Seven days for me

06 Sixth day

 ヒトハは今はもう「帰りたい」と願わないことに気が付いた。戻ることより先に進むことを選ぶ。どうにもならないことを恐れる時間を、どうにかなるかもしれない気持ちの整理に使う。諦めと理解と納得が一気に押し寄せて、気がついたら激しく波打っていた感情が驚くほど静かになっていた。
 ──もっと早くこうなっていれば辛い思いをせずに済んだのに。
 何度もそんな考えが頭をちらついたが、この学園で得た一つひとつの積み重ねが今の自分をそうさせたのだとしたら、やはりこれは今、なるべくして、なったのだろう。

「わぁ」

 ヒトハは友人たちと熱砂の国でよく食べられるという料理を前に感嘆の声を上げた。
 米を使った料理は出身の極東の国でも馴染み深いが、鼻腔をくすぐるスパイスの香りは初めて経験するものだ。食べきれないほどに並ぶ料理の数々も、部屋に散りばめられた鮮やかで複雑な模様の織物も、全てが新鮮で目移りしてしまう。

「カリムくん、ありがとう」

 ヒトハは精一杯の感謝を込めてカリムにそう伝えた。
 事情を知ってたった一日しか時間がなかったのに、こうも盛大な宴を開いてくれる。それも彼らの貴重な時間を使って。
 カリムは少し離れたところに座っていたが、騒がしい室内でもその声を聞き取って人懐っこい笑みを浮かべた。

「たくさん食べてくれよな! 歌って踊って、今日は楽しんでいってくれ!」

 カリムはこの学園でも珍しいほどに大らかな性格なのだという。一緒に来た友人たち──オンボロ寮の監督生やエース、デュースも色々と言いながらも懐いてしまうほどに包容力があって優しい。そしてその優しさはヒトハにも当然のように分け与えられる。大人の自分ではない、今の自分に向けてもだ。
 ヒトハは勧められた料理を勧められるままに堪能して、賑やかな会話に耳を傾けた。時折話を振られて言い淀むこともあったが、エースの上手い返しやデュースと監督生の合いの手のおかげで会話は絶えることなく進んでいく。以前大人の自分が魔法薬を飲み間違えて死にかけた話と、その後階段から落ちて保健室に軟禁された話は、恥ずかしくて何も言えなかったけれど。
 不思議なのは、その話の端々に例の教師の話が挟まることだ。周りの生徒たちは当たり前のように彼の話をヒトハに聞かせた。もしかしたらあの日、自分たちを『親しい友人』と称した彼の言葉は嘘だったのかもしれない。そう考えるとなんだか居た堪れなくなって、ヒトハはうっかり手にしたスプーンを落としてしまった。

「──ヒトハさん、ヒトハさん!」

 その時、ふと焦ったような声が聞こえた。気が付けば周りが少し静かになっていて、背にしていたクッションに上半身が横たわっている。デュースから慌てたように肩を揺さぶられ、わけもわからないままゆっくりと起き上がると、周りの寮生たちはほっと息をついた。

「あれ? もしかして寝てた?」

 うたた寝をしていたかな、とヒトハが問うと、監督生が青ざめた顔で首を横に振る。

「急にパタっと気を失うように倒れて……。もしかして、その、魔法が……」

 ヒトハはデュースが心配して言おうとすることを有耶無耶にしようとして、首を捻りながら笑った。

「あれ? ……昨日、あまり寝れなかったからかな?」

 与えられた七日間は砂時計のように時間ぴったりに終わるわけではない。六日目の今日、今すぐに戻ったっておかしくはないと分かっている。けれどそれを意識してこの時間を台無しにしてしまうことだけはしたくはなかった。
 ヒトハが何事もなかったかのようにスプーンを拾い上げ「それで、何の話だっけ?」と話の続きを促すと、宴はぎこちなくも、次第に元の調子に戻っていったのだった。

「ユニーク魔法?」

 課題の話、学園の七不思議の話、部活の話と続いて、話題はいつしかユニーク魔法のことになっていた。
 この学園には寮長や副寮長はもちろんのこと、一年生や二年生でもすでにユニーク魔法を習得している生徒が存在する。
 ハーツラビュル寮の二人は自分の寮長のユニーク魔法について「エグい」だとか「反則級」と評した。どうやら寮長のリドル・ローズハートは魔法を封じるユニーク魔法を習得しているらしい。言い方は酷いものだったが、魔法士にとっては一番痛いところを突かれるようなものなので、その評価も分からなくはない。
 二人の話を聞いていると、ふとエースが「ヒトハさんってユニーク魔法使えんの?」と言い出した。

「私はユニーク魔法はまだ使えたことがなくて。大人の私も使えないんじゃないかな?」

 そういえば、と思い出す。ここ数日いろんな人と話したが、そんな話は一切出てこなかった。人によっては手の内を明かさないように隠していることもあるというから、その可能性もないわけではない。
 しかしヒトハは当然のように「使えないだろう」と結論付けた。周囲にはもう使える生徒がいたが、自分にはその兆しすらなかったのだ。

「そういやヒトハさんのユニーク魔法、見たことないね」
「きっかけがなかったとか、タイミングが合わなかっただけかもしれないぞ」

 エースとデュースが顔を見合わせて言い、ヒトハは軽く首を横に振った。

「私、魔力が少ないから普通の魔法を軽くしか使えないし……。憧れるけど、さすがに贅沢な望みかなって思ってるから」

 この世にいる全ての人間が魔法を使えるわけではないのだと考えたら、使える人間に生まれた自分は恵まれている方だ。そう思えば、ユニーク魔法なんて自分には過ぎたものだ。

「ユニーク魔法に使う魔力の量のことなら、多さは関係ないと思うぜ!」

 四人と一匹で話していた魔法の話は、知らぬ間にカリムの耳にも届いていた。カリムは溌剌とした声でヒトハにそう言い、にこにことしている。

「あ、そっか」

 エースが手を叩く。

「カリム先輩は少ない魔力で大量の水を出すユニーク魔法を持ってんだって」
「へぇ、少ない魔力でも使えるんだ」

 ユニーク魔法は魔法士の個性。当然通常の魔法よりもずっと魔力の消費が多いものだと思っていたのだが。
 エースの話に同調するように、肉を頬張っていたグリムが監督生の隣からひょっこり顔を出す。

「そうそう! それがすげー美味いんだゾ!」
「美味い……?」

 美味しいと言われるほどの上質な水は、通常の魔法でもなかなかお目にかかれないだろう。つまり、彼ひとりいれば砂漠のど真ん中でも水浴びができ、飲み水を得られる。しかも少量の魔力で。災害を起こすのも、恵みを与えるのも自由自在と考えたら、それが並大抵のことではないというのが分かる。
 カリムは少し照れ臭そうに「ま、水をたくさん出せるってだけだけどな!」と笑った。

「いいなぁ。もう大人の私の年齢じゃ難しいのかな」

 ヒトハは自分の本来の年齢を数えてため息をついた。
 今からでも頑張れば出来るのだろうか。周りにいるほとんどの魔法士たちは大人になるまでにそれを習得していて、大人になってからというのはあまり聞かない。
 それでもカリムはヒトハの不安を跳ね除けるように言い切った。

「そうか? やりたいことも、なりたい夢も、いつからでも遅くないと思う。俺もこれから頑張りたいこと、たくさんあるしさ! 一緒に頑張ろうぜ!」
「ヒトハさん、『ええ〜無理ですよ〜』とか言いそう」

 エースが大人のヒトハの声真似をして、隣のデュースが「ふ」と笑いを堪える。監督生も背を向けて震えているから、この声真似は不本意なことに似ているらしい。
 ムッとして、ヒトハはエースを放ってカリムに向き直った。

「その話、大人に戻ったらもう一回聞かせて!」
「いいぜ! 約束だな!」

 カリムはヒトハの唐突なお願いを二つ返事で引き受けた。
 突き抜けて前向きな彼ならば、憧れたユニーク魔法にまた挑んでみようと思わせてくれるはずだ。ただ少し抜けているところがあるから、大人の自分にこの話が正確に伝わるかだけが不安だ。

「もう一つ、お願いしてもいい?」
「ん? なんだ? 俺にできることなら言ってくれ!」
「カリムくんのユニーク魔法を見てみたくて」

 カリムはきょとんとして瞬きをすると、たちまち笑顔を浮かべた。

「もちろんいいぜ!」

 すっと立ち上がり、彼の杖であるペンを持つ。そして部屋に大きく開けたバルコニーの前に立ち、外に向かって杖を振り上げた。

「熱砂の憩い、終わらぬ宴。歌え、踊れ! 〈オアシス・メイカー〉!」

 カリムが呪文を唱え、一拍置いて晴れた空から不思議と雨が降り注ぐ。まだ空高い陽の光が水滴に反射してきらめき、その幻想的な光景にヒトハは胸を震わせた。水を出せる、とは言っていたが、こんなにも自然に降らせることができるとは。
 ヒトハは誘われるようにふらりとバルコニーに向かった。伸ばした手に水が滴る。ひんやりと心地良く、これは雨ではないのだとはっきりと分かった。

「あ、そっちに行ったら濡れるぞ!」

 カリムが制止するのを聞いていながら足を止めることができず、ヒトハはそのまま外へ踏み出した。高い場所から寮の庭を見渡して、その光景にため息が漏れる。スカラビア寮は屋内外全てが豪奢で美しい。

(夢みたい……)

 そんなことを思いながら、一方で自分自身の存在が“夢みたい”であることを思い出した。
 自分はきっと優しい夢を見せられていて、そろそろ起きなければならないのだ。そうでなければ時間は止まったままで、大人の自分は自ら掴んだ居場所に帰れない。
 ──返さなければ。この幸せに満ちた時間を、本来の持ち主に。
 当たり前のことを当たり前にするだけなのに、それを考えると、いくら気持ちを整理したって本当はやっぱり悲しくて辛かった。

「泣いてんの?」

 頭から水を被ってずぶ濡れのヒトハに、エースはそう問いかけた。
 気が付けば自分を心配した友人たちが同じように濡れそぼっている。

「泣いてない」

 ヒトハは力の入らない口元を無理に押し上げた。

「あーあー、もう仕方ねーなぁ」

 エースは演技がかったような声で大げさに言うと、ヒトハの肩に腕を回して引き寄せた。丁度肩に顔がぶつかって、そのまま目元を埋めると涙がじんわりと滲む。背中に温かな体温を感じるのはきっと監督生で、丸ごと抱きしめてくれるのはデュースなのだろう。
 たった数日の瞬くような時間の、その終わりに。これほど幸せなことがこの世にあったのかと思い知る。これは図書館に閉じこもって勉強ばかりしていた本来の自分には得られないもの。そして大人になった自分が手にしたものだ。

「泣いてるのか!? みんなが泣いてるところを見ると……なんだか俺も……ぐすっ……」

 身を寄せ合って別れを惜しんでいると、いつの間にかカリムまでやって来てヒトハはぎょっとした。
 心優しい彼はヒトハの悲しみにも寄り添ってくれたのだが──追加の料理を取りに席を外していたジャミルから「な、何をしているんだ……みんな揃って……」と呆れられながら屋内に引きずり込まれたのを機にすっかり涙が引っ込んでしまった。
 それからは、ただ穏やかに時間が過ぎた。終わりを惜しみながら、また少し思い出を積み上げながら。

***

「一体何をしたらそうなる」
「ちょっと濡れちゃって……。ジャミルくんに乾かして貰ったんですけど」

 エースたちと最後の別れを交わしたときには空は夜にほど近くなっていた。
 薄暗い校舎の近くで、クルーウェルは眉を寄せて深々とため息をつく。これまで何度も見た仕草だ。
 彼が気に食わないのはヒトハの乱れた髪型だった。髪も制服もジャミルの魔法ですっかり乾いていたが、整えることまではしていない。そろそろと後ろ髪に指を這わせると結び目の周りの髪がほつれていた。
 ここ数日で彼は身だしなみにかけては人一倍煩い、と気が付いたヒトハは誤魔化すように笑った。が、クルーウェルは笑って誤魔化しが効くような男ではない。
 彼はジトリとした目を向けながら仕方なしに杖である指揮棒を振るうと、ヒトハの髪をいつか整えたときのように結び直した。

「いついかなるときも毛並みはきちんと整えておくように」
「はぁい」

 そんなこと言っても、もう忘れちゃいますけどね。なんて冗談を言おうとして、突然、目の前に幕が下りたような感覚がした。

「──おい!」
「あれ……? えっと、寝てました?」
「寝ていたというより、気を失っていた、が正しいな」

 気が付けば昼間のときのように体が横たわっている。幸いにして背中に自分を支える腕が回っているおかげで地面にぶつかることだけは免れていた。
 魔法にかかって初めて目を開けたときと同じような、立っていたはずなのにいつの間にか倒れている状況に、ヒトハは呆然としながらも小さく笑った。

「もう終わり、って感じがしますね。思ってたより早く──」

 なんとか上手く振舞おうとする口が、ふと止まる。
 自分を覗き込む男を見て、つい先ほどまで忘れかけていた悲しみの感情が再び這い上がって来るような気がした。

「──先生、そんな顔しないで」

 見上げる先に一番星が見える。いずれ空は夜を越え朝へ移り行くのだろう。
 迎える最後の日はいつか見た堂々とした姿でいて欲しい。そうでなければ笑って終えることができない。
 自分のせいでこの人を悲しませてしまうこと。それが何よりも悲しいことだから。

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