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こわい先生の話

 賢者の島の高台にそびえ立つ城──かの名門魔法士養成学校、ナイトレイブンカレッジ。数少ない“魔法が使える者”から、さらに選ばれた男子のみがその門をくぐり、学ぶことを許される。
 エリート揃いのこの学園に平凡な魔法士はいない。ましてや、女子なんて。
 ──なんて思っていた時期が自分にもあったと、ヒトハは遠い昔のようで最近の出来事を思い返していた。
 ほんの数週間前は遥か遠い極東の島国で平々凡々な会社員をしていたというのに、急展開に次ぐ急展開の末、今や名門校の職員だ。

(まぁ、清掃員なんだけど)

 当然、教師だなんて輝かしいものではない。魔法は使えど凡人の域を出ず、他人に物を教えるほどの技量があるわけでもない。このポジションに収まることができただけでも、奇跡みたいなものだった。

 ヒトハ・ナガツキは緑が生い茂る魔法薬学室の傍で、木陰に隠れるようにしゃがみ込んでいた。夏の間に伸びた無数の雑草たちを無心で掴み、引き抜く。ぽいと捨て、また引き抜く。
 清掃員の仕事はいたって単純である。広い敷地に張り巡らされた道を箒で掃き、ゴミを拾い、窓を拭く。
 何も特別ではない。けれど、穏やかな仕事だ。広い空、豊かな緑、遠くを見渡せば賢者の島を囲む大海原。窮屈な街中でキリキリと働いていたあの頃とは違う風景。違う匂い。違う風。
 ヒトハは誰もいないのをいいことに、ふんふんと上機嫌に鼻歌を歌いながら、太い茎を掴んだ。

「……む」

 これはなかなかの大物である。ちょっと力を入れたくらいではびくともしない。
 両腕の袖を引っ張り上げ、茎を握り直す。後ろに体重をかけながら引き抜こうとしたその瞬間、

「キャンキャンと無駄吠えをするな!!!!」

 怒号が飛んだ。
 ガラス張りの魔法薬学室がビリビリと震え、屋根の上で楽しく囀っていた小鳥たちが慌てて空へと逃げていく。ヒトハはすっぽ抜けた雑草を握りしめ、ころりと尻もちをついた。透明ガラスの向こうの魔法薬学室は、どうやら地獄と化しているらしい。
 この学園の教師、デイヴィス・クルーウェルが丁寧に整えられた眉を直角すれすれまで吊り上げて、鞭……ではなく指揮棒の形をした杖をしならせているのである。

(相変わらず凄い迫力……)

 美人が怒ると怖いとは言うが、彼の場合はビジュアル以前の問題だ。すさまじい声量と気迫があり、そこに美人が上乗せされる。要するに、“とてつもなく怖い”。
 生徒たちは「クルーウェル先生を怒らせると人としての生活が終わる」と言っていた。そのせいで、彼はヒトハの中で“学園で怒らせてはいけない人物ナンバーワン”に君臨していたのだった。

(掃除場所、変えよう)

 部外者とはいえ、この空気に晒され続けるのは辛い。ヒトハは尻尾と耳をぺたんこにして叱られ続ける仔犬たちに胸の中で手を合わせ、そそくさと立ち去ることにしたのだった。
 積み上げた雑草を急いで袋に詰め込む最中に鋭い目がこちらを見たような気がしたが、たぶん、きっと、気のせいだろう。

「はぁ、彼氏……? いませんけど……」

 仕事の終わりは夕暮れと共に訪れる。小鳥たちの囀りがカラスの鳴き声に変わる頃、ヒトハは中庭の近くで数人の生徒たちに囲まれていた。
 この学園は男子校である。突然現れた二十そこそこの女が物珍しいらしく、時折こうして引き留められては雑談に巻き込まれていた。話の内容は故郷の極東の国のことだったり、ここへ来た経緯だったりするわけだが、ごくたまに年齢やら恋愛やらセクハラ一歩手前にまで話が及ぶ。
 年頃の男の子を相手にしているのだから、仕方がないのは分かっている。分かっているのだが、プライベートのことを今日知り合ったような人にべらべらと話すのは苦痛で、それを茶化されるのも好きではなかった。

(帰りたい……)

 赤くなったり青くなったりしながら話しをするヒトハのことを面白がって、生徒たちは自分たちより背の低いヒトハを囲んだまま、帰そうとはしなかった。
 どうすればこの壁を突破して家に帰れるだろうか、と頭を悩ませていると、生徒のひとりが「あっ」と声を上げた。
 その視線の先にあるのは中庭に面した外廊下。それから、白黒縞々の毛皮コート。その男はヒトハと目が合うなり、「ナガツキ! カム!」と声を張ったのだった。

「かむ?」

 噛む?
 ヒトハが呑気に首を傾げていると、代わりに生徒たちが慌て始める。

「『こっちに来い』って意味!」
「先生、なんか怒ってないか?」
「ええ? 何で……?」

 確かに、よく見ればイライラと不機嫌な顔をしている。ヒトハが渋って動かずにいると、なんと彼は「ヒトハ・ナガツキ!」と、まさかのフルネームを叫んだ。
 そこでやっと生徒たちに背を押され、ヒトハは渋々クルーウェルの元へと走ったのだった。

「遅い!」

 彼は先ほどよりも三割増しに不機嫌だった。このままでは人間生活終了の日も遠くはあるまい。
 しかしヒトハが背を縮こまらせながら怯えていると、彼は少しばつの悪い顔をして、「何を話していた?」と落ち着いた声で尋ねたのだった。

「何を?」

 こてんと首を傾げる。それと彼の怒りに一体何の関係があるのだろうか。意図がさっぱり分からないが、ヒトハは言われた通りに答えた。

「ええっと、故郷のこととか、私の年齢のこととか。かっ……彼氏いるのかとか、そういう感じの……」

 話題が話題なだけに言い難そうに答えるヒトハを見て、クルーウェルは濃いグレーに縁取られた目をスッと細めた。

「なるほど、分かった。もう行っていいぞ」
「あ、はい」

 拍子抜けである。特に何を叱られるわけもなく、すんなりと解放されてしまった。
 結局何だったんだろう。と、ヒトハが生徒たちの元へ戻ろうとすると、クルーウェルはそれを「ステイ!」と強く引き留める。

「待て、そっちじゃない」
「え? でも、まだ話の途中……」

 生徒たちもハラハラしながらこちらを見ている。戻らなければ、と指をさして訴えると、彼は呆れた顔をした。

「清掃ゴーストたちがお前を探していた。図書館のほうだ」
「ええっ!? そうなんですか!?」

 それは一大事だ。まだまだ新人の身、先輩たちが探しているなら飛んで行かなければ。

「ありがとうございます!」

 ヒトハは勢いよくクルーウェルに頭を下げ、生徒たちに手を振って、図書館のほうへと走った。
 それからすぐに後ろから大声とカラスが飛び立つ音が聞こえてきたが、何があったのかは分からずじまいだ。
 辿りついた図書館では清掃ゴーストたちが今年の新入生達の噂話をしていて、「クルーウェル先生から言われて来た」と言うと、彼らは一様に首を傾げたのだった。

***

「──っていうことがありましたね」
「あったな、そんなことも」

 クルーウェルは小皿に載った小さなお菓子を器用にフォークで割って口に運んだ。こしあんがぎゅっと詰まった極東名物の饅頭である。
 お上品な彼と違って、ふた口で食べ切ってしまったヒトハは手持無沙汰に昔話をしていた。この魔法薬学室にいると色々な出来事を思い出す。今日思い出したのは、彼と出会って数週間くらいのことである。お互いのことが分からなくて、まだ何も理解できていなかった頃だ。

「今考えてみると、あのとき先生は困っていた私を助けてくれてたんですよね」
「なんだ、今更気がついたのか」
「だって、あの頃は怖くてそれどころじゃなかったんですよ。最初は私、先生に会うたびにビクビクしてましたし」
「あっという間に生意気になったがな」

 ふん、と嫌味っぽく笑うクルーウェルを、ヒトハはじとりと睨む。

「でも今は、ちょっと可愛く見えるときありますよ」
「かわいい……?」
「はい。トレイン先生に小言言われてるときとか、調合失敗したときとか、薬草枯れてたときとか」

 ヒトハが指を折りながら言うと、クルーウェルは形の良い唇をへにゃりと曲げ、嫌そうな顔をした。つまり、そういうところである。

「災難に遭う俺を見て楽しいか?」

 すっかり不貞腐れてしまった彼は、小皿とフォークを机に置き、拳に顎を載せた。ヒトハはそんな彼の隣にやって来て、ひょいと饅頭を摘まむ。制止される前に口に放り込むと「おい」と苛立った声が不満を訴えた。
 あの頃は絶対にこんなことはできなかったし、こんな関係になるなんて思ってもみなかった。
 ──なんて、最近のようで遠い昔の出来事を思い出しながら、ヒトハは怖い顔をした先生の前で「楽しいです」と、にっこりと笑ったのだった。

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