深雪の魔法士
09 閉ざされた屋敷
「目を覚まさなかった? 俺が?」
クルーウェルは屋敷の中を堂々と歩き回りながら、半歩後ろを歩くヒトハに問いかけた。訝しむような声に、ヒトハはムッと口を尖らせる。
「だって、耳元で手を叩いても起きなかったんですよ? 先生だったら飛び起きるはずじゃないですか」
「耳元で? それが本当なら、確かにおかしい」
やっと信じる気になったのか、クルーウェルは足を止めないまま顎に手を当てて静かに考え込む。
そして「そういえば……」と何かを思い出した。
「起きたら異様に頬が痛かったんだが、慌てて部屋を出たせいでまだ鏡を見ていなくてな。どうなっているか見てくれないか?」
クルーウェルは足を止めて振り返ると、少しだけ腰をかがめた。ヒトハはぐっと近づいた顔にたじろぎ、上半身を後ろに反らす。彼が眠りから覚めなかったときは必死だったから気にしていなかったが、やはりよく整った顔立ちである。彼は外向きに上がった眉を跳ね上げて、早くしろと急かした。
よくよく見ると滑らかな頬が、片方だけほんのわずかに赤くなっている。ヒトハはそれを見つけて、ぎこちなく笑った。あれは必死に抓った痕だろうか。まだ消えていないということは、相当強く抓ってしまったらしい。
「つるつる卵肌ですね──うっぷ」
クルーウェルの大きな手がヒトハの両頬を挟む。
「次はもっとお上品に起こせ」
「そんな無茶な……」
口を尖らせてもごもごと答える姿に満足したのか、彼はパッと手を離すと再び廊下を歩き始めた。
「それから服も乱れていたんだが、これもお前じゃないよな?」
「ふ、服? さぁ? 寝返りで乱れたんじゃないですか?」
クルーウェルは一瞬じとりとした目を向けて、「そうか?」と疑いの声で言う。
大慌てで捲ったトップスを元に戻すのを忘れていた。頬を抓ってしまったのは百歩譲って知られてもいいが、服を捲って胸に耳を当てたことはさすがに知られたくはない。間にインナーが挟まっていたとはいえ、大胆なことをしてしまった。
クルーウェルはこのことを追求する気はないらしく、何事もなかったかのように角の扉を叩き、間髪入れずに開いた。もはやノックのマナーもあったものではない。
──屋敷の中を散策する。
それはクルーウェルと合流したことによって計画通り実行された。各々が歩き回って分かったことを共有し合いながら、まだ行っていない場所をしらみつぶしに歩く。しかしどこを歩いても、リオに再び出会うことはなかった。外にいる可能性もあったが、さすがに夜の雪の中へ飛び出すのは危険なこともあり、早々に捜索を諦めたのだ。
こうして歩き回ってふたりが出した結論は、“自分たち以外誰もいない”ということである。誰もいないとなればコソコソとする必要もなく、ふたりは大胆にも廊下のど真ん中をずかずかと歩いた。むしろこれで誰かが「不審者だ」と飛び出してくるほうが好都合だ。
「本当に誰もいないな……。散策はここまでにして、部屋に戻るか」
「そうですね」
クルーウェルは暗い部屋の扉を閉めながら、後ろで覗き込んでいたヒトハに言った。
「その前に少し寄りたいところがある」
クルーウェルの寄りたいところというのは、屋敷の地下にあった。ヒトハが見つけきれなかった扉の先に、薄暗い石の階段が続いている。ヒトハが手にしていたランタンを借りて、クルーウェルはその先を明るく照らした。
「保管庫だ。お前を探す途中で見つけた」
ヒトハひとりであれば恐ろしくて進めないところを、彼は躊躇わずに進んだ。
そして階段の先にある重い扉を開き、灯りをつける。屋敷内の雰囲気ある燭台とは異なる、いかにも研究室じみた蛍光灯の光だ。あとから改築したのか、立ち並ぶ薬品棚はそれほど古いものではなかった。こうして魔法薬特有の独特な匂いを嗅いでいると、学園にある魔法薬学室のことをつい思い出してしまう。
クルーウェルは背丈以上もある無機質な棚を吟味しながら、そこに陳列された瓶を手際よく手に取っていく。
「ちょ……盗むんですか?」
「“盗む”のではない。“拝借”するんだ」
彼は瓶をコートのポケットに詰めながら平然と言った。
「お前ももう充分身に沁みたはずだ。ここは異常だ。備えておくに越したことはないし、教授には連絡が取れたときに事情を説明すればいいだろう」
などと言いながら、手にした茶色の瓶をまじまじと見て「これはまた貴重な……」と呟く。
「何を探しているんですか?」
「とりあえずは寒さを凌ぐための魔法薬の素材だな。回復用もいくつか用意しておくか」
ヒトハはクルーウェルが棚からひょいと取り上げた瓶を目で追った。例のサラマンダーのなんとやらである。魔法薬の素材を研究しているというだけあって、ここには大量の素材が保管されていた。
「先生、いざというときのために魔力の増強を……」
足早に目的を達成していくクルーウェルの後ろをついて回りながら、ヒトハは控えめに言った。ないことを祈るが、もし戦闘となったら足手まといになってしまう。けれど以前使った魔法薬さえあれば、そこそこの戦力にはなるはずだ。
しかしそんなヒトハの要望を、クルーウェルは「駄目だ」とバッサリと切り捨てた。
「どうしてですか?」
「そうやって力に頼る癖がつくからだ」
素早く言い返されて、ヒトハは押し黙った。ぐうの音も出ない正論だ。
彼は素材の吟味を止めずに続けた。
「不相応な力にはリスクがつきものだ。自分だけではなく周りにも悪影響を及ぼす。だいたい、器から溢れるものをどう制御するというんだ」
クルーウェルは持ちきれなくなった瓶をヒトハに手渡した。灯火の花の蜜がなみなみ注がれた瓶で、これ一本で相当な価値がある。
「まさか保健室で一日苦しんだことを忘れたわけではあるまい?」
「うう……そうですけど……」
ヒトハはそれをコートのポケットに仕舞いながら渋々認めた。
かつて魔力と魔法力を無理やり引き上げる魔法薬を使った代償として、一日中保健室で苦しんだのだ。元々他人より魔力が少ないのに身体に鞭打って魔力を引き出したせいか、それは周りが引くほどだったという。あのときは「もう使いたくない」と散々思っていたのに、いざ必要となれば手を出したくなってしまう。これが“力に頼る癖”というやつなのだろう。
「言っておくが、お前があの魔法薬を仕入れたルートはもう把握してるからな」
「えっ」
「次はないぞ」
「ええっ!?」
クルーウェルは続けて二本三本とヒトハの手に瓶を載せながら言った。
ということは、あの深海の商人たちにすでに圧力がかかっている可能性があるということだ。また同じことがあれば容易には売ってくれないだろうし、なんなら眼鏡を押し上げながら「できなくはないですが……追加料金ですね」と言われるかもしれない。実質ルートを塞がれたようなものだ。
クルーウェルは最後の一本をヒトハに手渡すと「これくらいか」と、やっと終わりを告げた。
ヒトハは両手に抱えた瓶を見下ろしながら、肩を落とす。自分は荷物持ちくらいにしか役に立たないかもしれないと思うと、急に不安になってきたのだ。
クルーウェルが目を覚まさなかったとき、自分は誰かの助けを呼びに行くことしかできなかった。本当に危機に瀕したとき、はたして自分の存在はどれほど意味があるのだろうかと。
「でも先生、私も何か役に立ちたいんです。私、何もできないのは嫌なんです」
ヒトハは保管庫から出て行こうとするクルーウェルの背に向けて、ぽつりとこぼした。
彼は振り返ると、困った顔をしながらヒトハの背をそっと押して、優しく答えたのだった。
「そんな顔をするな。俺にできないことが、お前にできることもある」
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