深雪の魔法士
15 旅の終わり
「私、目が覚めたとき、天国かと思ってびっくりしました」
「まぁ……確かに一度死んだかと思ったな」
見計らってテーブルに並べられたお茶菓子をつまみながら、ヒトハはしみじみと言った。
あの後、呪いが解けた屋敷の人たちは様子を見に外へ出て、図書館の惨状に気がついたのだという。屋敷内も外もオーバーブロットの爪痕が残っていて、それをたどった先に、ヒトハたちが倒れていたのだ。彼らは三人とホールに倒れていた執事を屋敷に担ぎ込み、モーリスは魔法や彼の得意とする魔法薬で治療を施した。お陰で回復は驚くほど早く、ふたりが目を覚ましたのは、その日の正午過ぎのことだった。ヒトハに至っては打ち身の痕もなく、疲労も耐えられないほどではない。
「俺が目覚めたときには屋敷内は元通りになっていた。やはり教授の魔法は素晴らしい」
「それが私の取り柄だからね。ホリデーで今は使用人が少ないんだが、みんなもよく頑張ってくれた」
クルーウェルはヒトハより一足先に目が覚めていた。起き抜けに駄目になった服の代わりと出された服を「直したい」と言って裁縫のできる部屋に消えていったかと思えば、見事に自分用にリメイクして出てきたのだという。ヒトハは「極東童話のなんとかの恩返しみたいだな」と思ったが、誰にも伝わる気がしなくて、それはそっと胸にしまった。
彼はヒトハが起きるまでモーリスとふたりきりで話をしていたのだという。今回の出来事や思い出話、学園でのこと、それから魔法薬のこと。
モーリスはヒトハの怪我の痕を見ると難しそうな顔をしていたが、「彼は負けず嫌いだから、きっとよくなる」と笑った。すでにふたりの間ではある程度話が纏まっていて、貴重な素材を融通して貰えるところまでは話が済んでいるようである。
「自分自身の治癒能力を高める魔法薬は存在するが、変化させるとなると難しい。魔法薬には永続的な効果は期待できない。一つの変身薬で一生別人で過ごすなんて無理だしね。あったとしても、眉唾ものだろう」
モーリスは机にあった瓶をいくつかテーブルに並べて、そのうち深緑の瓶を手に取った。
「でも持続期間を引き伸ばすことはできるかもしれない。この素材なら近い効果が見込めるね。それか──クルーウェルくんがずっと一緒にいたらいいんじゃないかな?」
モーリスはヒトハを試すように見て、笑みを深くした。
「ずっと……?」
ずっと一緒に、ということは当然距離的に離れられないということで、しかもそれがこれから長い人生で続いていくということである。
「つまり、私は一生転職ができないってこと……?」
言いながらクルーウェルを見上げると、彼は心底呆れた顔で「そうだな」とため息混じりに答えた。確かに一生魔法薬係というのも、酷な話である。
「まぁ、クルーウェルくんが嫌と言うならうちの息子という選択肢もあるからね」
「教授」
「冗談だよ」
モーリスは両手を上げて肩をすくめると、外見にそぐわず悪戯っぽく笑った。
静かに入室した女性が、テーブル上のティーポットを新しいものに取り替える。華やかなベルガモットの香りを感じながら、ヒトハはずっと気になっていたことを口にした。
「そうだ、執事さんは無事ですか?」
「彼は無事だよ。彼も酷い疲労を抱えていたから、今は身体を休めている」
ヒトハとクルーウェルをもてなしたあの執事は、ベルを使ったときには図書館にいて、疲労と長時間リオが垂れ流し続けた魔法によって、ついに呪いにかかってしまったのだという。彼はリオから距離を取りながらも甲斐甲斐しく世話をし続けていた。それはいくらこの屋敷に勤める執事だからといって、容易にできることではない。ヒトハの感じた疑問に答えるように、モーリスは続けた。
「彼に関しても代わりに謝罪をさせてくれ。あのとき君たちを屋敷に入れず、外に助けを求めていればよかったのに、彼はそうしなかった。早くに亡くした妻と仕事で忙しくしていた私の代わりに、ずっと息子に寄り添ってくれた人だ。念願叶って魔法を使えるようになった息子の力になりたかったんだろう。もちろん、使用人としては褒められたことではないけどね」
そこでふと、ヒトハはあることに気がついた。
「そういえば先生、一度眠ってましたよね?」
「そうだな。途中で起きたということは、半端に呪いにかかっていたのか……?」
クルーウェルは顎に手を添えて首を傾げた。あの夜のことはヒトハも少し聞いていて、強烈な眠気を感じた後に、気がつけば眠っていたと言っていた。
ただの眠気で寝たのなら、あれだけ叩いたり抓ったりすれば誰だって起きるものだ。しかし起きなかったということは、執事のようにじっくりと呪いにかかっていった可能性がある。ただ、途中で目覚めたというのが、どうしても分からなかった。
モーリスは「ああ」と思い出したように言うと、おもむろに立ち上がった。大きなデスクの前へ行き、手に何かを持って戻る。
「それはね、これだよ」
「あ」
テーブルに置かれたものを見て、ふたりは小さく声を漏らした。
そこにあったのはぐしゃぐしゃになった二枚の紙。長方形で、ミミズの這ったような線が書かれた禍々しい札だ。ヒトハが列車の中で一枚だけクルーウェルのコートのポケットに突っ込んでいたものだった。さすがに二枚ともは悪かろうと、もう片方は自分のポケットに入れていたのだ。それは元々染みが付いていたり黄ばんでいたりで綺麗なものではなかったが、旅の最中に皺が寄り、湿気ってしまってゴミ屑のようになっていた。
「コートのポケットに入っていた。極東の強力な呪い避けの護符だね。とても貴重なものだ。どこでこれを?」
モーリスは目を輝かせ、興奮気味に言った。
強力な護符──そう言われると、そう見えなくもない。
つまり、この護符が入っていたコートを身につけているかいないかで呪いにかかるかどうかが決まる。
よく考えてみれば、クルーウェルは食事のタイミングで脱いでいて、ヒトハが暖かくしてやろうと思いつく限りの布をかけた時点で、体の近くにあった。
「俺に『一緒に呪われろ』とか言ってなかったか?」
「い、いやぁ……」
クルーウェルが小声で問うのを濁しながら、ヒトハは苦々しく笑った。
「えっと、私の魔法薬学の恩師がくれたんです」
「魔法薬学? 呪術ではなく?」
「ちょっと変わってるんです、あの人」
ヒトハの通っていた魔法士養成学校にいた魔法薬学の教師は、当時敵の多かったヒトハに魔法薬を提供して撃退するように仕向けるなどしていた、偏屈な男である。最後までヒトハの大学受験を応援してくれた人でもあるが、それ以上にヤバい薬を提供してくれる人という印象が強い。彼は「占いも得意」と豪語していたが、真偽のほどは定かではない。
また何か変なものを寄越してきたな、とは思っていたが、そんな貴重なものであるとは思わなかった。
年始にまた手紙を送ろうか……と遠い目をしているヒトハのことを分かっているのかいないのか、モーリスは輝いた目をそのままに、まだ見ぬ同業者に胸を躍らせている。
「教え子にこんな貴重なものを渡すとは、さぞ素晴らしい先生なのだろう。極東に行ったら、ぜひお会いしたいものだ」
「はは……」
果たしてあの教師と性格が合うだろうか。合わないだろうな、と思いながら、ヒトハには笑うことしかできなかった。
新しく注がれたアールグレイの紅茶を一口。食べ過ぎだと隣の男から言われながら頬張るマカロンが美味しい。にこにこと談笑しながら、ふと遠くに見える大きな窓の外を見て、ヒトハは気がついてしまった。
「先生、私、忘れてました」
クルーウェルがティーカップに伸ばした手を引っ込めて、訝しげにヒトハを見る。
「──今、何時ですっけ!?」
そう、こんな穏やかな時間を過ごしている場合ではない。旅行は続いているのだ。外はなんと一番明るい時間を超えて、少し陰り始めている。
クルーウェルはハッとして手元の時計に目を落とした。
「午後……三時!」
「三時!」
今日は今年最後の一日である。
まだブランド店巡りもしていない。メインイベントの年越しだって控えているのだ。
慌てて立ち上がったヒトハを見上げて、モーリスは少し残念そうに言った。
「もっとゆっくりしていけばいいのに」
しかし旅行者の意思は固い。なんてたって三泊四日の旅のうち、まだ一日も旅行らしさを感じていない。せっかくの国外、せっかくの年末の時間をこれ以上失うわけにはいかなかった。
「いえ、私たちやらなきゃいけないことがあるので!」
ヒトハに続けて立ち上がったクルーウェルの「ここから花の街まで何時間ですか?」という問いに、モーリスが「一時間から二時間くらいかな」と答えると、ますます焦りが強くなっていく。
「ということは着くのが五時頃……今すぐ出るぞ!!」
「はいっ!!」
ふたりがここ一番の気合が入った声で言い、いそいそと帰ろうとするのを、モーリスは慌てて引き止める。
「ああ、待って。君たちに色々お礼がしたいんだが、急いでいるようだから、一つだけ先に贈らせてくれ」
そして彼は勿体ぶりながら衝撃的な“お礼”を寄越したのだった。
「ふたりは花の街のホテルに泊まるんだろう? 結構有名なホテルを選んだみたいだけど……シングルが二部屋だったみたいだから、一番いい部屋に変更しておいたよ」
「は?」
立ち上がりジャケットを整えていたクルーウェルが手を止め、素っ頓狂な声を上げる。
「オーナーが私の知り合いでね、事情を説明したら空けてくれたんだ。最上階のロイヤルスイート」
「は?」
ヒトハも追いかけるように唖然とした声を上げた。
モーリスの顔には隠し持っていたサプライズプレゼントが成功したかのような笑みが浮かんでいたが、これはまったくの勘違いである。
「エリック・ヴェニューとか有名人も結構泊っていて……私はあまり詳しくないんだが、ヴィル・シェーンハイトとか、あのネージュ・リュバンシェも泊まった部屋だから、記念になると思う」
名だたる有名人が泊まるホテルの最上階、ロイヤルスイート。庶民は一生に一度も泊まらないであろう部屋を、モーリスは電話一本で抑えてしまったのだと言う。
クルーウェルはここへ来るずっと前から部屋を予約していた。せっかくだから記念になるようにと、それなりにいいホテルの部屋を、二部屋。
クルーウェルは絞り出すような声で言った。
「まさか……一部屋ですか……?」
「え? もちろん。予約が一杯でシングル二部屋しか取れなかったんだよね?」
水臭いなぁクルーウェルくん、事前に相談してくれたらよかったのに、と微笑む。事前に相談してロイヤルスイートが出てきたら断るに決まっている。
ヒトハはゆっくりとクルーウェルを見上げた。
「先生、ちゃんと伝えたって……」
「…………」
彼は無言で視線を返した。もはや断ることは不可能だから黙っていろと訴えてくる。
ヒトハはモーリスのほうへ向くと、ぎこちなくにっこりとした。
これは今年最後の最高で最高に気まずい経験になりそうである。
***
荷物をまとめ、車のトランクに詰め込む。屋敷の外は相変わらずの雪景色で、ヒトハは白い息を吐きながら遠くを見た。図書館は無惨に崩壊したままで手付かずだが、屋敷は綺麗さっぱり元通りとなっている。乱暴に吹き荒んでいた雪は、今や静かに舞って穏やかだ。
「次は夏においで」
モーリスはヒトハとクルーウェルが荷物を積み終わったのを見計らって言った。
「ここは雪も美しいが、私は雪解けの後の緑のほうが好きなんだ。遥か昔、私たちの先祖はこの地の美しさに魅了されて移り住んだというくらいだからね」
屋敷を囲む景色に目をやる。今は白く雪が被っているが、この雪が溶けたら緑の木々が並ぶのだろう。
「また深緑の季節に訪れてくれたなら、“フォレスト”の名に恥じない豊かな緑をご覧に入れよう」
ヒトハはモーリスの言葉に頷いた。
「ええ、また来ます」
厳しく静かな雪の季節が終われば、草花の咲き誇る賑やかな季節がやってくる。
ここは避暑地にはぴったりの場所かもしれない。それに、もう雪は散々だ。
モーリスは最後に少しだけ腰を屈め、声を低くして囁いた。
「実は私は〈深雪の魔法士〉って名前が嫌いなんだ。気取ってるし、この地には雪しかないみたいだろう?」
「──ヒトハさん!」
ヒトハは自分を呼ぶ声に振り返り、目を丸くした。後部座席に乗り込もうと手をかけていたドアを離し、駆け寄ってくる青年に二、三歩近づく。
「リオさん、もう大丈夫なんですか?」
「おふたりがもう帰ってしまうと聞いて……」
リオは息を上げながら、ヒトハと隣に並ぶクルーウェルを交互に見た。まだ顔に疲労が残っているが、どこか憑き物が落ちたような、すっきりとした表情をしている。
「たいへんご迷惑をおかけしました。どうお詫びすればいいか」
彼は優しげな眉を下げ、声を落とした。
まだ万全ではない身体を引き摺ってここまでやって来たのだ。ヒトハは何か声をかけなければと口を開きかけて、隣に立つ男に先を越された。
「そう思うのなら、これから勉学に励み、立派な魔法士になることだ。この俺が一度躾けたのだから半端は許さん。いいな」
「仔犬の躾は先生の生き甲斐ですもんね」
「違う、仕事だ。変な言い方をするな」
クルーウェルはヒトハに鋭く言い返して鼻を鳴らした。
仔犬の躾に関していえば、彼の右に出る者はいない。厳しく叱りつけるのも、激励するのも、これ以上なく褒めるのも得意だ。
リオは背筋を伸ばして明るく笑った。
「はい。頑張ります」
そしてヒトハのほうに視線を移し、少し恥ずかしそうに言った。
「それから、貴女に抱きしめて貰ったときに思い出したんです。母が慰めのためだけに僕を抱きしめてくれていたわけじゃなかったってこと。本当にありがとうございました」
「リオさん……」
あの夜、夢で見たあの光景はもう朧げだが、とても温かなものだった。もし彼のことを「可哀想な子」と後ろめたさで抱きしめていたなら、きっとあんな顔をして迎え入れたりはしない。彼は長い年月で歪んでしまった記憶を取り戻したのだ。これから魔法士として多くの魔法を使ったとしても、もうあの記憶がオーバーブロットのきっかけになることはないだろう。
「ああ、言い忘れてました。リオは僕の愛称で、本名はレナード・フォレストです。貴女には、変わらずリオと呼んでほしい」
リオはヒトハの前にスッと手を差し出そうとして、それを横から握り締められた。
勝手に握手を横取りしたクルーウェルは目を瞬いているリオの肩を二度叩き、素知らぬ顔で言う。
「ではリオ、よく励めよ。行くぞナガツキ」
と、彼はさっさと先に車に乗り込んでしまったのだった。
「あっ、ちょっと先生……!」
リオと別れの言葉を交わし、遅れて車に乗り込んだヒトハは、ドアを閉めてサイドガラスの向こうを覗き込んだ。ゆっくりと動き出す車内で小さく手を振る。雪の中に佇む屋敷と、そこで働く人たち。そして深雪の魔法士がふたり。
「リオさん、これから勉強してお父さんの名前を継ぐんでしょうか。教授はもう辞めたがってましたけど……」
「どうだろうな? どのみち彼らの在り方は変わっていくのではないだろうか」
クルーウェルは隣で腕を組み、ヒトハを挟んだ向こうの景色に目をやった。屋敷は高い木々に遮られ、ついには見えなくなってしまっていた。
「あの仔犬は魔法を使えない人生も知っている。人生のほとんどを魔法と共に過ごしてきた俺たちには無いものを持っているはずだ」
ヒトハは彼の言葉に頷いて「そうですね」と微笑んだ。
「そういえば先生、ずっと気になってたんですが」
「なんだ」
「執事さんって、何であのときまで呪いにかからなかったんだと思います?」
実はモーリスの話を聞いていたときからずっと胸に引っかかっていた。執事はリオと距離をとっていたとはいえ、自分たちよりずっと長くあの屋敷にいたのだ。耐性のあるはずのクルーウェルのほうが先に呪いにかかったのが不思議でならなかった。
クルーウェルは腕を組んだまま俯いて考え込むと、ぽつりとヒトハの疑問に答えた。
「ユニーク魔法らしいからな。憶測だが、彼だけは眠らせたくなかったのではないだろうか」
ユニーク魔法は魔法士の個性を反映した唯一無二のもの。ひょっとすると、リオは魔法が使えないまま大人になったことが嫌で、時を止めたかったのかもしれない。執事以外の時を。
「魔法って……私たちにもまだよく分からないこと、たくさんありますねぇ」
「そうだな」
車は森を抜け、山を抜け、少しずつ人の住む場所へ向かっていく。雪深い地で起きた事件はこうして、ひっそりと静かに、終わりを告げたのだった。
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