Seven days for me
05 Fifth day
なんだか元気ないですね、と心配そうに声を掛けられて、ヒトハはぎこちなく口元に笑みを作った。元気がないと指摘したオンボロ寮の監督生はそれを見て困ったように眉を下げる。
五日目の放課後、ヒトハは広大な校舎の廊下をエースたちと談笑しながら歩いていた。それぞれの寮に帰るために鏡舎の方面へ向かっていて、オンボロ寮との分かれ道で解散だ。
「あと二日しかないんだなって思ったら、ちょっと名残惜しいというか、終わって欲しくないというか。明日も明後日も休みだし」
予定では魔法はもってあと二日。この不思議な日々が終わり、日常が帰ってくる。けれど過ぎ去る日々の呆気なさに心はついて行かず、あまり実感ができていないままだ。この学園で授業を受けるのも最後、こうして校舎を友人と呼べる人たちと歩くのも最後で、それから。
「そういえばその魔法、解けたら全部忘れるんだっけ」
「クルーウェル先生が何か色々言っていたな。よく分からなかったけど」
「俺たちはまだ覚えなくていいんじゃね? 生物には禁止されてるらしいし、学園長どうやって隠蔽したんだろ」
これって知られたらマズいよな、と笑うエースとデュースの会話を後ろで聞きながら思い出す。
そういえばこの魔法はとても危険で、生物に対しては禁忌とまで言われているのだ。それなのにこうして日常らしきものを送れているのは不思議なことだった。
「忘れたくないな」
ぽつりと零した言葉に前を行く二人が振り返り、隣を歩いていた監督生がそっと視線を寄越す。
「まぁでも、たった数日だけどずっと一緒に授業受けたわけだし、魔法が解けたら何があったか色々教えてやんよ。色々ね」
エースがにやりと笑う。
彼の言う「色々」は魔法史の小テストで満点を取ったことだろうか。それとも、動物言語学で変な喋り方をして教室中を笑わせてしまったことだろうか。どうせ後者だろうな、というのは三日間彼らと過ごして分かったことだ。エースとグリムが度を越してふざけて、デュースが止めて少し口論になって、そして間にいる監督生が諫める。
思い返せば、三人と一匹と共に過ごせた日常は束の間ながら面白おかしくて心地がよかった。
「きっと大人の私も喜ぶよ」
ヒトハが笑いながら答えると、黙って聞いていたグリムが首を傾げた。
「喜ぶのはオメーだろ? だって今はちょっと前に戻ってるだけで、元に戻ってもヒトハはヒトハのままで……だから……オレ様、何言ってるのか分からなくなってきたんだゾ……」
グリムの素朴な疑問に全員が目を瞬かせて、そして監督生が優しい声で「そうだね」と答える。
「うん。魔法が解けたら色々聞かせてほしいな」
きっと嬉しいから。そう付け足すと、三人と一匹は心得たように頷いた。彼らなら良いことも悪いことも面白おかしく話して、大人に戻った自分に良い思い出を返してくれるに違いない。
校舎を出て図書館の近くをしばらく歩いた頃、「あ!」とエースが突然声を上げた。
「っていうか、まだ明日も残ってるし! カリム先輩から宴に招待されたじゃん、俺たち!」
エースが言っているのは、今日の昼休みにヒトハの事情を知ったカリムから招待された、明日の食事会のことである。
スカラビア寮の寮長だという彼は「昔のヒトハにもうちの寮の魅力を知ってもらいたいからさ!」「前から招待する約束してたし!」と言いながら眩しく笑っていた。寮の魅力を知っても忘れてしまうということを分かっているのかいないのか。それでも心遣いが嬉しくて、エースたちと行くことになったのだ。
「じゃあまた明日。昼前に鏡舎集合だな」
デュースがそう言い、それぞれが寮に戻って行くのを見送って、ヒトハは元来た道をとぼとぼと独り歩いた。
帰る場所は彼らのような寮ではない。ここ数日はクルーウェルと職員ばかりの静かな食堂で程ほどに会話を交わしながら夕食をとるのが日課で、それが終われば自室に帰る。
(気が重い……)
昨日からなんだか調子が悪く、今日の魔法薬学の授業では酷い失敗作を生み出してしまったし、きっとそれでいつも以上に気持ちが落ち込んでいるのだ。そればかりが理由ではないことは理解しているが、この行きたいような行きたくないような複雑な気持ちを片づけるには、今日の嫌な失敗のせいにするのがもっとも都合がよかった。
一歩踏みしめてはため息が出る。頭で理解することと心で納得することはまったく別物で、それがどうにも歯痒い。
この時、ヒトハは俯きがちに歩いていたせいで気付くのが完全に遅れてしまっていた。不意に大きな影が頭上から落ちてきて、そこでやっと、ここ数日ですっかり緊張を緩めてしまったことを後悔したのだった。
***
「あれ? この前より弱いな?」
「は、離して……」
ぎり、と痛む手首に顔を歪める。ひと気のない図書館の裏でヒトハは三人の生徒に囲まれていた。
背には壁。捕まった手首は強い力で顔の横に縫いつけられて、びくともしない。男子生徒三人を前にしては前も後ろも壁に囲まれたようなものだ。
(なにしたの、私……)
こうなっているのは自分のせいではなく、大人の自分のせいであることはすぐに分かった。数日この学園で過ごして概ね好意的に受け入れられていることは充分に感じていたが、どんな人間も万人から好かれることはない。先日エースが脅かしてきた通り、彼らは不意打ちを狙ってきたのだ。それもかなり不穏な動機で。
「俺はお前のせいで停学くらったんだよ。覚えてないだろうけどさぁ」
「それは自業自得……」
「あ?」
脅しつけるような声に怯み、口を噤む。停学になるということは間違いなく彼自身のせいだ。ただ、そうなってしまった過程に自分が一枚噛んでいるらしい。なんだってそんな真似をしたのだろう。どうしてわざわざ危ないことに首を突っ込むのだろう。
「なぁ、大丈夫か? 飼い主が怒るんじゃね?」
「大丈夫だろ。どうせこいつ、あと三日も経てば元に戻って今日のこと忘れるんだし。要は“三日黙らせたらいい”ってことだろ?」
耳触りの悪い、嫌な笑い声だ。いつものことにうんざりする。
ずっと、そこそこ力のある生徒から悪意を向けられるのが嫌で嫌で堪らなかった。彼らは大した魔力も魔法力もないくせに成績だけは自分たちより上回る“欠陥品”が許せない。その感情の先にある理性のない暴力は、いつもヒトハの足を引っ張っては鈍らせた。
喧嘩は嫌いだ。痛いのも嫌だ。でも負けたくはないし、きっといつか報われると信じて戦ってきた。それでも結局、何年経ってもその流れから抜け出せてないというのは、ヒトハにとってはあまりにも情けのないことだった。
「……今日、寝坊でもしたの?」
「あ?」
「靴紐、掛け違えてる」
さっと生徒が視線を落とす。くすんだ白いスニーカーの靴紐が左右絡まっている。当然、自然にはなり得ない。魔法か、と生徒が気がつくまでの間にヒトハは隠し持っていた杖を振り上げた。
マジカルペンではない、大人の自分が形状変化させた小ぶりの杖。相変わらず手には馴染まないが携帯性と“隠し持つ”という点だけでいえば、これほど優秀な杖はない。
次の瞬間、生徒は異様な力をもって強かに地面に背をぶつけていた。
側から見れば生徒は軽く肩を押されただけのように見えただろう。実際に、ヒトハは目の前に立つ生徒の肩を軽く押した。手っ取り早く自分より体格のいい相手を組み敷くなら浮遊の魔法だ。ほんの少し足元を浮かせて倒し、あとは重力のままに落とすだけでいい。
ヒトハは両足の自由を奪われ、受け身もままならないまま痛みに喘ぐ生徒を淡々とした目で見下ろした。
「大人の私はここまでやらなかった?」
生徒を跨いでしゃがみ込み、杖先を喉元に突き付ける。細く小ぶりな杖は鋭利で、生徒の肌に小さな窪みを作った。周りに小さな汗の粒が滲む。
この杖は本当によくできている。
皮肉なことに、これが初めて大人の自分に感心した瞬間だった。
生徒との睨み合いの最中、突然杖を握りしめていた方の腕が強く引かれた。関節の逆を向かせるような強い痛みを伴いながら、ずるりと生徒から引き離される。
「何をしているんだ! 離れなさい!」
たまたま現場を見咎めた職員は、運の悪いことに、全てが終わってから現れた。
「これだからあの魔法はリスクが高いと言ったのに」
頭上からそんな言葉が聞こえてきて、ヒトハは耳を疑った。
(私?)
職員の矛先は先に手を出してきた彼らではなく、こちらを向いていた。反撃の場面のみを見咎められたばかりに。そして、「凶行に及ぶ例もある」とまで言われて人体への使用を固く禁じられた魔法にかけられているばかりに。
(違う……)
狂ってなんかいない。そう言いたかったのに、その言葉は喉に張り付いたかのように出てこなかった。直感が、言ったところで事態が好転するとは到底思えないと警鐘を鳴らしている。下手をすれば更に悪い方に行きかねない。
しかし何も言わないこともまた、悪手であることに変わりなかった。
「やはり無理にでも解くべきでは?」
呆然としている間に集まった職員たちは力なく腕を掴まれているヒトハを置いて、そう口にした。
「無理に解くのはリスク高いですよ」
「まずは正気か確認しないことには」
「何かの拍子に取り乱した可能性もありますが」
「やめなさい、本人の前で」
彼らの交わす言葉、そのほとんどが“彼女は魔法によって正気を失った”とはっきりと告げていた。正気を疑われては何を口にしても意味がないことは明白で、やはり黙って地面を眺めるしかない。
ヒトハは五日間過ごしてやっと、これが本来自分が受けるべき扱いであることに気がついた。
危ういものを扱っているという不安、おかしくなってはいないかという疑念、いつ転ぶか分からない不安定さは谷間で綱渡りをさせているようなものだ。
初日からこの目に晒されていたなら、それこそ気が狂っていたかもしれない。あるいは取り乱した果てに魔法によって気を失わされる可能性もあっただろう。それは彼らにとっては当然の対処なのかもしれないが、ヒトハにしてみればあまりに乱暴で、屈辱的なものだった。
(誰か……)
ヒトハはきつく唇を噛んで滲み始めた涙を必死に抑えた。ここで一粒でも零してしまったら、理不尽な暴力を振るった生徒にも、理由も聞かずに決めつけようとする職員らにも屈してしまうような気がした。
(先生)
ふと、魔法にかかったあの日に聞いた言葉が思い浮かんだ。
必ず助けてやる。胡散臭さすら感じていたこの言葉が、こうも意味を持つ日が来るなんて。今はあの自信に満ちた背を前にしなければ、もう真っ直ぐ立つことすらままならない。助けて欲しい。そうでなければ、もう耐えられそうにない。
「無駄吠えの多いことだ。聞くに耐えん」
低く、険のある声にヒトハは弾かれたように顔を上げた。放課後の夕日を遮るように立つ男はほとんど無表情で、その裏には滲むような静かな怒りが見え隠れする。
ヒトハを見下ろし、クルーウェルは険しく目を細めた。親指をさっと濡れた目元に滑らせて、職員に向き直る。
「お言葉ですが」
そしてヒトハの腕を取り返し、静かに職員を睨め付けた。
「そこの駄犬どもが群れをなして仔犬一匹取り囲むなどと情けのない真似をしている時点で、状況は分かりきっているのでは?」
それとも、すでに状況を把握できているなら聴かせていただけますか? と追い討ちをかける声も嫌味ったらしく、職員は何も言い返せないままたじろいだ。
ヒトハは自由になった体を起こしてクルーウェルをそっと見上げた。あと少しというところで、彼はあの言葉通りに助けてくれたのだ。
応えるように彼は一瞬だけ視線を寄越し、ヒトハの腕を引いて自分の後ろに回した。複数の職員を前にして明確に怒気を孕んだ声で言い放つ。
「この件は俺が全て責任を負うと最初に言ったはず。彼女の処遇を勝手に決めるような真似は控えていただきたい」
それは言葉ばかりが丁寧なだけの威嚇だった。生徒たちを叱るときよりもはるかに静かでありながら一切の反論を受け付けない姿に、自分に向けられたものではないと分かっていながら思わず体が強張ってしまう。
「──では、そちらの聴き取りはお任せします。行くぞ、ナガツキ」
クルーウェルは途端に口調を軟化させると、踵を返した。しかし彼が向かったのは本来待ち合わせていた食堂の方面ではない。
ヒトハは足元をもたつかせながらその背を追いかけようとして、ちらりと職員たちと加害者である生徒たちに目をやった。すっかり委縮してしまった姿にわずかばかりの気の毒さを感じたが、同情はできそうにもなかった。
***
「大丈夫か?」
「……はい」
どこへ向かうのかと思えば魔法薬学室で、ヒトハは最終的に教室の硬い椅子に腰を落ち着けた。クルーウェルはヒトハの返事を聞くと「そうか」と言い残して教室の奥に引っ込んで行く。
(もうダメかと思った……)
その足音を聞きつつ、ヒトハは机に突っ伏しながら深く長い息を吐いた。
あと少し遅ければ泣き喚いて暴れていたかもしれない。そうなれば、あのクルーウェルですらも擁護できない事態になっていたかもしれないのだ。欲を言えばもう少し早くがよかったが、さすがにそれは贅沢というものだろう。
しばらくそうしていると、ちょうど頭上のあたりで何かが置かれる音がした。
「紅茶?」
目の前に置かれたのは、飾り気はないが形の良いカップだ。ずるずると起き上がり、それを両手で包むと緊張で固まった指先がじんわりと柔らかくなる。
ヒトハはその香りをすっと嗅いで、向かいに座ったクルーウェルを見ながら首を傾げた。
「これも、私の好きなもの?」
「そういえば最近好きだとか言ってたな」
彼は自分の手元にある同じカップを見下ろして、朧気な記憶を掘り起こしながら答えた。「俺は好きだが」と言って、あまり気にしたことはないようである。
「で、何があった?」
クルーウェルはヒトハがカップを置き一息つくまでたっぷりと間を空けて、見計らったように尋ねた。
ヒトハはそこで彼があまり状況を理解しないまま庇ってくれていたことに気が付き、目を瞬いた。実は本当に癇癪を起こして生徒に飛び掛かっていたのだとしたら、どうするつもりだったのだろう。きっとただでは済まないはずなのに、あの時の彼には一切迷いがなかったのだ。
あと少し遅ければ、という思いが再び湧いてきて、ヒトハはぞっとした。自分の幼稚な行いで、足を引っ張るような真似だけはしたくなかった。
「あの三人が、その──」
ヒトハは先ほどの出来事を口にしようとして、ほんの少しまごついた。
「喧嘩を、吹っ掛けてきたので買いました。丁度馬乗りになったところを見られちゃって」
クルーウェルは「馬乗り……?」と怪訝そうな顔をしながらも聞かないことにしたのか、それに関しては深く追求せず「つまり」と続ける。
「向こうから仕掛けてきたわけだな。何でそれを言わなかった?」
「だって、言っても無駄かと思って。みんな私が頭おかしくなったと思ってたから。……先生だって、私のこと危ないやつだと思ってるんでしょ?」
ヒトハは不貞腐れて口を尖らせた。あの場には、自分を危ない人間だと思っている人しかいなかった。その理由が理解できないわけではない。当然、彼も心の底では自分と一線を引いていると思っていたのだが。
しかしクルーウェルは、芯の通った声で「思っていない」と強く否定した。
「大人のお前も、暴れはしても筋は通した。無意味に力を振るうことは絶対にしない」
ヒトハはその言葉に、手元のカップをぎゅっと握りしめた。他でもないこの人から、これだけの信頼を寄せられる人間が自分であるという事実が激しく胸を揺さぶるのに、嬉しいと感じるのに、一歩引いたところで後ろめたさを抱くのだ。
「だって、それは……それは私じゃないもん……」
最後まで口にしまいと思っていた言葉は、驚くほどよく口に馴染んだ。ずっとこれを言いたかったのだ。
「私じゃない。先生は、私のこと何も分かってない。私は」
ヒトハは絞り出すような声で言って弱弱しく俯いた。手元のカップに視線を落とし、浅く残った紅茶の水面をじっと見る。
子供っぽい自分を見られるのが恥ずかしくて、自分から言い出した癖に、どうしても正面切って言える自信がなかった。そんなところが子供っぽいのだと、分かっているのだけれど。
「あと少し遅かったら、私はあの人たちに手をあげてた。納得も我慢もできないし。……でも、でも本当は暴力は嫌いなの。大人の私、暴れるなんて意味わかんない。どこで恨みなんて買ってきたの?」
ぐちぐちと八つ当たりのようなヒトハの話を、クルーウェルは黙って聴いていた。
どんな顔をしているのだろう。呆れているのだろうか。じわじわと後悔が滲んできてその先を言い淀むヒトハに、彼は「それから?」と静かに促した。
「……それから、私、紅茶はもっと甘い香りが好き。勉強は好きだけど、得意じゃない。魔法薬学は嫌い。魔法薬って不味いし臭いし最悪。でも上手くできないからって甘えたことなんかない。だから可愛げなんかないし友達だって少ない。それなのにいきなり知らない人と組んで実験するなんて無理。……先生、二日目のあれはないですよ」
「それは悪かったな」
ふふ、と強張った口元から笑いが零れる。
「それから、それから──」
言いたいことはたくさんあった。たった五日間なのに、たくさんのことをして、たくさんのものを見て、感じたから。
そしてそれが溢れるほど、いつか来る終わりをまざまざと見せつけられるのだ。
「本当は、怖いんです。私が消えるのが怖い。私の大事な一週間が、これまでの私が、私の中でなかったことになるのが怖くて辛い」
いつの間にかぼろぼろと零れていた涙が、握りしめたカップの中で波紋を起こしては消える。どれだけここで叫んでも、こうやっていつかは消えてなかったことになるのだ。
思い出は友人たちが返してくれる。けれどこの気持ちは誰も返してはくれない。楽しかった、嬉しかった、辛かった、怖かった、それから。
「もう、先生なんか嫌い。私のこと何にも分からないくせに分かったようなこと言って、いつも大人の私のことばっかり」
思わず滑り出た言葉に、ヒトハはハッとして肩をすくめた。
「……ごめんなさい」
「いや、俺はお前を見誤っていたな。確かにお前は、俺の知るお前ではない。この状況を楽しむかと思っていたが、それほど辛い思いをさせていたとは」
クルーウェルはひとつ息をついて「ただ」と続けた。
「お前には迷惑な話だろうが、あいつが以前言っていたことが気にかかっていてな。『もし学生時代に戻れたら、ここでの生活を味あわせてあげたい』『みんなと過ごせたら楽しいはず』『授業も受けてみたい』『魔法を使うことは楽しいことだと教えてあげたい』。その望みが叶う瞬間を無視したら、必ず後悔が残るだろう?」
ヒトハは瞳に涙を残したまま、カップから顔を上げた。つ、と涙が頬を伝って落ちる。
クルーウェルは、本来なら他の職員が言っていた眠りの魔法でも使ってしまえばよかったのだ。学園長が最初に提示したように、魔法が解けるまで意識を奪ってしまえば、誰の手も煩わせることはない。当然彼も、ヒトハが犯すかもしれない問題行動の責任を負うなどと言わなくて済む。
それでも一番面倒で、厄介で、難しい方法で、十七歳のヒトハ・ナガツキをこの世界に生かすことに決めた。それは、他でもない“私”が望んだからだ。
(勝てないなぁ……)
自分のことなのに何を張り合おうというのだろう。結局彼の気持ちを向けられるのは自分自身のはずなのに。それでも彼の見ているヒトハ・ナガツキは自分ではないから、やっぱり悔しい。
ヒトハは下がってしまいそうになる口角を無理やり押し上げて笑った。
「……明日エースくんと、デュースくんと、みんなと約束があるんです。思い出、たくさん作ったら失くすのがまた怖くなっちゃうけど。みんながあとで思い出を聞かせてくれるって、言ってくれたから」
ヒトハは制服の袖でグッと涙を拭った。
「怖いけど、楽しいことも、もっと知りたい。私がなくなったあとの私のこと、もっと」
大人の自分を知れば、恐れは消えるのだと思っていた。でも本当はそんなことはなくて、結局はそれも最後まで持って行かなければならない。それならば、自分がなくなったあとに見る世界がどんなに素晴らしいか知りたいのだ。この記憶を失う絶望よりも、未来に向かう希望が欲しい。
「そうだな」
涙で歪んだ視界の先、魔法薬学室の明かりに照らされながら。目の前で微笑む人は、この世界で見たどんなものより輝いて見えた。
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