清掃員さんと先生のサマーホリデーの話
04 再会
雲一つない晴天。澄んだ空、と言うよりは、青を均一に塗りたくったような鮮やかな空が頭上に広がっている。この気持ちの良い日に、ヒトハは体を縮こまらせ、怖い顔をした男を見上げていた。木陰の下は涼しいが、いささか冷えすぎではないだろうか。滲んだ汗が体を冷やしているからか、それとも、彼の背後に見える季節外れの吹雪のせいなのか。
「何だと?」
低い声にビクリと体を揺らす。ヒトハが顎を引いて「すみません……」と謝ると、彼はバツの悪そうな顔で「いや、悪い」とため息をついた。ヒトハは慌てて首を横に振る。
「い、いえ、いいんです」
どうして自分の行動は、こうも間が悪いのか。
手紙のことをヴィルたちに相談した次の日、ヒトハは植物園近くの木陰でクルーウェルに出会った。彼は周りに誰もいないのを確認しながらヒトハを引き止め、こう言ったのだ。
『ホリデー中に旅行に行かないか?』
先日の話の中でホリデー中は暇だと知ったからだろうか。ヒトハにとっても長いホリデーに楽しみができるのは嬉しいことだから、最初はクルーウェルの誘いを喜んだ。
──そう、最初だけは。
ヒトハは結局、断腸の思いで誘いを断ることにした。なぜなら、彼の言う日程には“先約”がある。ほんの数分前に、リオに返事を送ってしまったのだ。魔力不要のスマホのメッセージで、『私でよろしければ』と。
しかも、パーティーのことを正直に伝えればよかったのに、ヒトハはそうはしなかった。
話せるはずがない。その日は嫌いな人に会いに行くだなんて。それを彼に黙って決めただなんて。絶対に怒るし、怖い。
結果的に“怯えさせてしまった”と勘違いまでさせてしまい、ヒトハは尚更あとには引けなくなってしまったのだった。そして、今に至る。
「しかし一昨日の段階では実家に帰るくらいで暇だと言っていたじゃないか。急に予定でも入ったのか?」
「あ、あー……そうですねぇ……」
クルーウェルの恨めしそうな目を受け流すように、ヒトハはうろうろと視線を彷徨わせた。今更正直に言ったところで十割増しの雷だ。ならば隠し通すしかない。知らなければ、彼にとっては無かったも同然である。
「そ、そのぉ……」
ヒトハは焦っていた。クルーウェルは学園内の教師陣の中でもそれなりに恐れられている部類の人間である。理由は見ての通り、怖い。圧が強い。だから怯える仔犬たちと同様に縮こまりながら、更なる怒りを買わないように、ヒトハは考えた。そして考えた結果、うっかり最も悪い手を選んでしまったのだった。
「ち、父が腰を…………やってしまいまして」
「腰を?」
ヒトハは極東で元気にしているであろう父親に脳内で両手を合わせながら、自分でもびっくりするほどスムーズに嘘を吐いた。
「それはもう、大きな荷物を持ったときに、グキッ! と」
腰を痛める瞬間を想像したのか、クルーウェルは痛そうに顔を歪める。
「それは……大丈夫なのか?」
「え、ええ。ただ、お医者様に絶対安静と言われていますので、ホリデー中は実家のことを手伝おうと思っています。ですので、ちょっと時間がないと言いますか、なんと言いますか」
背中に汗が滲んできた。嘘はあまり得意ではないし、クルーウェルは敏感だから一瞬で見破られる可能性がある。しかし疑いよりも心配が勝っているのか、彼はヒトハの幼稚な嘘にもまったく気がつく様子がない。
(すごい罪悪感……)
あまりの後ろめたさに胸がチクチクと痛む。
だが、ヒトハはあらゆる方面に手を合わせつつも、この場を切り抜けることを優先した。そう、“嘘も方便”なのである。
「ですから、今回はすみません。ウィンターホリデーで予定が合えば、また一緒に旅行しましょう?」
極めつけに目をパチパチとさせる。途端にクルーウェルは胡散臭そうな目をしたが、結局は観念したのだった。
「そうだな。引き止めて悪かった。ご両親によろしく伝えておいてくれ」
「いいえ、誘っていただけて嬉しかったです」
ヒトハはほっと微笑んだ。旅行のお誘いも嬉しいが、サマーホリデーの数日間を一緒に過ごそうと思ってくれたことが、何より嬉しかったのだ。
次はもっと早くに、自分から旅行に誘おう。ヒトハはこのとき、心に決めたのだった。
「ああ、そうだ」
最後にクルーウェルが思い出したように言い、ヒトハは首を傾けた。
「あとで治癒用の魔法薬を調合してやるから、極東に持って帰るといい。きっとすぐに良くなる」
「え」
さっきまで引いていた汗が、どっと噴き出す。
今現在、健康そのものの父に? 魔法薬を?
「あ、ありがとうございます……」
ヒトハは引き攣った顔で感謝を述べながら、数分前の自分の選択を深く後悔したのだった。
***
到着駅を告げるアナウンスにゆっくりと瞼を開き、ヒトハは前回と違って誰もいないふたり掛けの席を眺めた。昨年末は列車に揺られながら小難しそうな本を開く彼がいて、話しかければ暇つぶしに付き合ってくれたものだが。
(夢か……)
ひとりで乗る列車がこんなに退屈で寂しいものだとは思わなかった。だからきっと、あの日のことを夢に見たのだろう。
クルーウェルの誘いを断ったときの罪悪感は、しつこく刺さった棘のようにチクチクと胸を痛めつけた。完全なる自業自得だが、彼の機嫌を損ねないためには、ああする他に良い方法が思いつかなかったのだから仕方がない。なんとか魔法薬については断ることはできたが、その理由ですらも嘘なのである。ひとつ吐けばまたひとつと上塗りされていく罪悪感は、ヒトハの心を鉛のように重くしていった。
ヒトハは眠気眼のまま、窓の外に顔を向けた。同じ線路を走っているのに、景色は見覚えのないほどに様変わりしている。純白の山々は深い緑に色づき、雪に溶け込んでいた白い空は、山の形をなぞるようにして晴れやかな青に染まっていた。次は夏においで、と言われて早くも半年後に戻って来ることになろうとは、誰が想像できただろうか。
ガタンと小石を踏んだような衝撃に体を揺らし、ヒトハは到着に備えて足元に置いていたトランクに手を添えた。ゆっくりと停車を始めた車内で腰を上げ、それを持ち上げる。
(やっぱり先生の言う通り、早く買い替えればよかった)
その後悔は、やはりヒトハの胸をチクチクと痛めつけたのだった。
ぞろぞろと列車を出る乗客たちを追って、ヒトハはホームに降り立った。以前来たときのような凍える寒さもなく、乗客たちは身軽で賑やかな装いをしている。できれば自分も夏らしい軽装でいたかったが、こんな暑い夏日にも手袋は手放せなかった。
(ま、気にしなければいいんだけど……)
ヒトハは記憶を頼りに、ホームにごった返す人の間を縫って歩いた。大きな荷物を持って歩き回るのは女性の身では一苦労だ。
改札を出て、見覚えのある階段を下りる。その先に広がっているのは、強い日差しを浴びて白く輝く輝石の国。雪こそ無いが、見覚えのある街並みに、ヒトハはホッと息を吐いたのだった。
「やっと着いた……」
魔法の移転装置を使う手もあったのに、遠慮して断ってしまったのは完全に失敗だった。そこまで過酷な道中ではなかったという記憶が強く、旅行気分を味わおうとしたせいである。
とぼとぼと駅近くの待ち合わせ場所に向かったヒトハは、そこで前回同様に待ちぼうけるつもりでいたのだが──車の前に立つ青年を見つけて、慌てて駆け出した。
「リオさん!」
車の前でスマホに目を落としていた彼は、パッと顔を上げた。夏の太陽よりも眩い笑顔で「ヒトハさん!」と嬉しそうに名前を呼ぶ。
ほっそりとした体つきの彼は白く柔らかな髪を夏風に靡かせ、道行くおば様たちを射止めながら腕を振った。真夏にありながら静かな冬を思わせる彼──レナード・フォレスト。輝石の国で出会った、魔法士の金の卵である。ヒトハはクルーウェルの誘いを断って、遥々彼に会いに来たのだった。
「本当に引き受けてくれるとは思っていませんでした」
リオは照れ臭そうに笑いながらハンドルを切った。助手席に座るヒトハは落ち着きなく指先を弄り、ぎこちなく笑う。
いつもメッセージのやり取りはしているのに、実際に会うのが半年ぶりだからか妙に落ち着かない。それに最後に見た彼はオーバーブロットの影響で疲れきっていて、今の姿とは遠くかけ離れていたのだ。
丸くなっていた背はピンと張り、青白さの抜けた肌は陶器のように艶やかで、でも健康的で。ウェーブがかった髪は外の光を受けて王冠のように輝いている。落ちくぼんでいた目には光が戻っていて、瞬きをするたびに白い睫毛からキラキラと小さな星が放たれるようだった。
元気になってよかった、と安心するのと同時に、自分は本当にここにいていいのかと不安にもなってくる。
「あの」
信号待ちで静かになった車内に気まずさを覚え、ヒトハはおずおずと口を開いた。
「パーティーのパートナーなんて……本当に私で大丈夫なんですか?」
ヒトハが不安そうに問うと、リオはパッと振り向き、力強く答えた。
「もちろん!」
ププーッ! とクラクションが鳴る。慌ててハンドルを握り直し、彼は正面を見据えながら、しどろもどろに続けた。
「元々、出席自体悩んでいたんです。魔法士の知り合いはほとんどいませんし、まだ魔法士の資格もちゃんと取れていないですし。けど、だからといって逃げ回っていては、いつまでも彼らの世界に馴染めないと思って」
ルームミラーに映ったリオの目が、焦りの色を帯びている。
ヒトハはヴィルの話を思い出した。彼は事件の後、各地を転々としていたのだ。勉強のためとはいえ、あんな事件を引き起こした後である。逃げてしまったと、彼なりに後ろめたさを感じているのかもしれない。ヒトハにはまだ焦る必要なんてないように思えたが、リオにとってはそうではないのだろう。背負っているものが違うのだ。それは自分には到底想像が及ばないものに違いなかった。
「正直なところ、不安です。でも、僕を助けてくれたヒトハさんが一緒にいてくれるなら、少しは勇気が出るかなって」
リオは頬を染めながら言った。そのとき初めて、ヒトハは自分が呼ばれた理由を悟った。
彼は勇気が欲しかったのだ。自分の挑戦を隣で応援してくれる人が欲しかった。敵か味方か分からない人たちが大勢いる中で、間違いなく味方でいてくれる人。それなら、自分にもなれるかもしれない。
ヒトハは拳を握り、運転席に体を向けた。
「私、ちゃんとできるか分かりませんけど、精一杯パートナーを務めさせていただきますね! 一緒に頑張りましょう!」
ヒトハが意気込むと、リオは曇っていた顔を崩して、おかしそうに笑った。
「そうは言ってもカジュアルなパーティーと聞いています。せっかくですから、美味しいものを食べて楽しみましょう」
「そうですね」
ヒトハは頷いた。
これから彼が踏み出す一歩をできる限りサポートしよう。そう決意したのだった。
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