか分からないわけではあるまい」
彼は声を怒らせた。
「お前は極東から来た普通の魔法士だ。素朴で善良な、ただの、ヒトハ・ナガツキだろう。わざわざあんなところに飛び込んで、自ら食いものにされようとでもいうのか?」
クルーウェルは立ち上がり、ヒトハの肩を掴んだ。外気に晒された肩は冷たく、熱い手から怒りが伝わってくる。
彼はどうしようもなく怒っていた。その怒りはヒトハの嘘に対するそれよりも、遥かに大きく思えた。
「あいつの力になりたいだと? 馬鹿げたことを! そのせいでお前が傷ついたらどうする!」
その剣幕に、ヒトハはたじろいだ。同時に、胸にモヤモヤとしたものが噴き出す。
彼の言いたいことは分かる。心配してくれていることも、悪意があって言っているわけではないことも。他人から見れば、彼の主張はきっと正しいのだろう。
──でも、違う。違うのだ。
ヒトハは声を震わせた。
「私が、友人を助けたいと思うことは、馬鹿げたことですか……?」
考えなかったわけではない。違う世界に踏み込んで、嫌なことがあるかもしれないと思っていた。そして実際にそうだった。けれど、それを承知でここへやって来たのだ。リスクと心を天秤にかけ、大切にしたいほうを選んだ。
友人を助けたいと思うことは、馬鹿げたことなのか。少なくとも、ヒトハにとってはそうではない。
「嘘をついたことは、ごめんなさい。心配させてしまったことも。一言でいいから先生に相談したらよかったと後悔しています」
ヒトハは息を吸い込んだ。
「でも! 私にだって、私の力で守りたいものくらいあります!」
吐き出した言葉と一緒に、ぽろりと滴が落ちる。リオを助けたいと思った。彼にだけは、他の何を責められようとも、その気持を否定して欲しくはなかった。
彼はいつも危ないことから守ってくれる。学園でも、あの昨年の冬の日でも。けれど、そればかりでは駄目だ。自分にだって何を賭してでも守りたいものがあり、助けたいものがある。ちっぽけなプライドだと分かっている。けれど、そのちっぽけなものを自分も持っているのだと、分かって欲しい。
人と向き合うは難しい──リオの言葉が急に頭に蘇ってきて、ヒトハは俯いた。言いたいことを言って、そしてそれを理解してもらうのは難しい。吐き出して空っぽになってしまった心に、じわじわと後悔が満ちていく。我儘だと思われたかもしれない。嫌われたかもしれないと思うと、心が怯んだ。
庭園の植物たちが夜風でさわさわと揺れる。ヒトハは俯いた顔を上げられないまま、彼の言葉を待った。
「ナガツキ」
ヒトハの予想に反して、落ち着いた声が頭上から降ってくる。先ほどまでの強い口調ではない。そっと顔を上げると、クルーウェルは再び腰を折った。ベンチに座り込んだままのヒトハと目線を合わせ、その顔を覗き込む。彼の銀色の瞳からは、燃えるような怒りが消えていた。
「言い方が悪かった。俺は、他人のために無茶をするなと、言いたいんだ」
彼はゆっくりと言った。おもむろに腕を伸ばし、ヒトハの目元を指先で拭う。すん、と鼻を啜ると、眉を下げ、唇に微笑を浮かべた。
「どうすればお前は、お前の価値を受け入れてくれるんだ?」
価値? ヒトハは首を傾げた。すると彼は、少し考えて問い直す。
「俺のことはどうでもいいのか?」
ヒトハは慌てて首を振った。
「そんなこと、ないです。絶対に」
それを聞いて、彼は満足そうに頷いた。
「それなら、俺を心配させるような真似はするな」
「いいな」と念を押され、ヒトハはぎこちなく頷く。ここまで言われてやっと、彼が怒っている“本当の理由”が分かったような気がした。
ヒトハはもう一度、すんと鼻を啜った。
「先生は、私を心配して来てくれたんですか?」
今度はヒトハが問うと、クルーウェルは「まあな」と肩をすくめた。
「しかし俺に嘘をついたことも、隠れて男と会っていたのも、許し難い行為だ。躾は悪い行いをした直後にしなければ意味があるまい?」
いつもの彼らしい理由に、ヒトハは思わず笑った。
やはり嘘をついたことも、彼をここへ導く要因になっていたらしい。しかしどこか言い方が引っかかって、ヒトハは「ん?」と首を傾げた。
「じゃあ、女の人だったらよかったんですか?」
隠れて男と会っていたのが駄目だったなら、女ならよかったのだろうか。ヒトハの素朴な疑問を聞いて、クルーウェルは驚いた。
「それを俺に聞くのか?」
ヒトハの答えを聞く前に、続けて問う。
「分かって言っているのか? それとも、分からずに言っているのか?」
「分からないから聞いてるんです。リオさんが嫌いだからじゃないんですか?」
むきになって言い返すと、彼は「あいつが嫌いだから?」と愕然とした。そして眉間を摘まみながら「お前は、本当に……」と唸る。どうやらいけないことを言ってしまったらしい。
「えっと……ごめんなさい?」
ヒトハが顔を覗き込むようにして様子をうかがうと、クルーウェルは突然顔を上げた。不機嫌そうに口を曲げているが、頬の天辺に、ほんの少し赤みが差しているようにも見える。
「いいだろう。いい加減、分からせてやる」
再び手が伸びてくる。それはヒトハの乾いた頬を触り、耳飾りをなぞった。
「……やはり色が気に食わんな。しかし、物はいい」
「先生、くすぐったいです」
急にどうしたのだろう。落ち着かず身を捩ると、彼は目を細め、ちょっぴり意地悪な顔をした。
ひたりと大きな手が頬を覆う。ヒトハはその熱さに心臓を跳ねさせた。こちらを見る目は真剣で、ヒトハはそれに怖気づきながらも、そこから目が離せなくなってしまう。
(熱い……)
のぼせたように頭がぼうっとしてくる。
そういえば、今日の彼の姿をよく見ていなかった。でも今は、黒の蝶ネクタイも似合うだとか、今日は赤色がないだとか、近くで見るとメイクがいつもと違うだとか、そういう頭を使わないことしか考えられない。
何か言わないと。ヒトハは口を開いた。
「せ──」
それとほとんど同時に、静まり返っていた庭園に「あ!」と驚いた声が響く。
(……あ?)
ヒトハとクルーウェルは素早く声のしたほうへ振り向く。
そこにはなんと、リオが大手を振りながらこちらへ駆けて来る姿があった。ヒトハは覚醒し始めた頭で、自分の状態を冷静に理解し始める。
クルーウェルとの距離はいつの間にか近くなっていた。あと少しで息がかかるくらいには。
「ヒトハさん! クルーウェル先生!」
「ゔわ────────っ!?」
ヒトハは慌ててクルーウェルの肩を両手で押しやり、勢いよく立ち上がった。ぐい、と目元を拭い、すっかり存在を忘れていたパーティー用のクラッチバッグを抱える。
思い出した。そうだ、まだパーティーは続いているのだ。化粧を直さなければ、彼らと共に会場に戻ることはできない。
「わ、わわ、私! お化粧を直しに行ってきます! すぐに戻るので! すぐに!」
「な」
そして唖然としているクルーウェルとリオを置いて、ピュンと元来た道を駆け出す。
「おい! その靴で走るな!」
怒鳴り声が聞こえたような気がしたが、ヒトハの真っ赤な耳では正確には聞き取れなかった。走る足も痛みを主張する暇がなく、立ち止まることもなかったのだった。
残された男ふたりは威勢よく走って行ったヒトハを見送る間、しばらく無言の時間を過ごした。
リオは自分が何をしたかをじわじわと理解し始め、気まずい顔でベンチの前で途方に暮れる男に顔を向ける。
「……せ、先生?」
男はこちらを見もしないまま、感情を抑え込んだ声で言った。
「この、駄犬が…………」
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