Seven days for me
01 First day
硬く安っぽい紙にペンを走らせ、片手で参考書を捲る。ふと窓の外でカラスが鳴いて、ピンと張っていた糸がぷつりと切れる音がした。
雑音に気が付いてしまったらもう勉強どころではない。ヒトハは参考書の残りのページ数を憂鬱な顔で確認した。放課後からこの図書館で永らく勉強をしていたから、そろそろ寮に戻らなければならない。これ以上居残っていては、夕食に遅れるばかりか寮長にまた叱られる。
ヒトハはノートを囲むように積まれた本を掻き集めて片腕に抱え、ゆっくりと立ち上がった。硬いプリーツが長時間潰されて皺になっている。身だしなみどうこうを言われるのは好きではなく、渋々それを片手で伸ばした。
はぁ、と自然に小さくため息が零れる。
明日の魔法解析学の試験のことを考えると憂鬱だ。魔法士養成学校のカリキュラムにある教科の中でも不得意な部類だが、筆記で点数を出さないことには進級が危ぶまれる。ただでさえ実技は大目に見てもらっているのに、つまらない点数なんて出していいわけがなかった。
寮に戻ってまた勉強しよう、と思いながら図書館の扉に手をかけ、一つ瞬きをしたその瞬間──ヒトハはあまりのことに「はぁ?」と声を漏らした。
そこは図書館ではなくなっていた。
まず自分は立っていたはずである。腕に本と筆記具を抱えて、図書館から出ようとしていた。なのにいつの間にか横たわっている。抱えていた本の重みはなく、そればかりか両腕は力なく脇に垂れていた。幸いにして床に転がされているわけではないが、それは自分を支える腕があったからだ。
ヒトハは自分を心配そうに覗き込む男を見て、大きな悲鳴を上げた。
「ひっ! だっ、誰!?」
彼は一瞬煩そうに眉を顰めたが、すぐに「そうだったな」と言って背中に回した腕に力を込めた。それが壊物を扱うように優しく、ゆっくりとした動作だったので、余計に不信感が募る。
起き上がってみれば、そこは自分の知る学校ですらなかった。薄暗くひんやりとした倉庫のような場所で、覚えのある薬品の匂いがする。厳重なガラス棚に陳列された瓶は間違いなく魔法薬だ。
(ここ、どこ)
一つひとつ状況を整理したいのに、あまりにも膨大な情報量に頭が追いつかない。
例えばこの部屋、そして未だに自分の背に腕を回して屈んでいる成人男性、それを遠巻きに見ている男子生徒が二人、散らかったガラスの破片。どれひとつとしてヒトハの知るものではない。
第一、この男の派手なことといったらない。赤と黒と白の目が覚めるようなコントラストが奇抜で、それなのにやたら似合っているのが不思議だ。よく観察してみると自分より随分年上だが、際立って整った顔立ちをしているからかもしれなかった。
「大丈夫か?」
「は、はい!」
気遣わしげに声をかけられて、ヒトハは慌てて男の腕から逃れた。知らない男の腕にいつまでも体を預けるというのは、いくらなんでも無防備すぎる。途端に恐怖が湧いてきて杖のある胸ポケットを探ったが、そこにポケットはなく、薄汚れた白い生地があるだけだ。
いつの間にか、ヒトハはまったく見覚えのない薄い水色のワンピースに白いエプロン、そして白い手袋をしていた。
言葉にならない声を上げながら服を触っていると、不意に男がヒトハの名前を呼んだ。
「ナガツキ」
「はい!? な、なん、なんで知って……」
一度も名乗った覚えなどないのに、その男の態度には妙なまでの気安さがあった。しかしすぐに何かを思い出し、苦々しく「そうだったな」と真っ赤な手袋で額を抑える。
「すまない、怖がらせるつもりは──いや、しかし状況を説明せねばならん。とにかく、落ち着いてくれ」
「はぁ」
ヒトハ自身も心に一切の余裕がないほどには困惑していたが、目の前で焦りとも見える表情を浮かべるこの男もまた余裕がないらしい。何かを言いかけてはやめ、ややあって一つだけ質問を投げかけてきた。
「今、いくつだ?」
「い、いくつ……? 歳?」
「そう、年齢だ」
初対面でいきなり年齢を問う意図がまったく読めず、ヒトハは答えを躊躇った。しかしこのまま何も答えないのでは平行線のままである。
「じゅ、十七、ですけど……」
「十七歳か」
男はそれを聞いて「よし」と何かを腹に決めた。ヒトハと距離を保ったまま、落ち着かせるようにゆっくりと語りかける。
「とにかく心を平常に保つんだ。魔法士の基本だからな。お前にもできるはずだ」
「は、はぁ……」
ヒトハはまるで気の立った獣のような扱いに、生返事をすることしかできなかった。
魔法はイマジネーション。想像力、精神に深く繋がる魔法の基礎として自分自身の心を制御することは、最初に習うことのひとつだ。取り乱し、魔法を暴走させては魔法士として最も恐れること──オーバーブロットを引き起こしかねない。
とはいえこの状況をすぐに受け入れられるかというと、それは無理な話というものだ。知らない場所に突然移動して知らない男が目の前にいるとあれば、いくら訓練を積んだ魔法士でも混乱する。
しかし他に助けを求められるような状況でもなく、ヒトハは男の指示に従って小さく息を吐いた。強張った肩からゆっくりと力が抜ける。
「色々と説明せねばならんが、まずその前に名乗っておこう。俺はデイヴィス・クルーウェル。このナイトレイブンカレッジで教師をしている」
ひゅっ、とせっかく吐いた息が引き戻される。
「ナイトレイブンカレッジ!?」
魔法士として生きているならばその名を知らない者はいない。ヒトハは落ち着かせた肩を再び強張らせた。
ナイトレイブンカレッジ──それは選ばれた者だけがその門をくぐることを許される、魔法士養成学校。このツイステッドワンダーランドでも屈指の名門校で、そして、言わずもがな男子校である。ヒトハがつい先ほどまでいたのは極東の小さな島国にあるごくごく普通の、共学の魔法士養成学校だ。一体何がどうしてこんなところに、と取り乱しかけた頭を引き戻したのは、ヒトハの肩を強く抑えるクルーウェルの手だった。
「落ち着け、ちゃんと説明をしてやるから、まずは落ち着け」
それはほとんど懇願に近い様子で、ヒトハは再び頭が覚めていくのを感じた。しかし、だからといって疑問が消えるわけではない。その答えを求めてクルーウェルを見返すと、彼は意を決したように静かに口を開いた。
「結論から言う。お前は魔法にかかっている。今お前の抱いている疑問も、不安も、全部その魔法のせいだ」
「そっ、そんなこと急に言われても、私はさっきまで学校で勉強を……」
クルーウェルはヒトハの答えを聞いて眉を顰めた。
「勉強をしていたのか?」
「図書館で、明日の魔法解析学のテストが……どっ、どうしよう……」
そうだ、勉強をしていた。明日には魔法解析学の難しいテストがあって、それで良い点を取らなければならない。ヒトハが慌てていると、クルーウェルは難しい顔をして「なるほど、そうなるのか」と独り言を零した。
「あの、魔法──魔法って、転移とか、移動の魔法のことでしょうか?」
転移ならまだ説明がつく。極東からこのナイトレイブンカレッジまでは果てしなく遠いが、強い力を持つ魔法士であるなら絶対に不可能というわけではない。そしてそうであるならば、まだ解決方法はある。帰れば済むだけの話だ。
しかしヒトハのわずかな希望を、クルーウェルは「ちがう」とバッサリと切り捨てた。
「驚くな、いや、驚いてもいいが取り乱すな。これは“過去の状態に戻る魔法”だ」
「過去……」
一瞬見えた光が力なく消えていく。目の前が真っ暗になったような心地になりながら、ヒトハは浅く息をした。もはや、そうすることしかできなかった。
呆然とするヒトハにクルーウェルはなおも力強く、言い聞かせるように言ったのだった。
「お前は本来、大人で、この学園に勤めている清掃員の、ヒトハ・ナガツキだ」
***
「さて、色々と説明する前に、まずはこの魔法がなんたるかを先に知っておかねばならんだろう。そこの愚かな駄犬どもも、己がやったことの重大さをよく頭に叩き込め」
クルーウェルは白と黒の特徴的な指揮棒を強く手のひらに叩きつけた。何も悪いことをしていないのに、妙な緊張感が湧いてくる。
状況が完全に飲み込めないまま、ヒトハは最初にいた薬品庫から連れ出され、隣接している魔法薬学室の椅子に座っていた。そこから少し離れた後方に、青い顔をした男子生徒が二人並んで座っている。
状況を簡単に説明をしてもらったところ、今回の事件の発端はこの二人なのだという。彼らが貴重な魔法が封じられた瓶を盗みに入ったところ、それを見咎めた大人の自分が止めに入り、うっかり瓶を割ってしまった、というなんとも間抜けな話である。しかも彼らを庇って魔法にかかったというのだから、そのお人好しっぷりに呆れてしまう。今の自分であれば、そもそも彼らと関わりたいとすら思わない。
ヒトハはこの状況に納得することを諦めて、クルーウェルの講義に耳を傾けた。彼は教師というだけあっていかにもな厳しい喋り方で、なぜか生徒を犬呼ばわりしている。よく見れば指揮棒に首輪が付いているから、もしかしたら犬が好きなのかもしれなかった。
「まず、大前提としてこの魔法はタイムスリップやタイムトラベルと呼ばれるものではない。対象物の状態をある期間内、過去に戻す魔法だ。ここで重要なのは過去に戻るのはあくまで一時的なものであり、永遠ではないということ。つまり、若返りだとか永遠の命だとか、そういうおとぎ話じみたものではないということだ。この期間というのは魔法を使用する者とされる者の魔法力によって変わるが、今回はそうだな、ナガツキの魔法力を鑑みて約一週間といったところだろう」
クルーウェルが一息に言い切った隙を見計らって、ヒトハは小さく手を上げた。
「はい、クルーウェル先生」
「なんだ、ナガツキ」
先ほどの焦りと困惑からはすっかり解き放たれて、クルーウェルは授業でするように指揮棒の先をヒトハに向けた。
「例えば一週間後に元に戻ったとして、今からの一週間の記憶はどうなるんでしょうか? もし急に大人の記憶が戻ってきたら、混乱しますよね」
彼は少しだけ眉を上げて、小さく笑った。
「いい質問だな。結論から言うと、過去に戻った一週間の記憶は抹消される。これはお前の言う通り、元に戻ったときに過去の記憶と現在の記憶が混濁して発狂した例があり、非常に危険であるからだ。ゆえに過去の自分に戻っていたときの記憶自体を抹消することによってこれを防ぐ。実に合理的な魔法だな」
ヒトハは「なるほど」と思いながら手元に目をやって、そこにノートがないことに気が付いた。ここは自分の知る学校ではないし、いつもの授業でもない。テストもなければ将来にも関係しない。ノートに書き込む必要は、もうないのだ。
思わぬところで気落ちしてしまったヒトハをよそに、クルーウェルは疑問に答えるとすぐさま次の話に移った。
「しかし一方で重大な問題もある。この魔法にかかった者は記憶ごと過去に戻ってしまうせいで、突然未来へタイムスリップしたかのような感覚に陥ってしまうわけだが──当然、非常に精神状態が不安定になる。例えば、魔法を使用されていること自体が信じられず、疑心暗鬼になってしまう。自分が狂ってしまったかのような錯覚に陥る。または未来の出来事を知り、激しい絶望感を抱く。個人差は大きいが、凶行に及ぶ者や自死を選ぶ者もいたことを考えれば、この魔法がかなり危険なものであることが分かるだろう」
魔法にかけられた本人が聞けばぞっとするようなことを淡々と口にしながらも、熱が入ったのか、クルーウェルは指揮棒を再び自身の手のひらに叩きつけた。静かな教室内に鞭打つような音が響く。
「ゆえに、人道的な観点により生物への使用は原則禁止されているのが現状だ。人体などもってのほか! 特殊な研究機関であればまだしも教育現場では禁忌もいいところだ! この、駄犬どもが!!」
これには被害者であるヒトハも息を呑んだ。当然、後ろに座る二人の男子生徒は動揺のあまりに椅子をがたつかせている。
(こ、こわ……)
美人が怒ると怖いとはいうが、加えてこの声量と有無を言わせない強い喋り方である。自分のいた学校にも怖い先生は存在しているが、やはりここはナイトレイブンカレッジ。何かと規格外なのだろう。
クルーウェルは勝手に冷や汗を流すヒトハを見やり、きゅっと吊っている眉を下げた。
「ナガツキ、今は強い不安を感じているだろうが、一週間耐えてくれ。何も深く考えるな。時間が過ぎれば、何もかもが必ず元に戻る。いいな」
「は、はい……」
ヒトハは気圧されたまま、なんとか頷いた。
クルーウェルの言うことは理解できた。この無茶苦茶な状況を説明できているし、辻褄は合う。彼の言う重大な問題というのも、把握してしまえば心構えくらいはできるというものだ。ただ、気持ちがついていかない。彼の言う「耐えろ」というのは、きっとこのことなのだ。それは言葉で聞いて理解するよりも、ずっと難しいことだった。
「ではクルーウェル様のありがたい特別講義は終わり! 駄犬ども、貴様らは明日の朝、反省文を提出するように。ナガツキは残れ。THAT’LL DO!」
次に指揮棒が唸った時、生徒たちは逃げ去るように教室から出て行った。反省文とやらの提出もあるし、ぐずぐすしていたらまた怒号が飛んでこないとも限らない。
ヒトハはそんな恐ろしい教師と二人きりで教室に取り残され、心細さを感じていた。ここ一時間程度で知り合った男など、いくら親切にされても心の底から信用できるわけがない。不安になって胸元に手をやると、クルーウェルは見透かしているのか「杖は腰の位置にあるはずだ」と言った。
言われた通り腰にあった杖は普段使用しているペン状のものではなく、形状変化した小ぶりで華奢なものだった。当然手には馴染まず、あまりにも心許ない。
「今日はもう日が暮れている。夕食を済ませたら、ひとまずお前の部屋に連れて行ってやろう。今日ばかりは何も考えず、ゆっくり休んだほうがいい」
そう言うと、クルーウェルはヒトハを魔法薬学室の外へ連れ出した。すでに日が暮れていて、時間の感覚でいえば図書館にいた時からあまり差はないようだ。
ヒトハは毛皮コートの大きな背から、遠くの高台に佇む城に目をやった。火を灯したような光が煌々と外壁を照らしている。初めて見るナイトレイブンカレッジの校舎は、あまりに荘厳で、そして、恐ろしかった。
本当は何ひとつ納得などしていない。今もまだ、ただ漠然と「帰りたい」と強く願っている。でも本当の本当は試験なんかなくて、とっくに自分は学校を卒業していて、大人で。
頭では分かっているのに、何もかも実感が湧かない。それはまるで、見えている水を必死に掴もうとしているようなものだった。
連れられてやって来た食堂では学園の職員たちがまばらに座って食事をしていたが、彼らはヒトハとクルーウェルを一瞥するだけで、これといって気にした様子はなかった。大人が着ていた制服のままだからか、遠目ではあまり見分けがつかないようだ。
ヒトハはどうにも食欲が湧かず、適当に頼んだキノコのリゾットをスプーンの先に乗せて、ちまちまと口に運んでいた。普段であれば美味しく感じただろうに、今日ばかりは何の味もしない。
そうして食堂の硬い椅子の上で縮こまってろくに食べられないでいる自分を、なぜかクルーウェルは辛抱強く待っている。口を出すわけでもなく、ただ静かに。
ぽつりぽつりと職員たちがいなくなる食堂で、度々ヒトハはちらりと目だけでクルーウェルを見上げた。しかしぶつかった視線に恥ずかしさを覚えて、すぐにテーブルの皿に戻してしまう。そんなことを繰り返しながら、ふと疑問が芽生えた。
──彼はどうしてこんなにも世話を焼いてくれるのだろう。
初対面なら、もっと他所よそしさがあったっていい。顔見知り程度なら、もっと適当な扱いだっていいはずだ。しかし自分が受けている扱いは、そのどれでもなかった。
どうしてこんなに優しくしてくれるんだろう。
ヒトハにはそれが、どうしても理解できなかった。
食事を程ほどに済ませ、二人は再び外へ出た。聞くところによると、大人の自分はこの学園の敷地内にある寮で生活しているのだという。寮生活という点では、今の自分と変わらない生活を続けているようだ。
「学校では寮生活を?」
「は、はい」
クルーウェルは半歩ほど前を行きながらヒトハに尋ねた。
「寂しく感じたことは?」
「え? えっと、ないです」
むしろ二年生は二人部屋だから、早く一人になりたいと思っているくらいだ。余計な気を遣わなくてもいいし、勉強も捗る。
クルーウェルはヒトハの返答を聞き、「それは結構」と頷いた。よく分からないが、どうやらこの答えが正解だったらしい。
クルーウェルはたまにヒトハがちゃんとついて来ているかを確認しながら、ゆったりと前を歩いた。ヒトハはふと気になって、自分より随分と高い背丈を見上げた。
「クルーウェル……先生は、大人の私と、どんな関わりがあったんですか?」
言いながら「まさか」と思ったのを見透かしたように、彼は首だけで振り返って、にやりとした。
「少なくともお前が思っているようなものではない。知り合い、と言うにはもう少し気安い関係だろう。とりあえずは親しい友人とでも思っていればいい」
「私が、先生と……?」
ヒトハは思わず口にしてしまって、「いえ、その」とまごついた。
クルーウェルは今まで縁もなかったような派手な男性だ。一体どうやって彼と仲良くなったのか、まったく想像がつかない。
困惑するヒトハを見下ろして、クルーウェルは穏やかに言った。
「色々あったからな」
その言葉には例えようのない苦労が滲んでいたが、それでもやはり、穏やかだった。
彼の言う「色々」というのをヒトハは知らない。きっと大人の自分と彼の間では多くの経験と出来事と、意味を持って伝わるのだろう。けれど今の自分には何があったのか、これっぽっちも分からない。そう思うと、妙にもどかしかった。
結局のところ、彼の思うヒトハ・ナガツキと今の自分は、完全な意味での同一人物にはなり得ないのだ。
クルーウェルは慣れた足取りでとある部屋の前にやってくると、急に足を止めた。後ろから追いかけていたヒトハは、ふわふわのファーに体を突っ込みそうになりながら立ち止まる。
「この部屋はお前が住んでいる部屋だ。好きに使って構わんだろう」
彼が視線で指したのは何の変哲もない扉だ。大人の自分が住んでいる部屋だから好きに使っていい──というのも当然のことなのだろうが、妙な抵抗があった。当の本人からしてみれば他人同然の部屋である。
クルーウェルは何とも言えない顔をしているヒトハを見て、心配そうに眉を下げる。
「一緒にいてやりたいところだが、俺はこれから仕事が山積みでな。誰か一緒にいた方が安心か? 生徒でもいいが、全員男だから気が休まらんだろう。ゴーストなら呼べばすぐに来てくれると思うが……」
「ゴースト!?」
ヒトハは驚きに声をひっくり返した。
ゴースト。霊。死者の魂。あの世に行かず、この世に止まっている者たち。時に生者に悪戯や悪事を働く者もいるという。それをクルーウェルは呼ぼうと言うのだ。
ヒトハはちぎれんばかりに首を横に振った。
「ひ、ひとりで大丈夫です……。今日、疲れちゃったし。私、もう寝たいです」
「そうか」
それもそうだな、と彼は簡単に引き下がった。
「安心しろ。お前が元に戻るまでの約一週間、不自由なく過ごせるようにしてやる。せっかくだ。学園を散策するのもいいし、好きなように過ごしていい。何かあればすぐに連絡を寄越せ。明日の朝には迎えに来てやるから、とりあえずは部屋でお利口に待っていろ」
「連絡?」
「スマホがあるだろう?」
「スマ……あ、これ?」
クルーウェルに言われて取り出したのは随分と薄くて軽いスマホだった。まさか魔法にかけられて一番に感動したのが技術の進歩だなんて。
しげしげとスマホを見るヒトハに、クルーウェルは「早く買い替えろと言ったんだがな」と苦言をもらしている。大人の自分がもっと羽振りが良ければ、さらに薄いスマホが見れたのかもしれない。物持ちのいい倹約家とケチは紙一重である。
スマホの使い方に四苦八苦しているヒトハの向かい側から、クルーウェルは長い人差し指を伸ばした。俺の連絡先はこれだ、と手早く操作されて教えてもらった画面には、本当に親しい友人なのか疑わしくなるほどの淡泊なやり取りが残っている。
「何か他に不安なことは?」
「いえ、特には……。まだ何が不安なのかも、よく分からなくて」
不安なことがすべて言葉にできるなら苦労はしない。そしてそれが解決できるのであれば、こうも悩んでいないのだ。スマホを握りしめるヒトハに、クルーウェルは「そうだろうな」と静かに言った。
「全て一時的なものだ。納得はできないと思うが、間違いなく解決する日は来る。とはいえ我慢しろと言っているわけではない。どうしても耐えられないというのであれば言え。必ず助けてやる」
「はぁ……」
そしてクルーウェルがそっと手を伸ばしたのに驚いて、ヒトハは小さく身を引いた。ばつの悪そうに手を引き戻す彼の顔は、どこか物悲しい。
悲しいのは私のほうだ、大人のくせに傷ついたような顔をして。そんな八つ当たりに近い感情を抱きながらも、結局それを口にすることはなかった。親しい友人が別人のようになってしまった彼の心情を思いやってやれるほど、ヒトハには義理もなく、余裕もなかった。
そうして大人の自分が住んでいたという部屋に入ったヒトハは、佇んだまま、ただぼうっと部屋の内装を眺めた。
そこそこに広く、木目の家具で統一されている洒落た部屋だ。やはり他人の部屋を借りてきたかのようで居心地が悪い。
死んだマンドラゴラが窓際に座っていたり魔法薬の瓶に花が一輪刺さっていたりするのも、今のヒトハには何の意味があるのか分からなかった。
(帰りたい……)
違う。“帰りたい”ではない。“帰れない”のだ。
これは完全な片道切符で、終着点はまだ見ぬ大人の自分だ。そしてそこへ辿りつく時、この不安も、この記憶でさえも抹消されて日常が帰ってくる。
けれど今の自分にとってはただの底知れない闇で、谷底に突き落とされるかのような恐怖でしかなかった。
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