深雪の魔法士

14 旅の終わり

 暖かい。
 柔らかな羽毛布団を首元に引き寄せながら寝返りを打つ。厚みのある枕に頭を沈める心地よさ。まどろみの中で、ヒトハはふと気がついた。

「はっ……!」

 慌てて起き上がると、体が軋むように痛む。ヒトハは片手をベッドについたまま、呆然と周囲を見渡した。
 景色はなぜか、あのオーバーブロットに挑む前にいた部屋に戻っている。正確にいうと、よく似てはいるが一回り小さな部屋だ。天蓋付きのベッドが一床、それ以外は狭くなったくらいで、ほとんど同じである。

「ど、どこ……? あれ? 夢?」

 困惑しながら周囲を何度も見渡す。寝起きの掠れた声は、到底夢のようには聞こえない。
 大きな格子窓の外を見やると、明るさのある雪景色にゆっくりと粉雪が散っていた。穏やかだ。部屋の温かな灯りも、心地よさを感じるほどの室温も、どこか人の生活を感じさせるこの部屋の雰囲気も。なにより、ずっと違和感のあった魔力が消え去っている。
 確か、凍える雪の中で死にかけたのだ。そうであるならば、ここは天国というやつなのだろうか。
 ヒトハは急に不安になって、ベッドから足を下ろした。しっかりと二本の足で立っているから、ゴーストではないらしい。毛足の短い絨毯を踏みしめ、先ほど何度も見渡した室内を再びぐるりと見る。この部屋には、やはり自分ひとりしかいない。

「先生?」

 その名前を口にすると心細さが増して、ヒトハは慌てて部屋の扉に飛びついた。厚い木製の扉を開け放ち、ぽかんと口を開く。

「──あれ?」

 その先にはあの悪夢のような光景があるのかと思いきや、拍子抜けするほど汚れ一つ見られない廊下があった。この屋敷にやって来たときのようでもあるし、少し違うようにも感じる。静かに燃える魔法道具の燭台の灯りはヒトハが知るものより数段明るく、この廊下にも部屋と同じく、人の生活を感じた。今は誰もいないけれど、さっきまで人がいたような、そんな感覚がするのだ。

「先生!」

 ヒトハは廊下を走った。
 あの恐ろしい出来事はどうなったのだろう。クルーウェルは無事なのか、リオは、執事は、この屋敷は──
 追い立てられるようにクルーウェルを呼びながら、廊下を駆ける。壁も壁掛けの絵画も高い天井もすっかり元通りで、屋敷の中はどこも明るく、暖かい。安心できる場所であるのは間違いないのに、その平穏さが逆に恐ろしかった。
 ヒトハは廊下に並ぶ多くの扉の前を走り抜け、ひときわ大きな扉の前で足を止めた。
 中から低い男の声が聞こえたような気がする。息を上げながらドアノブに手をかけ、勢いよく開く。
 その先に特徴ある白黒の髪を見て、ヒトハは衝動的に叫んだ。

「先生!」
「お前、なんて格好で……裸足じゃないか」

 クルーウェルは飛び込んでくるヒトハを受け止めると、困惑気味に言った。上下に視線を行き来させて、呆れ顔である。
 ヒトハはそれに合わせるように自分の胸元から足元まで視線を移動させて「ええ!?」と恥ずかしさに声をひっくり返した。ドロドロに黒く染まっていたコートが、いつの間にか薄手のワンピースに入れ替わっている。清潔感のあるこの生地は、いわゆるネグリジェとかいうやつだろうか。繊細なフリルは可愛らしいが、普段このような服を着ないヒトハにとっては、自分とちぐはぐな印象を受けた。足はひざ下から剥き出しで、絨毯についている足裏は当然素足である。
 クルーウェルは見たことのないツイードのジャケットを脱ぎ、ヒトハの肩にかけてため息をついた。

「貴女がヒトハさんかな?」

 貰ったジャケットを整えていると、クルーウェルの向こう側から重みのある男の声が聞こえた。低く穏やかだが、聞けば背筋が自然と伸びる威厳のある声だ。
 クルーウェルが体をずらすと、その先にいた男は柔らかく目を細めた。壁一面を本で占めるこの書斎の最奥に、大きな木製のデスクと魔法薬の素材や調合用の器具が並んでいる。その前に立つ彼は、ヒトハの父親ほどの年齢に見えたが、ずっと長く歳を重ねてきたような貫禄を持っていた。
 ヒトハはその姿にたじろぎながら、小さく頷いた。

「は、はい……」
「それは妻の服なんだ。よく似合っている」
「教授」

 クルーウェルが苛立った声で短く咎めると、教授と呼ばれた男は白を切るように目を逸らして肩をすくめる。
 すると突然バタバタと背後から靴音が聞こえてきて、ヒトハはその音に振り返った。
 乱暴に開け放ったままの扉の向こうから若い女性の使用人がガウンを両手に現れる。彼女は前髪を乱してすっかり息を上げていた。ヒトハを見つけ、深く息を吐く。
 男はそれを見て低い声で穏やかに笑うと、面白そうに言ったのだった。

「その恰好ではクルーウェルくんが怖いから、着替えておいで」

 訳も分からないまま使用人の女性に連れ出され、ヒトハはシャワールームに放り込まれた。必死で気にも留めていなかったが、あの戦いで汚れた体は簡単に拭き取られていたくらいのもので、洗えばよく汚れが落ちる。もっと打ち身があったりするものかと思っていたが、意外にも怪我の痕は残っておらず、ヒトハは自分の裸を観察しながら再びこれが夢ではないかと疑う羽目になった。
 こうして汚れを流し切った後に使用人から差し出された服は、自分が着ていたものでも持っていたものでもない。ヒトハはそれに何度か着用された気配を感じながらも袖を通した。厚みのある冬用のワンピースには品があり、不自然なほどに自分のサイズに合っている。
 そして再びクルーウェルのいた部屋に戻されたとき、ヒトハはふたりのなんとも言い難い視線に晒されることとなった。男は微笑ましい目をしていたし、クルーウェルはいつもの得意げな目をしている。どうやらこの服は、ファッション大好き教師の手によって、知らぬ間に直されていたらしい。
 男はボロボロになったふたりの服の代わりに自身の服と妻の服を提供したのだという。クルーウェル曰く、とてもいい服で、直し甲斐があったとのことだ。ヒトハは人様の服を躊躇わず直してしまうクルーウェルに呆れたが、男は「今風にしてもらえて嬉しい」と笑った。サイズを直すだけでは飽き足らず、デザインまで変えてしまっているとは驚きのこだわりである。

「さて、もう分かっているかもしれないが、私がモーリス・フォレストだ。今回のことは本当に申し訳なかった」

 モーリス・フォレストを名乗る男は、ヒトハに手を差し出した。握り返す手は大きく、そして温かい。
 彼は書斎にある低いテーブルにふたりを案内すると、向かい側のソファに座るように言って、自身も腰を下ろした。

「クルーウェルくんにはある程度話しているが、簡単に説明させてくれないだろうか」

 モーリスの優しい目を見つめ返し、ヒトハは隣に座るクルーウェルをちらりと見上げた。彼は無言で「聞いておけ」と目で促す。

「ご面倒でなければ」

 ヒトハの控えめな答えに、モーリスは「ありがとう」と微笑んだ。
 彼は少しだけ体を前に屈め、声を落とした。

「実は数日前、息子の魔法が発現した際に、ユニーク魔法と魔力の暴走が併発してね。そのおかげで、この屋敷は眠りに落ちていた」
「魔法の発現とユニーク魔法が同時に……?」

 魔法の発現とユニーク魔法の獲得が同時に起きるという話は聞いたことがない。ヒトハが首を捻ると、モーリスは補うように言った。

「息子は本当に今まで魔法が使えなかったんだ。いきなりここまでの規模の魔法を使えたということは、恐らく元々才能があったのだろう。自分の息子のことながら恐ろしいことだが……」

 フォレストは名のある魔法士一族である。それはヒトハが道すがらクルーウェルに聞いていたことだ。自分の常識から外れることがあったって、おかしくはない。
 ヒトハが頷くのを待って、彼は続けた。

「少し解析したんだが、どうやら対象を眠りの呪いにかけることができるらしい。呪いが解けるまで叩いても引っ張っても起きない強力なユニーク魔法だ。情けないことに、私はこの魔法に対抗することができなかった。あまりに強く、突然すぎて」

 彼の話では、ヒトハたちがこの屋敷に訪れる数日前に久しぶりに再会した息子──リオの魔法が唐突に発現したのだという。いくら偉大な魔法士でも、あり得ないはずの不意打ちを完全に防ぐことはできない。なす術もなく、リオのユニーク魔法は今まで溜め込んでいたものを放出するように屋敷中に広がり、屋敷にいた全員に眠りの呪いをかけた。
 そのとき不在にしていたのが、あの執事である。街に行っていたという彼は、幸か不幸か呪いを免れた。彼はリオと共に眠りについた人たちを暖かで安全な場所に隠したのだという。

「まったく許されることではないが、彼らは結局、この状況を隠蔽しようとした。よく言えば、自分たちで穏便に解決しようとした。結果的に魔法の使い方を知らない息子は屋敷中に魔力を垂れ流し続け、空調や照明を賄っている魔法石は真っ黒に濁り、今回のオーバーブロットだ」
「隠蔽……?」
「そう。愚息の肩を持つわけではないんだが、うちはそれなりに名の知れた家門でね。このことが周りに知られて醜聞が広まると悪いと考えたようだ。親戚たちも怖いしね。ふたりとも魔法の知識がないものだから、オーバーブロットの深刻さもあまり実感がなかったのだろう」

 モーリスは顔に刻まれた皺をさらに深くした。

「本当に申し訳ないことをした。最悪命を落としていたかもしれないのに」

 そして一つ、深いため息を落とす。

「だが、これでもあの子の父親だ。礼を言わせてほしい。息子を助けてくれて、本当にありがとう」

 モーリスの言葉は三人の間に重く長い沈黙を落とした。
 今回のことは、この屋敷にいるすべての人の命が関わることだった。一歩間違えれば自分たちも危なかった状況だ。しかしそこにあったのは、息子への侮蔑でも落胆でも怒りでもなく、ただただ無事を安堵する父親の顔そのものだった。
 彼は伏していた顔を上げると大きく肩を落として息をついた。

「今回のことは私の責任でもある。オーバーブロットは負の感情が大きく影響する。息子が長年魔法が発現しなかったことを気に病んでいたと、私は知っていたのに。無事大人に育ったことをいいことに、ちゃんと向き合ってやらなかった」
「教授は、リオさんが魔法士でなくても、よかったんですよね……?」

 ヒトハはモーリスの様子をうかがうように尋ねた。彼の話を聞いていたら、魔法士一族と言う割に魔法士ではないリオのことをよく気にかけているように思えたからだ。それは道中クルーウェルが言っていた話とは大きく食い違っている。
 モーリスはヒトハの疑問を聞き、「ああ」と笑った。

「そうだよ。むしろ嬉しかったくらいでね。私はこの家が嫌いなんだ」
「き、嫌い……」

 モーリスはヒトハの反応を面白がって頬を和ませると、クルーウェルのほうにも目を向けた。

「ここへ来るとき、バスを使ったようだね。道路を見たかい? あそこには雪が一切積もらないんだ。技術は生活を豊かにし、私たちの存在意義を奪った」

 魔法士の使う魔法がなくとも生活は豊かになる。ヒトハはクルーウェルの言葉を思い出した。きっとこれだけではなく、もっとたくさんの技術がこの地の生活を支えているのだろう。

「私たちがこの地で〈深雪の魔法士〉などと大それた名前で呼ばれているのは、はるか昔に魔法でこの地の生活を支えていたからだよ。獣を退け、雪を払い、ここに住む人たちの生活を豊かにした。その名残だ」

 モーリスは皮肉交じりに笑った。

「元々はちょっと他人より魔法に優れていただけの一族なんだ。なのにいつまでたってもこんな奥地で血統がどうだこうだと不毛な身内同士の争いを続けている。私はもうたくさんだったから、息子の代からは一族の適当な魔法士に当主を譲って自由になれると思っていた。愚かだったよ。自分のことばかりで、魔法士になりたくてもなれない息子に寄り添ってやれなかった」

 片手で目を覆い、項垂れる。その姿を見ていると、うずくまって謝り続けるリオの声が、どこか遠くから響いてくるような気がした。父親は魔法士である自分が嫌で、息子は魔法士ではない自分が嫌だったのだ。不幸なことに、彼らは今このときまで、交わることなく生きてきた。
 モーリスは顔を上げ、薄く赤らんだ目をふたりに向けた。

「妻が亡くなったのも、自分が魔法を使えないせいで精神を弱らせてしまったと思い込んでいた。本当はまったく関係ない病気だったんだけどね」

 彼は仕方なく笑って、大きく息を吐いた。屈めていた体を起こし、すっと背を伸ばす。

「息子はまだ身体を休めている最中だから、直接謝らせることができず申し訳ない。私のことも、息子のことも許してくれなくてもいい。謝罪だけでも、どうか受け取ってくれないか」

 ヒトハはモーリスの強い目を見つめながら、たっぷりと間を置いて、隣のクルーウェルを見上げた。言葉を待つように、彼はすでにヒトハを見下ろしている。答えはふたりの中でもうとっくに決まっていて、あとはモーリスに伝えるだけのことだった。

「許さないも何も、もう『許す』って言っちゃいましたし……ねぇ、先生?」
「そうだな。お前がいいなら、いいんじゃないか?」

 クルーウェルのちょっと気取った口調に小さく笑い、ヒトハはモーリスに視線を返した。
 彼は一瞬目を丸くして、そしてじんわりと細める。

「ありがとう。本当に」

 ゆっくりと噛みしめるような安堵の声。
 それは春の雪解けのように、どこまでも優しく響いた。

「ありがとう……」

送信中です

×

※コメントは最大10000文字、5回まで送信できます

送信中です送信しました!