深雪の魔法士

08 閉ざされた屋敷

 ギ……ギ……と不穏な音を立てながら廊下を踏みしめる。屋敷の構造は「古い様式」と執事が言っていた通り、現代的な建物を思い描きながら歩くと予想外に同じ場所に出てしまったり、迷いやすい構造となっている。それはナイトレイブンカレッジの校舎を彷彿とさせたが、しかし、さすがにあの複雑で巨大な建造物に及ぶほどではなかった。
 最初に向かったのは眠りに落ちる前、青年が消えて行った廊下だ。気持ちとしては明るいほうへ行きたかったが、自分が怖くない道をあえて選んだからといって、目的が達成されるわけではない。一番可能性の高いところに、怖くても行かなければならないのだ。
 ヒトハが手にしているランタンは、ほんの少し魔力を込めただけで明るく輝き、廊下の先を見渡せるほど周囲を照らした。廊下の片側には部屋の扉が並び、片側には広い格子窓が等間隔にはまっている。窓は白く結露に覆われていたが、それでも雪が絶えず降り注いでいるのがよく分かった。雪はいつしか吹雪となって、窓に叩きつけられては音を立てているのだ。

(寒い……)

 執事曰く、暖房の行き届いていない場所があるのだという。それは恐らく、ここのことだ。ヒトハのいた部屋も不思議と室温が下がっていたが、ここはもっと寒い。予備にと受け取った魔法薬がまだコートのポケットに残っているから飲んでしまってもよかったが、状況が状況なだけに、気軽に手をつけることはできなかった。
 胸の前に掲げたランタンの灯りを頼りに人を探す。それもこんな真夜中に。誰も彼もが寝静まっているような時間帯だ。ヒトハは迷惑を承知のうえで叫んだ。

「誰か! 誰かいませんか!!」

 寒さでうまく口が回らない。頬と舌が凍りついたかのように硬く、大声を出しているつもりなのに弱々しい声しか出なかった。
 それでも声を張りながら廊下を歩き、階段を下り、たまに扉を開きもした。こうして歩き回っても、屋敷には誰ひとりとして人の姿が見えない。たまにランタンの灯りでぼんやりと浮かぶ人影は壁掛けの肖像画で、ヒトハは遭遇するたびに驚いて小さく悲鳴を上げた。

「誰もいない……」

 ヒトハはだだ広い屋敷で、ひとり呟いた。
 それでもこの屋敷ですでにふたりと出会っているのだから、誰もいないわけがない。きっと見つけられていないだけだ。そうに違いない──そうやって無理に自分を励ませば励ますほど、孤独は強くなっていった。

「あっ!」

 こうして屋敷を歩き回り、そろそろ疲れを感じてきた頃。ヒトハは二階の窓から温かい光を見た。袖で曇った窓を拭い、目を凝らす。ぼんやりと見える明かりは揺れながら、ゆっくりとどこかへ移動していた。

「誰かいる!」

 慌てて階段に向かう。この長い散策で、ある程度屋敷の構造は頭に入っていた。
 激しい足音もお構いなしに階段を駆け下り、出口に向かって走る。「まさか外には誰もいないだろう」と通りがかったときには開きもしなかった扉を躊躇わず開いた。

「待って!」

 重い雪の塊が吹き荒ぶ外で、ヒトハは大きく叫んだ。
 何もかもが凍りつくような寒さだったが、あまりにも必死で気に掛ける余裕がない。積もった雪に足を取られながら、ヒトハは灯りが向かっていたほうへひた走った。
 雪が視界を遮る最悪の環境で、ただ「待って!」と叫び続ける声が果たして届くだろうか。
 誰でもいい。足を止めて振り返って、この必死に助けを求める姿を見つけて欲しい。
 ──誰か、誰か!

「うっ」

 ヒトハは深い雪に足を取られ、冷たすぎる地面に倒れ込んだ。忘れていた寒さが全身を刺し貫く。

(死んじゃう……)

 ヒトハはガタガタと感覚のない手をコートのポケットへ伸ばし、その途中で視界の端に眩しいものを捉えた。

「────」

 それはチカチカと周囲を照らした。雪の中に落ちたヒトハのランタンではない。

「……大丈夫ですか?」

 その灯りの主は波打つ白く短い髪を靡かせ、ヒトハの前で腰を折る。おそるおそる手を差し出すその人は、屋敷でヒトハに背を向けた青年だった。 

「あ、ありがとうございます……。おかげで命拾いをしました」
「いえ……」

 ヒトハは青年の手を借りて屋敷の中へ戻ると、すぐさま魔法薬を飲み干した。屋敷の中は外よりもずっと暖かいが、それでも凍える寒さであることに違いはない。
 効果が出るまでのしばらくの間、壁に寄りかかって寒さに耐えるヒトハを、青年は逃げることなく見守った。
 そしてようやく指先に感覚が戻り始めた頃、ヒトハはやっと目の前でじっとしている青年を見上げた。
 歳は同じくらいだろうか。透き通るような白い肌に雪のような白い髪。ヒトハの知るところではディアソムニア寮のシルバーに近いが、彼の場合、その髪は柔らかく波打っていた。肌の白さゆえか、真っ赤に染まった耳や鼻先がよく目立つ。彼は優しそうな目元をしていたが、その下には疲労が濃く浮かんでいた。
 彼はまだぼんやりとしたままのヒトハの視線に気がついて、落ち着きなく肩に積もった雪を叩き落とした。ヒトハのコートよりもうんと厚いダウンジャケットは、きっとこの地では必須の装備なのだろう。
 滑り落ちていく雪を目で追って、ヒトハは足元に視線を落とした。

「あ、ランタン……」

 ほとんど投げ込むようにして屋敷に持ち帰ったランタンが、無造作に床に落ちている。
 ヒトハはそれに気がついて床に手を伸ばし、ふらりとよろけた。

「僕が拾います」

 青年は慌てて片腕でヒトハを抱き止めると、もう片方の腕をランタンに伸ばす。そして厚手の手袋で取っ手を掴んだ瞬間、いつの間にか光が消えていたランタンは、フラッシュのごとく強い光を放った。

「うわっ!」
「わ!?」

 明るさを通り越して真っ白になってしまった視界から逃れるように、目を瞑る。青年が慌てて手放したランタンが音を立てて廊下に転がり落ち、それに驚いてふたりは大きく肩を跳ねさせた。
 それから数秒。そのまま息を潜めていたふたりは、閉じた目を薄く開き、そろそろと光の消えたランタンを覗き込んだ。

「……あの、もしかして魔法士の方ですか?」 

 先に口を開いたのはヒトハだ。ウェーブがかった前髪の下をうかがい見るようにして尋ねる。
 青年は少しの間、答えを躊躇った。しかしヒトハの目を困ったように見返し、ぎこちなく頷く。

「は、はい……恐らく……」
「恐らく?」
「ちゃんとした教育を受けていないんです」

 声を萎ませて答える姿に、ヒトハはやっと思い至ったかのように「ああ!」と声を上げる。

「魔法士の高等教育は義務ではないですからね」

 魔法を使える人すべてがナイトレイブンカレッジのような魔法士養成学校に通うわけではない。ヒトハ自身も進路を決めるうえで魔法士ではない職業訓練校へ行くか、就職するか、はたまたそれ以外を選ぶか……と、様々な道を提示された。たとえ魔法が使えようとも、魔法が必要ない職業を選ぶ者もいるし、魔法が必要ない学問を究めたい者だって当然いるのだ。
 青年はヒトハが納得したのに安心したのか、やっと口元を和らげた。

「そう、だからああいう魔法道具が苦手で……」

 そっと視線を落とす。魔法道具のランタンは、ぽつんと床に横たわっていた。
 ヒトハはいつの間にか感覚を取り戻した腕を伸ばし、それを持ち上げる。あれだけ激しく落としたのに、傷ひとつ入っていない。丈夫なランタンだ。
 ヒトハはそれを青年に差し出した。

「魔法士なら使えて損はありません。慣れたら簡単ですよ」

 ほんのちょっとしたお礼のつもりだった。魔法道具は使いこなせばこの上なく便利な道具だ。使えて損はないし、使い方は他の魔力を必要とする魔法道具でも応用できる。
 困惑する青年の手を取って、ヒトハは軽く言った。

「眩しいだけだから大丈夫」

 その声に誘われるように、持ち手に青年の指がかかる。制御しないままの魔力が流れ込んで、ランタンは再び眩しく光り始めた。

「う……」
「心を静かに。それから、イメージをするんです。この灯りが少しずつ萎んでいくイメージ」

 魔法はイマジネーションが大切なのだという。想像力を豊かにするために、絵を描いたり、何かを作ることを訓練の一つとして選ぶ生徒もいるくらいだ。魔法を使うには呪文や理論も大切だが、何より大切なのは、もっと根本的なこと。
 ランタンの光は不安定に大きくなったり小さくなったりを繰り返し、少しずつ萎んでいった。

「──そう! そうです!」

 ぷつり、と光が消える。
 そうしてヒトハが小さな拍手をすると、青年は光の消えたランタンをまじまじと見て、それをヒトハに返した。はにかんだ顔に小さな喜びが浮かぶ。

「ありがとうございます。えっと……」
「ヒトハです。あなたは?」
「……リオです」

 リオは「ヒトハさん」と口に馴染ませるように名前を呼んだ。

「魔法士の方は、みんなこうやって魔力の使い方を教わるんですか?」

 ヒトハはランタンを片手に、灯りをつけたり消したりしながら首を捻った。

「どうだったかな……もう身体の一部のようなものだから、実はあまり強く意識したことがないんです。歩いたり、体を動かしたりするのと同じです。気がついたらできるようになってた、みたいな。そういえば大抵の魔法も魔法道具も、さっきのランタンの感覚で制御してますね」

 魔法が発現したときは扱いに苦労したこともあっただろうが、それも遠い昔のことだ。母親から「魔法で物を飛ばしたり落としたりして大変だった」といったような思い出話を聞くくらいのもので、そのほとんどはあまりに昔のことで覚えていない。

「そうですか……」

 リオが落ち込んだ声で言って肩を落とす。ヒトハもその姿を見て眉を下げた。
 時間さえあれば、もう少し何か教えることもできたかもしれない。この場にクルーウェルがいたなら、なんだかんだと面倒見のいい彼は刺々しい言葉を使いながら、魔法の基礎を教えてやったことだろう。けれど肝心の彼はここにはいない。どう頑張っても目を覚まさず、部屋に残してきたのだ。

「あの、私、ずっとこのお屋敷の人を探してたんです。リオさんは……使用人の方、ですか?」
「え、ええ、まぁ……」

 ヒトハはその答えを聞いて、思わずリオの腕を掴んだ。

「先生が……ここに一緒に来た人が眠ってしまって、何をしても起きないんです! スマホの電波も繋がらないし、ここは一体どうなっているんですか……?」
「起きない?」

 彼は眉を寄せて険しい顔をした。先ほどまでの柔らかさが途端に鳴りを潜め、目の下の隈が急に濃く浮かび上がる。

「もし、その人が明日の朝になっても目覚めなかったら」

 リオは少し考えた後、躊躇いがちに言った。

「貴女は、その人を置いてここを去るべきです。朝のバスに乗って、街へ行ってください。きっと大丈夫。その人のことは魔法士様がなんとかする……と思うので」
「先生を、置いて行く?」

 ヒトハは愕然として、リオの腕をそっと離した。つまり、彼はこの屋敷から「出て行け」と言うのだ。
 そんな選択肢があっていいものだろうか。
 何も言えないまま立ち尽くすヒトハに、彼は固い声で言った。

「貴女が無事であるうちに、この屋敷から出てください。この屋敷は、呪われているんです」
「呪い……」

 この宙を漂う濃い魔力。ひとたび意識すれば、その異様さが文字通り“身に染みる”のだ。本来会うはずだった教授はこの屋敷中を歩き回っても見つからず、使用人ですら目の前にいる青年ひとりしか見つからなかった。人里離れたこの地で、一体何が起きているのか。
 それが“呪い”だというのなら納得がいく。ヒトハには分からない強い力が、この屋敷を歪めているのだ。
 それでも。だからといって、それはここから逃げる理由にはならない。
 ヒトハは一歩足を引いた。リオの疲れ切った目に落胆の色が浮かぶ。

「私の身を案じてくれているのなら、ありがとうございます。でも、凄い魔法士様が先生を助けてくれるとしても、私に何があったとしても、それだけはできません。できるはずがありません」

 手にしたランタンを強く握る。ヒトハは目の前にいるリオに必死に訴えた。彼に言ったってしょうがないことは分かっていても、言わずにはいられなかった。

「だって──」

 再び口を開こうとした瞬間、はっとリオの目が見開かれた。その視線の先はヒトハの後ろに向けられている。

「ナガツキ!!」

 屋敷に響き渡る大声に振り返る。ヒトハは考える間もなく駆けだした。

「先生!!」

 魔法で点した灯かりを頼りに、彼もまたヒトハに駆け寄った。勢いでよろけるのもお構いなしに胸に飛び込むと、ヒトハは両腕を広い背に回して胸元に頭をうずめる。ぎゅうぎゅうに抱きしめてやっと、クルーウェルが目の前にいるのだという実感が湧いた。ずっとのしかかっていた恐怖と緊張と悲しさが解けていく。

「先生……よかった……」

 クルーウェルはヒトハをなだめるように軽く背を叩いて「今日は妙に積極的だな」と笑った。彼の生死をかけてこの屋敷をさ迷い歩いていたのだから、これくらいは当然だ。
 ヒトハはぐっと体を離し、クルーウェルを見上げた。

「ゴーストじゃないですよね!?」
「違う。生きてる」
「生きてる!! ゔう~~っ!!」

 ヒトハは下唇を噛んで唸り、クルーウェルのコートの襟を握って再び胸元に頭をうずめた。さすがに意味が分からなかったのか、クルーウェルは困惑気味に「皺が……」と嘆く。

「知らぬ間に寝ていたようでな。起きたらお前の姿が見当たらなかったから探していたんだ。……大丈夫か?」

 まるで他人事のような言い方だ。こっちはつい先ほどまで雪の中で死にかけていたというのに。
 ヒトハは眉を吊ってクルーウェルを睨み上げた。

「大丈夫じゃありません!! どうしてすぐ起きてくれなかったんですか!? もうっ!!」
「分かった、分かった。俺が悪かった」

 襟を両手で掴んで容赦なく揺さぶる。クルーウェルは頭を揺らしながら口先だけで謝罪した。
 何も知らないのだから仕方ない。分かってはいるが、こうもあっさりと目を覚まして目の前に現れたのだから、喜びと一緒に怒りが湧いてくるのも仕方ないことだろう。ヒトハは満足するまで文句を口にして、襟を手放した。
 クルーウェルは服を整えながら重いため息を落とす。

「それで、どうしてこんなところで立ち尽くしていたんだ?」

 その問いに、すっかり頭から抜け落ちていたリオの存在を思い出して、ヒトハは「あっ!」と叫んだ。この屋敷を散策して出会った彼を紹介しなければならない。リオは確かにこの屋敷で起きていることを知っているのだ。

「そうです! 人を見つけたんです! さっき私を助けてくれた──あれ?」

 しかし振り返った先にあったのは、薄暗く先の見えない廊下だけだった。

「誰かいたのか?」
「え、ええ……さっきまで……」

 ヒトハは彼のいた場所へ向かい、困惑しながら視線を落とした。払い落とした雪の跡がまだ残っているのだ。それは屋敷の赤い絨毯を湿らせ、点々と濃く染めていた。

(……染み?)

 ヒトハはそれをじっと見て首を傾げる。
 そこには水滴の跡に混じって、濃くはっきりとした黒い染みが、薄暗い廊下に溶け込むように跡を残していたのだった。

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