清掃員さんと先生のサマーホリデーの話

07 予感

「げ」

 ヒトハはテーブルに放っていたスマホを拾い上げて、ぶるりと身震いをした。
 パーティーの身支度で忙しくしている最中に着信が入っている。しかもなんと、あのクルーウェルからである。いよいよというときに限って連絡を寄越すとは、彼は予知能力でも持っているのだろうか。
 今すぐ折り返したところで墓穴を掘るに決まっている。ヒトハはひとまず、その着信を見ないことにした。少し遅くはなるが、明日の早い時間にでも返せばいい。まずは今夜を乗り越えること。それが何より重要なことなのだから。
 誰もいない広い部屋で鏡の前に立ち、ヒトハは自分の姿を前にため息を漏らした。質の良い衣装に身を包んでいるだけあって、黙っていればそれなりの見栄えである。深く鮮やかな青色のドレスの丈は長く、しかし程よく胸元を露出させている。髪はまとめ上げ、晒された両耳はドレスと同じ色の宝石をあしらった耳飾りが飾った。
 夜のパーティーはこういうものだと聞いてはいたが、いつも制服で首から足首まで隠している身としては落ち着かない。それに、うっかり汚しでもしたら──考えるだけでもぞっとする。今日は一滴も酒を飲まないと心に誓い、最後の仕上げにドレス用のグローブを拾い上げたとき、背後からノック音が響いた。

「どうぞ」

 静かに礼儀正しく入室した青年は、ヒトハの姿を見ると、眩しそうに目を細めた。

「よく似合っていますよ」
「リオさんも」

 ヒトハが照れながら言い返すと、リオは「ありがとうございます」と頬を赤らめた。ドレスコードに合わせた黒のタキシードだが、彼が着ると一段と華やかに見える。見劣りしないか不安だが、今日の衣装であれば、なんとか隣に立つのを許されるだろうか。
 リオはふと、ヒトハの手に目を留めた。手首の先まで痛々しい怪我の痕が残った手だ。視線に気がついたヒトハは、ぱっと両手を胸に抱く。

「すみません。びっくりしましたよね」
「いえ。僕こそすみません、不躾な真似を……。父から聞いています。その怪我の痕を消すために、クルーウェル先生と魔法薬を作っていると」

 考えてみれば当然のことである。彼は父親の仕事について回っているのだから、素材の仕入れも見ているし、ナイトレイブンカレッジに素材を送る理由だって知っているはずだ。
 ヒトハは両手をほどき、それを見下ろした。青いドレスの生地を背景に、爛れた傷痕はよく目立つ。早く手袋のない生活に戻りたい。傷痕を見るたびに思うのに、そこには真反対の心もあった。

「教授のおかげで、魔法薬作りも順調なんです。この前も……ちょっと問題はありましたけど、成功でしたし。手袋が要らなくなる日も、きっとすぐに来ると思います」

 ただ、とヒトハは眉を下げた。

「最近、よく考えるんです。この治療が終わったら、どうなるんだろう。この時間はなくなっちゃうのかな……って。たぶん私は、先生と試行錯誤している時間が好きなんです」

 最初は本当に辛くて、一刻も早く傷痕を治すために魔法薬を飲んでいた。だから週に一度、彼に会っていたのだ。でも今は、少し違う。気づかないうちに見出してしまった感情は、きっと本来は抱くべきものではない。だから後ろめたくて、たまに辛い。
 ヒトハは誤魔化すように笑った。

「こんなことでモヤモヤしちゃって。教授にも協力してもらってるのに、失礼ですよね」

 リオはじっとヒトハを見つめていた目を伏せ、いいえ、と首を振る。ヒトハには、それがどこか寂しく聞こえた。けれどすぐにいつものように微笑んで、彼は言った。

「いっそ、正直に伝えてみてはどうでしょう。そのほうがスッキリしますし、ヒトハさんの気持ち、先生も分かってくれると思います。ちゃんと言葉にすれば……」

 ふっと言葉が途切れる。もう一度まばたきをしたとき、彼は頬を掻きながら苦く笑った。

「いえ、僕が言えたことではないですね。最近『ちゃんと話をすればよかった』と後悔したことがあったもので」
「リオさんも?」
「ええ。人と向き合うのって難しいですよね。僕は昔から、どうにも苦手で」

 彼はせっかく整えた頭を掻き、困ったように言った。

「今日も今から緊張してます。友人として、隣で応援してくれますか?」

 ヒトハの前に、リオの手が差し出される。窓の外では太陽が傾き、そろそろ出発の時間だ。ヒトハは改めて、今日の目的を思い出した。
 リオが魔法士として踏み出す一歩をサポートする。そのために遥々やって来たのだ。
 ヒトハはリオの手を握り、頷いた。

「もちろん、全力で応援します。今日は一緒に頑張りましょう!」

 リオが言うには、今回のパーティーのホストは若い実業家なのだという。魔法士としての実力もあり、たびたびこうして人を集めては、同世代の魔法士たちとの交流の機会を設けている。
 リオは彼の名を知っているだけで、会ったことはないと言っていた。しかし見せてもらった招待状は魔法道具で、開くと会場の外観を立体で見せてくれる手の込みようである。やたらキラキラと鱗粉のようなものを舞わせるので、恐らく結構な派手好きだろう。あまり煌びやかな場所は得意ではないから、今から不安である。
 会場は屋敷から遠くはない、静かな場所にあった。広い敷地は木々で覆われ、中央には白く洗練された建物が建っている。フォレストの屋敷に比べれば、ずいぶんと現代的な建築物だ。結局ふたりがそこにたどりついたのは、日が落ちきってからのことだった。
 ゲストのために開かれた門は外灯に照らされ、黄金の輝きを放っている。予想通り派手な門構えだ。中に見える広大な庭園も見事なものである。
 そんな庶民が尻込みしてしまうような場所にも、他のゲストたちは慣れた様子で入っていく。彼らの中には誰ひとりとして、非魔法士は存在しなかった。
 同じ魔法士同士であれば、相手の技量──たとえば、魔力の大きさは大まかに感じ取ることが可能だ。近くを通って行った魔法士たちは当然ヒトハよりも遥かに格上であり、リオはその更に上をいく。たまに寄せられる目に嫌なものを感じながら、ヒトハは彼らと同じように門をくぐった。

(学生の頃を思い出しちゃうなぁ……)

 魔法士と名乗るにはあまりにも魔力が少ないヒトハを、同級生たちは決して受け入れることはなかった。特別な力を得た者たちのプライドが、それを許さなかったのだ。

(慣れてると思ってたけど、これはなかなか)

 大人になってからは学園以外の魔法士と接触する機会があまりなかったから、すっかり忘れていた。思い出して、少し嫌な気持ちになる。“慣れている”ということは、“何も感じない”ということではない。

「──いっ!?」

 突然、カクンと体が傾いた。ヒトハは慌てて差し伸ばされた腕に縋り、間一髪のところで踏み止まる。何事かと足元を見れば、そこには小指の爪ほどの小さな小石が転がっていた。ピンヒールの先で運悪く踏んでしまったのだろう。これからだというのに、なんて幸先の悪い。
 邪魔な小石を爪先で蹴って、ヒトハはため息を吐いた。慣れない衣装、慣れない靴。慣れない景色、慣れない人たち。どこか窮屈で、ここは自分の居場所ではないのだと、たった一粒の小石からもひしひしと感じた。

「大丈夫ですか?」

 リオの心配そうな声に呼び戻されて、ヒトハはすぐに笑顔を取り繕った。

「ええ、大丈夫です。ちょっと小石を踏んだみたいで」

 そんなこと、最初から分かっていたはずだ。弱気になっている場合ではない。まだ何も始まってすらいないのに、この程度で挫けるわけにはいかなかった。

 広い庭園を抜け、ふたりはやっとのことで会場にたどりついた。
 会場は驚くほど広い。それは面積だけではなく、高さにも言えることだった。ヒトハの目に入った範囲だけでも、いくつもの巨大なシャンデリアが天井を飾っている。クリスタルが惜しみなく使われたそれは、鏡のごとく磨きぬかれたフロアに輝きを落とし、会場中を明るく照らしていた。
 若い魔法士の交流を目的としているというだけあって、会場には惜しみなく魔法が使われている。会場の隅で楽器は勝手に音楽を奏で、銀のトレーは宙を飛んで空のグラスを回収して回った。ゲストは獣人属なども入り混じっていたが、みな揃ってヒトハより若いか同じくらいの見た目をした人たちである。この会場にいる人たちすべてが魔法士なのだ。給仕人もどこかしらに杖をさしているから、彼らも例外ではないだろう。

「ヒトハさん」

 リオの声に引き戻され、ヒトハはパチパチとまばたきをした。

「すみません。圧倒されちゃって……」
「いえ、想像以上ですよね」

 リオは落ち着いた声で言って、すっと横から腕を差し出す。一体なんだと顔を見上げれば、彼は「手を。今日だけ、いいですか?」と照れ臭そうに言った。よく周りを見渡せば、お手本はいくらでもいた。

(映画でしか見たことないや)

 どうしてみんな当たり前のようにできるんだろう。
 ヒトハは手にしていたクラッチバックを持ち直した。そして遠慮がちにリオの腕に手を置き、ゆっくりと会場の中へ向かったのだった。

 レナード・フォレストがこの国の若い魔法士たちにどう思われているのか。それを知るのは容易いことだった。背中にチクチクとした嫌な視線を感じながら、ヒトハは会場を見渡すふりをして周囲を見やる。先ほどは自分に向けられたものに神経を使ったが、冷静になってみると、リオに向けられるもののほうが遥かに大きく、そして重いことに気がつく。聞こえないように囁かれる言葉は、決していい言葉ではないだろう。
 魔法士にとってのオーバーブロットとは、それだけ恐ろしいことなのだ。負の心を制御できなかった、無謀なまでの力を振るった、それによって誰かを殺す可能性があった。その一方で、オーバーブロットは力の強い魔法士の象徴でもある。リオに向けられる目は、嫌悪というよりは畏怖に近い。大きな注目を集めながらも誰も近寄ろうとしないことが、その証明だった。
 ヒトハはちらりと隣を見上げた。リオは緊張した雰囲気を纏いながらも、穏やかな表情をしている。攻撃的な雰囲気があるわけでもない。一言でも話せば、みんな努力家で優しい彼のことを好きになってくれるはずだ。せめて彼のことを知ってもらえれば──

「おや、珍しい方が」

 ヒトハとリオはその声に振り返った。人当たりの良さそうな三人の男たちがこちらへ歩み寄って来る。

「レナード・フォレストさんですよね? ここに来たのは初めてですか?」

 ひとりが片手を差し出し、リオはそれを握った。

「はい。初めて招待していただきました」
「なんと、初めての参加で出会えるとは。私たちも運が良い」

 彼らはリオについて十分に知ったうえで声を掛けてきたようだった。他の魔法士と繋がる切っ掛けがない状況である。興味本位であったとしても、話しをしない手はない。
 彼らとは互いの自己紹介から始まり、そこから話を深く掘り下げていった。聞けば彼らはノーブルベルカレッジ出身だと言う。ヒトハはさっそく東方出身を言い当てられ、案の定リオは世間をにぎわせた話題を持ちかけられた。彼らは終始にこやかであり、そして友好的だった。

(あれ……?)

 だからヒトハは気づくのが遅れてしまった。いつの間にか会話が分断されているのだ。リオはふたりの男を相手にしていて、もうひとりに別の話題を持ちかけられたヒトハは、彼らの会話の内容がまるで分からない。ついに男が話しながらリオと距離を取ったとき、ヒトハは初めてはっきりと戸惑った顔を見せた。

「──あの」

 会話を遮り、声を上げる。そしてリオの元に戻りたいと目線で示す。
 普通であればそれで通じるところなのに、男はまるで知らないふりをした。何事も無かったように持て余していた黄金色のシャンパングラスを差し出し、にこやかに笑う。

「気が利かず申し訳ありません。喉は渇いていませんか?」
「あ、えっと……?」

 男とグラスを交互に見やり、頬を引きつらせる。ヒトハは仕方なく、おずおずとそれを受け取った。

(怪しい……)

 今すぐリオと合流すべきだ。このまま流されてしまうべきではない。分かってはいるが、男の言葉は巧みで、ヒトハに考える隙を与えない。
 強引に逃げてもよかったが、ヴィルの言葉が頭をよぎり、踏み止まる。ここは学園ではない。今日は──今日だけは、悪目立ちをするわけにはいかないのだ。何か穏便に切り上げられる口実を探して、上の空で相槌を打っているときだった。
 ヒトハの手から、やんわりとグラスが取り上げられる。

「申し訳ない。彼女は飲めないんだ」

 聞こえるはずのない声が耳の後ろから聞こえ、ヒトハはひゅっと息を吸った。まるで申し訳なさなんて一切感じていないような、高圧的な声だった。

(なんで……)

 グラスはそのまま元の持ち主に押し付けられた。同時にヒトハの腰には腕が回り、ぐっと横に引き寄せられる。不意を突かれてよろめいた体は、トンとその人の胸に寄りかかった。他のゲストと変わらない黒いタキシード、白いシャツ。耳に冷たいサテンのラペルが触れたところで、ヒトハはようやく息を吹き返した。
 顔を見上げる度胸はない。とはいえ、わざわざ確認するまでもない。声、息遣い、立ち方、所作のすべてに覚えがある。しかし香水だけはいつもと違う華やかさで、そういうところが、まさしく彼なのだった。
 クルーウェルは軽い口調で男に問いかけた。

「飲まないのか?」
「あ、いや……」
「遠慮することはない」

 静かで、優しく、穏やかな猫撫で声が、すかさず男の首根っこを掴む。この状態から逃げられる仔犬は、学園中を探してもレオナか茨の谷の生徒たちくらいのものだろう。
 要するに彼は、この哀れな駄犬に「飲め」と強要しているのである。
 しかし男は狼狽えるばかりで、決してグラスに口を付けようとはしない。

「飲めないのか」

 急な唸り声に、周囲の温度がぐんと下がる。男の目に怯えが浮かび、それに釣られてヒトハは自然と肩を強張らせた。怒っている。それも、とてつもなく。
 クルーウェルは一拍の間を空けて、低く唸った。

「失せろ、野良犬が」

 その声には守られているはずのヒトハでさえ震え上がった。それを正面からぶつけられた男は、ひとたまりもないだろう。彼は「失礼しました」と怯えた声を絞り出し、逃げるようにその場を立ち去った。仲間ふたりを置いて、薄情なことである。
 ヒトハといえば、がっちりと腰を抱かれて逃げることもできないまま、だらだらと冷や汗を流し続けていた。一体なぜ、どうして。脳内を同じ疑問がぐるぐると駆け回る。
 このままでは屋敷の女性たちから散々飾り立てられた顔が崩れてしまう。そろそろと脱出を試みたヒトハだったが、クルーウェルはそれを素早く見咎めた。

「ステイ」
「……はい」

 彼は脱走する気力を失ったヒトハを捕らえたまま、未だ囚われたままのリオに向けて人差し指を立てた。

「駄犬、貴様はいつまで話し込んでいる」

 ぐん、とリオの腕が引っ張られ、一瞬のうちにふたりの前に引き出される。呆気にとられた残りの男たちをひと睨みで追い払うと、クルーウェルは厳しい声で言った。

「目を離すくらいなら連れて来るな」
「く、クルーウェル先生……?」

 リオもまた、目を白黒とさせながらクルーウェルを見上げている。
 この場所にいるはずのない人だ。なぜなら、ここはヒトハやリオと同年代の“若い魔法士が集うパーティー会場”だからである。
 クルーウェルはパッとヒトハを解放すると、今度は腕を掴んだ。

「この駄犬に話がある。その辺で適当に時間を潰していろ」
「え」

 ヒトハはリオと同時に、似たような声を上げた。たぶん、顔も似たような表情をしているのだろう。

「あ、ちょっ……」

 有無を言わさず引っ張られ、慌てて両足を動かす。そこで初めて彼の顔を見て、体中から一気に血の気が引いた。

(死んだ……)

 ヒトハは数分後に訪れる未来を予想し、首だけでリオに振り返った。
 会場にポツンと残された彼もまた、絶望の表情を浮かべていたのだった。

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