深雪の魔法士

10 閉ざされた屋敷

「夜が明けたら、この屋敷を出る」

 クルーウェルはヒトハの話を聴き、屋敷を歩き回った末に、そう決断した。まだこの屋敷には謎が多いが、教師ひとり、清掃員ひとりでは到底手に負えないのは明らかだ。それにリオの話も気になる。何か起きる前に逃げる選択を取ることに、ヒトハは当然同意した。
 そして部屋に戻るなり、クルーウェルは持ち込んだ魔法薬の素材と簡単な道具をテーブルに広げた。魔法薬の調合は混ぜるだけで済むものではない。基本的には道具が必要で、彼はそれもさりげなく拝借していたらしい。
 時刻はもう深夜三時を回り、しばらくすると夜明けが見えてくる頃合いだ。黙々と調合を始めるクルーウェルを横目に、ヒトハはベッドの上に座り込んだ。
 この状況で自分ができることは何もなく、強いて言うなら、クルーウェルの邪魔をしないことくらいだった。

「ナガツキ」

 ふいに名前を呼ばれて、ヒトハはぼうっとしていた頭を起こした。

「お前は少し寝たほうがいい。俺が寝ている間、歩き回っていたのだろう?」
「そうですけど……」

 ヒトハは消え入るような声で返した。
 本当は体がどこもかしこも怠いくらいには疲れていた。屋敷内を彷徨い歩いたこともあるが、何より雪の降る中にいたことが大きな疲労になっている。
 けれど「寝ろ」と言われてそうしたいかというと、そうでもない。クルーウェルが目を覚まさなかったことへの恐怖がまだ残っていて、自分もそうなるのではないかと思うと怖いのだ。なにより、眠りこけている間に何かトラブルが起きてしまったらと思うと、緊張して睡眠どころではなかった。
 ヒトハがもじもじとして一向に寝る気配がないと悟ると、クルーウェルは手にしていた瓶をテーブルに置いてツカツカとこちらへ向かってきた。そして訳も分からず見上げてくるヒトハの肩を、トンと押す。

「えっ」

 あまりにも突然のことで抵抗を忘れてしまった。そのままベッドに背を預けて狼狽えるヒトハをよそに、クルーウェルは自分のベッドに置き去りにされていた柔らかい羽毛布団をヒトハにかけ、自分もそこに潜り込んだ。

「いや、何してるんですか、先生……」
「ひとりでは寝られないのだろう? 添い寝をしてやろう」
「え……ええ……?」

 そう言って片肘を立てて手のひらに頭を載せる。ヒトハは息がかかるほどの近さに驚いて、布団を鼻先まで引き上げた。

「でも先生、調合しないと」
「この俺を誰だと思っている? 一時間もあれば余裕だ」

 クルーウェルは当然といった顔で言うと「子守歌でも歌ってやろうか」と笑った。ヒトハは「結構です!」と顔を赤くしながら突っぱねる。
 お互いコートを着たまま布団に包まっているし、ごわごわしているしであまり快適ではない。お行儀もたいへんよろしくはないが、隣に体温を感じていると、妙にざわついていた胸が少し落ち着くような気がした。
 ヒトハはベッドからクルーウェルを追い出すのを諦めて、小さくため息をついた。

「なんだか散々ですね、私たち」
「まぁな。自分たちで勝手に押しかけた身だから、仕方なくはあるが」
「そうですけど……。執事さんも悪い人に見えなかったから無事か心配です」
「そうだな」

 結局、ベルを鳴らしたにもかかわらず執事が現れることはなかった。しかも屋敷中歩き回っても、その姿を見ることはできなかったのだ。彼は確かに突然訪問してきたクルーウェルとヒトハを警戒していたが、結局それ以外のことは何もなかった。彼の行動に悪意もなければ敵意もなく、それどころか、この誰もいないであろう屋敷で食事を提供してくれたのだ。安否が気にならないわけがない。
 それにヒトハにはまだ気になることがあった。

「リオさんも、どうしちゃったんだろう……」

 あの青年。酷く疲れた顔をしながら雪の中を歩いていた彼は、結局どこへ行ったのだろう。彼もまた、悪い人には見えなかった。
 クルーウェルはその名前を聞くと、ぴくりと眉を動かした。

「そのリオってやつは何だ? 何もされてないだろうな?」
「え? いい人でしたよ。助けてくれたし」
「そうやってお前はすぐ他人を信じる……」

 クルーウェルはヒトハが出会った青年の話を聞くと決まって不機嫌になった。知らない間に現れた知らない青年を警戒しているようにも見えるし、どこか拗ねているようにも見える。
 何を言っても納得をしないのは屋敷の散策中に嫌というほど味わったので、ヒトハはそれ以上は何も言わず、口を噤んだ。

「そういえば先生、なんだかこの部屋、もっと寒くなってません?」

 ヒトハはもぞもぞとしながら言った。この部屋はクルーウェルを探しに飛び出していったときよりもいくらか寒くなっている。魔法薬を飲んでいるから辛さはないが、吐く息が濃く白く見えるのだ。こんな雪深い地にありながら、空調がこの程度なわけがない。
 クルーウェルはヒトハの意図を読み違えたのか「そうか?」と言いながら片腕でヒトハを引き寄せた。

「い、いえ、そうではなくて……いえ、もういいです……」

 厚い冬服を挟んでいるが、ぴったりと身を寄せているとやはり温かい。ヒトハは恥を捨ててクルーウェルの胸元辺りに頭を寄せた。こうして呼吸を感じていると落ち着くのだ。彼が目を覚まさなかったときのあの恐怖──あの悲しみが忘れられるような気がして。

「先生。私、先生を叩いても抓っても起きなかったとき、とっても怖かったんです」
「俺は抓られていたのか」
「すみません……」

 ちらりと見上げる。赤くなっていた頬はもうすっかり元通りになっていた。しつこく痕が残らなかったことにほっとして視線を戻す。

「私、このまま先生の目が覚めなかったらどうしようと思って、ここへ来たことを後悔しました。私が教授に会いに行こうって言ったから……。ごめんなさい……」

 もしもあのとき、連絡がつかないのなら仕方ないと予定通りの旅を続けていたなら。きっとこんな不安な気持ちにもならなかったし、恐ろしい目にも遭わなかった。もしも、もしもと考えれば考えるほど、自分の言葉を後悔してしまうのだ。

「お前は俺に『教授の身に何かあったのに気づけなかったら後悔する』と言ったな?」

 ヒトハの懺悔を黙って聞いていたクルーウェルは、静かに口を開いた。

「この状況を後から聞いたら、間違いなく後悔したことだろう。俺たちは何もすることなくこの屋敷から出るが、後のことは警察にでも連絡して対処してもらえばいい。手には負えなかったが、気づくことができた。俺はここに来たことに後悔はない。ただ──」

 そして彼は言葉を切って、「ただ」と笑いながら言い直した。

「旅行が台無しになってしまった。俺の完璧なプランも」
「ふふ、明日こそは予定通りになったらいいですね」
「まったくだ。カウントダウンには間に合わせるぞ」
「ブランド店巡りも」
「なんだ、嫌じゃないのか?」
「仕方ないから、付き合ってあげます」

 ヒトハは頭を胸に押し付けながら、くぐもった声で言った。本当はそういう店はあまり好きではないけれど、ひとりじゃなくてふたりなら、案外平気かもしれない。
 クルーウェルがおかしそうに笑うのを聞きながら目を覆うと、体からゆっくりと力が抜けていく。次に目を覚ましたら、トランクを持ってこの屋敷を出る。旅の時間は残り少ないけれど、きっと今年最後のいい思い出になるはずだ。そう信じて、ヒトハは静かに眠りに落ちていった。

***

「……寝たか?」

 囁く声に返事はない。すっかり緊張しきっていた彼女は、これでやっと眠りに落ちたらしい。穏やかに上下する体からそっと手を離し、クルーウェルは大きく息を吐いた。
 この屋敷は一体どうなっているんだ。
 ここに足を踏み入れた瞬間からずっと抱いていた疑問が膨れに膨れ、ついに身の危険を感じるほどになってしまった。あの強烈な眠気から意思に反して眠りに落ち、どうやっても目を覚まさなかったなど、普段の自分では絶対にあり得ない。
 しかも眠っている間に彼女が助けを求めて雪の中を彷徨ったと聞いて、クルーウェルはついに他の一切をかなぐり捨てて決断した。
 この屋敷を出る。教授も執事も、彼女の言う青年のことも気がかりではあるが、今回は諦めるしかない。目を覚ましたときに感じた絶望を、再び味わうわけにはいかない。こうしてここまで同行してくれた彼女を、これ以上危険な目に遭わせるわけにはいかないのだ。
 ここに来たことに後悔はない。しかし、ここに彼女を連れて来たことは後悔している。それでもまだ何事にもなっていない今なら、この後悔もただ「大変な目に遭った」というだけで済む。

「お前だけは無事に学園に帰してやる」

 こうしてクルーウェルは再びテーブルの前に立った。やけにざわつく心に追い立てられるように、少しでも備えをしなければと。

***

 
 ……ズ
 ズ……ズズ……

「ん……?」

 その奇妙な物音に、ヒトハは目を覚ました。なにかを引きずる音。そしてそこに入り混じる水音。ボタボタと大きな滴が落ちる音だ。なんとも耳障りな音で、ヒトハはのろのろと起き上がった。隣にクルーウェルはおらず、布団の表面もシーツも冷え切っている。

「せんせ……?」

 ヒトハはぼんやりとした声でクルーウェルを探した。テーブルの前にはいない。ふっと入口に目をやると、彼は扉に片耳を付けて、杖を固く握っていた。口は強張り、全身に緊張を感じる。彼はヒトハが目を覚ましたことに気がつくと、素早く口元に人差し指を立てた。
 その間にもズ……ズ……と何かを引きずる音は続く。ヒトハはピリついた空気に指一本動かせず聴き入った。それが次第に小さくなり、完全に消えるまで。

「行ったか」

 やっとクルーウェルが口を開き、肩に入った力を抜くと、ヒトハも深々と息を吐いた。
 起き抜けで意味が分からない。しかしこれがただ事ではないのは、すぐに分かった。肌に刺すような鋭い緊張感、そしてこの宙を漂う歪な魔力。寝る前にはなかったものだ。
 ヒトハはクルーウェルに状況を確認しようとして、あることに気がついた。

「先生、足」

 それはまったく十分な言葉ではなかったが、視線を落としたクルーウェルは、すぐにヒトハの言いたいことを察した。扉の下にある小さな隙間──そこから侵入する黒い“何か”。

「なんだこれは? インク……?」

 クルーウェルは屈んでその液体をじっと見つめたかと思うと、急に立ち上がってドアノブに手をかけた。勢いよく開いたその先を見て、ふたりは絶句する。
 そこにはまるで大量のインクがぶちまけられたような、不気味に黒く染め上げられた廊下があった。

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