Seven days for me
07 Seventh day
「好きな人? いましたよ」
「ほう、意外だな。どんなやつだ?」
眉を上げて興味深そうにしているクルーウェルを見て、ヒトハはふふんと胸を張った。
「真面目で、私にも優しくて、成績がいい人です」
クルーウェルは手を顎に当ててしばらく思案していたかと思うと「俺か」とふざけたことを言い始めた。確かに大体は合っているのだろうが、それにしたって無理がある。
彼にしては珍しい冗談に、ヒトハは小さく吹き出して笑った。答えはまったく別人で、彼とは正反対の雰囲気を持った同級生だ。
「先生、真面目?」
「この上なく真面目だな」
へぇ、と返しながら、ヒトハは遠くの星空を眺めた。
思えばその同級生にももう会うことはないのだな、と思うと少し惜しい気もしてくる。こうして単身ナイトレイブンカレッジにいるということは、今は本当に何の縁もなかったのだろう。
「あ、そうだ、私が大人に戻ったらその人に連絡取るように伝えといてください。私、どうせ独り身でしょ?」
ヒトハのこの冗談に、クルーウェルは鼻で笑って「覚えていたらな」と返した。
六日目、この魔法の終わりを感じた彼はヒトハに二つの選択肢を与えた。いつ解けるか分からない魔法のために部屋で大人しくしているか、残りの時間をこうして共に過ごすか。ヒトハは迷うことなく後者を選んだ。それも散歩をしたいという我儘付きで。
クルーウェルはその我儘に渋る様子を見せながらも、いつパタリと倒れてもいいように「前を歩け」という条件付きでそれを許したのだった。
だからヒトハは時折首を捻って後ろを歩く男を仰ぎ見たりしていたのだが、肝心の彼は「前を見ろ」と呆れて言うばかりで愛想がない。最後くらいもう少し甘やかしてくれたっていいのに。
ナイトレイブンカレッジの夜の散歩は、ずっと行ってみたかった場所を巡りながら他愛のない話をするだけの素朴なものだった。学校での生活についてとか、両親のこととか、好きな先生、嫌いな先生のこととか。大人の自分のこともたくさん聞いたが、やはり別人かと思うくらいに明るく、クルーウェルの頭を悩ますようなこともしているらしい。
ヒトハはこれを「色々あったんだな」と受け入れた。自分がこの学園でそうだったように、得難い経験がそうさせたのだろう。
校舎へ向かう坂を登り、ヒトハは月明かりに照らされる校舎を見上げると、静かにため息を漏らした。
今日は身体の感覚が研ぎ澄まされたかのように色々なものを拾ってしまうのだ。どうせ忘れてしまうのに、あれもこれもと記憶に刻み込もうとしてしまう。雑草を踏みしめる音、土を擦る音、木々のさざめき。頬を撫ぜる夜風の心地よさも、深夜に徘徊する背徳感も。失うものだから惜しくて、だから愛しいと思うのだろう。
「学園生活は少しでも楽しめたか?」
クルーウェルは確認をするように問い掛けた。
ヒトハは振り返り、その問いにはっきりと「はい」と答えた。
「最初はどうなることかと思ってたけど、今はただ楽しかったなって。ねぇ先生、これからもこの毎日が続くんですよね?」
クルーウェルは少しだけ目を見開いたかと思うと、鋭い目を柔く細めた。
「そうだな」
この人がそう言うのなら、きっとそうなのだろう。ヒトハはこれから続くであろう日々に思いを馳せた。
「嫌なこともあったし、これからもあると思うけど、多分大人の私がなんとか上手くやってくれますよね」
「まぁ、あいつなら上手くやるだろうが……変なことに関わるなとは強く言っておこう。お前も嫌がってることだしな」
「しっかり止めてくださいね」
「止まればいいんだがな……」
クルーウェルはそう言いながら遠い目をした。彼にも躾のできない“犬”が存在するらしい。ヒトハはそれを他人事のように受け取って、肩を揺らして笑った。
もうどれくらい経ったか。時計も見ずに話しながらふらふらと歩き回っていたから、よく分からない。ヒトハはスマホでも見ればいいんだろうなと思いながら、結局そうすることはしなかった。もう七日目に入っているのかもしれないし、入っていないのかもしれない。ただ少し眠気と気だるさが増してきているから、遅い時間であることは確かだろう。
他に行きたいところは? と問われて、ヒトハは無理を承知で「校舎の中」と言ってみることにした。
するとクルーウェルはちょっと考え込んで「今日だけだからな」と鍵を取り出した。
「なんで鍵を持ってるんですか?」
「大人にはどうすることもできないものがある。“残業”と“休日出勤”だ」
「なるほど……?」
こっそりと入った校舎内には、当然人は見当たらなかった。しかし燭台に明かりが灯っているあたり、もしかしたらどこかに誰かいるのかもしれない。
クルーウェルはヒトハに右だ左だと言って歩かせながら、どこかに誘導しようとしているようだった。
「ゴーストたちはお前と仲がいい。見つかっても少しくらいは目を瞑るだろう。だが絵画には見つかるなよ。戯言を真に受けて半泣きで学園中徘徊する羽目になったらしくてな。あいつらとは相性が悪い」
戯言を言って人を半泣きにさせる絵画、というのも見てみたい気もしたが、彼らのほとんどは就寝中だった。たまにうとうとしている絵画を見つけたときには毛皮のコートを盾にして身を隠せばよく、こうしていればまさかクルーウェルの傍にもうひとりいるとは思えないだろう。彼の幅のあるコートは柔らかで、触ると実家に帰った時に触らせてもらった隣の家の犬の手触りがした。
辿りついたのは古びた石造りの階段を上った先。決して長くない廊下は行き止まりで、校舎のほとんど端に当たる場所のようだ。他の場所より少し真新しさがあって、月明かりの差し込む窓の枠や燭台の金属は他と同じものなのに年季の入ったくすみがない。
「ここは?」
「ここはあいつに連れてこられた場所だな。お気に入りだそうだ。改装されたが窓は残ってる」
クルーウェルはそう言いながら当然のように大きな窓を押し開けた。言葉に違和感があるのは、この窓に何か思い出があるということなのだろう。
ヒトハはクルーウェルと窓の間に挟まるようにひょっこりと窓の外を覗いた。
「確かになかなか悪くない。よく見つけたものだ」
「綺麗ですね。薄暗いけど、今日は月が隠れてないから良く見える。──あれは街?」
「麓の街だな」
その窓からは学園の敷地を一望できることはもちろん、高い場所に当たるためか敷地の向こうまで見渡せた。ぽつぽつと輝いているのは麓にある街だというから、このナイトレイブンカレッジはかなりの高所に位置するらしい。もっと先にぼんやりと照らされる白い建物が見えたが、あれは別の学園なのだという。
「よっと」
「おい、やめろ」
ヒトハはなんとなく窓の縁に乗り上げた。元々高い場所は好きで、飛行術の授業でもあまり恐怖を抱いたことはない。夜風を感じたかっただけなのだが、これはクルーウェルの肝を冷やす結果になってしまったらしい。
ヒトハは足をぶらつかせながら首を傾げた。
「落ちませんよ?」
「そういう話ではない。そこで気を失ったらどうする。さすがに死ぬぞ」
「それもそうですね」
そういえば、いつ意識を失ってしまうか分からない状態だった、と思い出して、ヒトハはすんなりと納得した。それを意識し始めると、なんだか頭がぼんやりとし始めたような気もしてくる。
ヒトハは「降りるように」と差し出された赤い手袋に自分の手を重ね、引かれるままに窓の縁から飛び降りた。
「わ」
ぐらり、と体が傾く。爪先に力が入らずに足を滑らせたヒトハをクルーウェルは慌てて抱き留めた。この程度の着地でふらつくことなんてないはずなのに、どうにも調子がおかしい。無意識に魔法に抵抗しているのだとしたら無駄なあがきだが、それでわずかばかりの猶予ができていることも事実だ。
(もう終わりかな……)
いよいよと思うと急に名残惜しくなってくる。もうやれることは全部やったと思っていたのに、まだ一つ足りていないような気がして、ここで終わりたくはないと強く感じた。
ヒトハは抱き留められたまま、恐る恐る、腕を柔らかな毛皮のコートに回した。
「……あの、少しこのままでもいいですか」
みっともなく声が震えている。支える腕に力が入って、このままでいいと言ってくれているような気がした。
思い返せば、ここで目を覚ましてから一度たりとも拒絶されたことはなかった。それにどれだけ救われていたか、今なら分かる。
ヒトハは額を胸のあたりにそっと預けて浅く呼吸をした。
「先生、お願いがあります」
願うなら。たった一つ、ささやかなものでいい。胸の片隅に置いてくれればいい。叶えてくれたら嬉しいけれど、叶えてくれなくったっていい。自分がここにいたという記憶を、ひと欠片でいいから残して欲しい。
ヒトハは小さく息を吸って、ゆっくりと願いを紡いだ。
「私が──私が大人に戻っても、私を傍に居させてください。話し相手とかでも、雑用とかでも、いいですから」
これはもしかしたら大人の自分も一度は願ったことがあるのかもしれない。けれど今の自分が願うことに意味があるのだ。
クルーウェルはいつかそうしようとしたように、手のひらをヒトハの頭にのせて軽く撫ぜた。
「頼まれなくとも勝手にそうする。俺は身の周りのものには一切妥協しないたちでな」
いかにも彼らしい言葉に、ヒトハは俯いたまま小さく笑った。
それならば、きっと自分は選ばれてここにいる。彼の生徒でもない、ただの一人の人間として傍に居場所を与えられたのだ。ヒトハはじわじわと込み上げてくる喜びを噛みしめながら、ちょっとした照れ隠しのつもりで「それは色々あったから?」と問いかけた。
「そうだな。お前とも色々あった」
「……ずるい。先生やっぱり嫌いです」
耳が熱くなってしまっているから、きっと赤くなっているのだろう。どうか暗がりで見えていませんようにと願いながら、ヒトハは回した腕に力を込めようとして、もうそれほど時間がないと悟った。
そっと腕を解き、見上げる。見下ろすシルバーグレーの瞳に自分だけが写っている。今このときがずっと続けばいいのに。
「怖いか?」
「いいえ、これっぽっちも」
ヒトハはきっぱりと言い切って首を振った。
「名残惜しさはあります。でも、私は人の努力を踏み台にしてまで幸せでありたいとは思いません。だからこの幸せは返さなきゃいけない。それにほら、大人の方が色々と都合がいいんですよね、私。そうでしょう、先生?」
「お前、大人の方より大人びてるな……」
「ええ? もう入れ替わっちゃおうかな」
ひとしきり笑い、沈黙が落ちる。ふと肩から力を抜いて、ヒトハは精一杯の笑顔を浮かべた。上手く笑えていたならいいが、彼も穏やかな顔をしているから、多分上手く笑えているのだろう。
「いっぱい迷惑かけて、ごめんなさい。ほんの少しでもいい夢を見させてくれて、ありがとうございました。大人の私にもよろしく伝えといてくださいね、先生」
この七日間、いつか戻る大人の自分のことが知りたくて沢山のことを見聞きしたが、この瞬きの間のような時間ではそれほど多くを知ることはできなかった。自分がたった七日間でこうも変わってしまったように、大人の自分も長い年月をかけ、多くのことを経験し、変わっていったのだろう。それを推し量るなど到底無理だ。
ただ唯一、確信を持って言えることがある。
彼に抱く気持ちは間違いなく同じだ。
そう思うと、自分が全て消えてしまうわけではないような気がした。
瞼が重い。ヒトハは抵抗をやめて、流れに従うことにした。
もう後悔もないし、未練もない。やりたいことは十分にやったからいつ戻ってもいいし、この日常を返してもいい。
でも、この記憶と感情は持って行く。この奇跡の七日間は、“私”のための七日間だから、大人の自分には返してあげない。
(でもやっぱり、羨ましいなぁ……)
そしてまどろむように、ゆっくり瞼を落とした。
***
「……ん? ん? あれ?」
力なく垂れた両腕をぎこちなく動かしながら、ヒトハはぼんやりした頭でこの状況を理解しようとしていた。
目は開けているはずだが暗い。額には何かがぶつかっている。なんだかいい香りもするし温かいような気も──
「ひぃ! こ、これは一体どういう状況ですか!?」
ヒトハは悲鳴を上げて目の前の身体を両手で慌てて押した。「うっ」と苦しそうな声がしたから、力加減を間違えたのかもしれない。
クルーウェルは押された場所に手を当てて青筋を立てた。
「おい! いきなり突き飛ばすな! せっかく支えてやっていたのに!」
「支え? 私、もしかして立ったまま寝てました? ──あれ!? なんで私、生徒のコスプレしてるんですか!? あ、先生の趣味?」
「違う! 起き抜けでよく口が回るな、この駄犬。話せば長いが……俺はもう眠い。説明は後で聞かせてやるから帰らせろ」
眠い? と疑問に思って周りを見渡すと、そこは以前破壊してしまった校舎の一角だった。新調したての窓の外を目を細めてじっと見ていると、なんだか空が薄く白み始めているような気がする。
「徹夜明け? まさか、朝!?」
「そうだ」
クルーウェルは怠そうに言って深く息を吐いた。壁に体を預け、ほとほと疲れた様子である。
彼は白い前髪を搔き上げると、少しだけほっとした顔で言った。
「おはよう」
ヒトハにはその意味がよく分からなくて、戸惑いながら彼の言葉に応えた。
「お、おはようございます?」
早朝の涼やかな風が窓から吹き込み、この学園に朝が訪れる。ヒトハの災難で不幸で奇跡の七日間は、こうして終わりを迎えたのだった。
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