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清掃員さんの深夜の捕獲大作戦

(疲れた……)

 部活の監督を少々、残業を少々。帰宅し、夕食を終えてしばらく。そろそろシャワーでも浴びようかと思い立った時のことである。テーブルに伏せていたスマホが、シャワールームに向かおうとする足を引き留めた。
 ──こんな時間にかけてくるとは非常識なやつだ。
 クルーウェルは内心毒づきながらその着信を無視しようとしたが、途中で思い当たる人物が一人いることを思い出した。こちらの気も知らず自由奔放に振舞う学園清掃員の女──そう、ヒトハ・ナガツキである。渋々スマホを取り上げて見てみれば、予想はピッタリと当たった。

「ナガツキか? どうした?」

 クルーウェルはスマホを耳に当てながら、先ほどまで座っていた椅子に腰を下ろした。
 すると彼女はこう言ったのだ。

『先生、会いたいです。今、すぐに……』

 いつもの弾むようなソプラノではない。弱々しく落ち込んだ声だ。今にも泣いてしまいそうな──いや、泣いていたかのような。
 クルーウェルは再び椅子から立ち上がった。

「今行く。少し待てるか」

 返事を待たず、クルーウェルは車の鍵を掴んだ。いつものコートもベストもタイも置き去りにして、最低限の軽装で家を飛び出す。
 つい先ほどまで働いていた学園へ戻ることに躊躇いなどなかった。ただ無事であってほしいと、そればかりを考えていた。

「ナガツキ」

 クルーウェルは肩で息をしながら扉を叩いた。
 なにか事件に巻き込まれていたら、怪我でもしていたらと最悪を想像しながら駐車場から駆けてきたのだ。家主が出てくるまでの時間がもどかしく、再び拳を握ったところで、ようやく鍵が回る音がする。
 ゆっくりと開かれた扉から、ヒトハはそっと顔を覗かせた。一瞬だけ驚いたような顔をして、安心からか、ホッと滲むような笑みを浮かべる。

「来てくれたんですね」

 クルーウェルはその姿を見て、深く長く息を吐いた。彼女は就寝前の薄着ではあったが、どこか怪我をした様子もない。何か事件があったというわけではなさそうだ。
 では一体何があったのか。それを問う前に、やんわりと腕を掴まれる。

「お、おい」
「しっ、静かに……」

 彼女はそれだけ言って、夜の訪問者を部屋の中へ引き入れた。

(聞かれては不味いことか……?)

 クルーウェルは突然のことに戸惑った。ここは職員の住まうエリアとはいえ学園である。真夜中に異性を招き入れるというのは、あまり褒められたことではない。しかしよく考えてみれば、他でもない彼女自身が「今すぐ」「会いたい」と言ったのだ。常識に従う必要などないのだろう。
 クルーウェルは閉まった扉に背を預け、息を整えた。

「どうしたんだ、こんな夜中に」
「ごめんなさい……」

 彼女は問いに答える代わりに、瞳を揺らしながら謝罪の言葉を口にした。そうだ、こんな状態だから駆けつけたのだ。それを思い出し、「いや、いいんだ」と、そっと肩に手を置く。無理に喋らせるのは負担になるだろう。落ち着いてから、ゆっくり聞けばいい。しかし彼女自身はそうではなかった。
 唐突に伸ばされた片腕が、ちょうど腰辺りを通り抜ける。扉との間に挟まれているのだと気がついた時には遅く、彼女は「先生」と擦り寄るように体を寄せた。

「今夜は帰しませんから」
「!?」

 まさに頭を鈍器で殴られたかのような衝撃である。
 酒が入っている時ならともかく、男女のあれこれになると途端にキャッチボールができなくなるような女だ。こんな高度な振る舞いができるはずがない。さっと部屋の中に視線を巡らせてみたが、今日は酒の気配もしないではないか。

「おちつけ、ナガツキ。まずは何があったのか、説明……」
 
 と、肩に載せた手で引き離そうとした瞬間、後ろからカチリと鍵が回る音がした。

「ん?」

 彼女はじっとこちらの目を見つめながら、固い決意を込めた声で言ったのだった。

「帰しません。アレを、殺すまで」
「…………は?」

 遡って一時間前。
 ヒトハは就寝前のホットミルクを飲んでいた。これを飲むと安眠効果があるのだとテレビで観たからである。本日で連続三日目だが、明日には止めているような気がしないでもない。実のところ、不眠で悩んだことはなかった。
 ヒトハは壁掛けの時計を見上げ、空になったマグカップをテーブルに置いた。

「そろそろ寝よっかなぁ……」

 就寝の準備は済んでいるから、後は歯を磨いて寝るだけだ。
 ひとまずマグカップを洗おうと、立ち上がった時のことだった。

「ん?」

 床に黒いゴミが落ちている。しかも、何だか大きい。
 そんなゴミが出るような物なんて部屋にあっただろうか。
 ヒトハは目を細め、ゆっくりとそれに近づいた。

「~~~~~~!?」

「──と、いうわけで、先生を呼んだわけです」
「帰る」
「待って待って待って!」

 くるりと背を向けようとするクルーウェルに縋って、ヒトハは叫んだ。
 不審者に乱暴でもされたのではないか、ショックなことがあったのではないかと思っていたのに、蓋を開けてみれば“虫”である。ショッキングなのは理解できるが、たった一匹の虫のために、なんと迷惑な女だ。

「よくもこんなことで俺を呼びつけたな!? 今何時だと思っているんだ! 麓の街から車を飛ばして来たんだぞ!?」
「しーっ! 静かにしてください! どっか行っちゃうでしょう!?」

 ヒトハは慌てて人差し指を唇の前に立てた。どっか行く、ということは居場所は分かっているらしい。けれど周囲を見渡してもそられしき姿は見当たらなかった。
 クルーウェルは深々とため息をついた。

「そうは言うが、一体どこにいるんだ? どうせしばらく同居していたんだろう? 見えてないなら居ないも同然だ。さっさと寝ろ」
「同居って言わないでくださいよ!? ダメです! もう見たらダメなんです! 見るまでは居ないけど見たら居るんですよ!」
「ややこしいことを言うな。それとお前のほうがうるさい」
「やだやだやだ! 帰らないでください先生!」

 腰にがっちりとしがみ付くヒトハを引きずって一歩。こんなにも積極的にくっ付いてくる理由が酒か虫であることに気がつき二歩。扉に手は届く距離だが、「一人にしないで」と後ろから泣きそうな声が聞こえ、渋々振り返った。
 思い返せば、昔魔法薬学室で同じように虫を退治した時も酷い慌てようだった。一応女性なのだから、虫に対する苦手意識は自分よりも強いのかもしれない。
 それはそれとして、良い様に誘い込まれたことだけは納得がいかなかった。それなら最初から「虫がいるから退治して欲しい」と素直に言えばいいのだ。

「お前な、それなら最初からそう言え。何であんな小賢しい真似をしたんだ。事件にでも巻き込まれたのかと思ったぞ」
「だ、だって、バルガス先生がこうしたらクルーウェル先生が飛んで来てくれるって……」
「帰る」
「やだーっ!」

 見える。濃い目を片方だけ瞑って得意げにしている男の顔が。それだけでもう無性に腹が立った。
 そんな事を彼女の耳に吹き込んだことも憎らしいことこの上ないが、それにまんまと騙されておびき寄せられた自分が、何より腹立たしい。
 しかし「ごめんなさい」「もうしませんから」とぐずぐずとべそをかいている彼女を見ていると、悪いことをしたわけでもないのに罪悪感が芽生えてくる。

「ではどうしろと? お前の部屋をひっくり返してゴ……」
「名前!」
「……アレを、見つけろとでも?」

 渋々言い直してやると、ヒトハは神に祈るように両手を組み、うるんだ瞳でこちらを見上げた。

「先生には浮遊魔法で家具を持ち上げて欲しいんです。そしたら私が見つけて殺虫剤でやっつけちゃうので」

 一応自分で手を下す覚悟はあるらしい。それなら一人で粘れ、と言いたいところだが、家具をすべて浮かせながら動くものを仕留めるのは魔法士でも難しく、魔力の少ない彼女では不可能と言っていいだろう。
 ここまで来てしまったのだから、それくらいは手伝ってもいいのではないか。クルーウェルの耳元で良心が囁く。あの長い道のりをわざわざやって来たのだ。何も解決せず帰るというのもいかがなものかと。

「はぁ……わかった。さっさと終わらせるぞ」

 そう言うと、ヒトハはパッと顔を輝かせた。
 一晩中あの萎れた顔で過ごされるよりは、こっちのほうがいい。そう自分を納得させて、クルーウェルは杖を取ったのだった。

 ヒトハが殺虫剤を手にこちらに目配せをしたタイミングで、クルーウェルは杖を振った。部屋中の家具が重力を失ったかのように、ふわりと浮く。数十センチほどの浮遊魔法。簡単に見えて、これが意外と難しい。下手をしたら家具が壁にぶつかって傷をつけてしまうかもしれないし、家具同士が当たって壊れてしまうかもしれないのだ。
 ヒトハは前かがみになって、床と家具の間を恐々と覗き込んでいった。明るい室内とはいえ暗い影が落ちていて、目を凝らさなければ何も見えない。
 なんとも言いようのない緊張感が漂う中、彼女はベッドと床の間を覗いた瞬間「あ!」と叫んだ。

「いたか!?」

 すると彼女はベッドの下に腕を潜らせ、中からスティック状のものを取り出した。

「失くしたマスカラ、こんなところにあったんですねぇ」
「貴様…………」

 呑気な声を聞きながら、ギリギリと歯を食いしばる。今は失くし物を探す時間ではない。いっそ家具を落としてやろうか、と思ったその時だった。

「あーっ! いた!」

 ヒトハが叫んだ。いた、と目を向けている先にいる黒い“アレ”は、さすがにこの騒動でびっくりしたのか、チェストの下から飛び出してきたのだった。

「滅!」

 ヒトハは持っていた殺虫剤のノズルを向けた。が、アレはあろうことかコーナー手前でカクンと曲がり、こちらに一直線に向かって来る。

「ギャ────!!!!」

 断末魔のような叫びが響き渡る。慌てふためいて殺虫剤を取り落としたヒトハは、拾うことなくダイニングテーブルのほうへ逃げた。
 捨て身で向かって来たアレはクルーウェルのほうにも走って来たが、半径一メートルほど手前で大きく迂回した。薄いガラスのような膜がその先へ通さなかったのだ。

「一人だけ障壁張って……ずるい!」
「ずるいわけあるか。お前も魔法士ならこれくらいやってみせろ」

 遠くから野次を飛ばされて、クルーウェルは顔をしかめた。
 こっちは複数の家具を浮遊魔法で浮かせたうえで魔法障壁も張っているのである。文句を言われる筋合いはない。
 家具は相変わらず浮いている。隠れる場所を探してさ迷うアレは、なんとも賢いことに再びヒトハに目を付けた。またもや向かって来たアレに怖気づいて、ヒトハは「ひいっ!」と悲鳴を上げる。とっさにテーブルの上にあったマグカップを引っ掴み、それを素早く振り上げた。

「やーっ!」

 ダン、と重い音を立て、マグカップは床に“蓋”をした。なんと彼女は、アレを閉じ込めてしまったのである。マグカップの小さな円の中に。

「やった! やりました、先生!」

 ヒトハは大喜びでクルーウェルに勝利の報告をしたが、途中ではたと口を閉じる。

「マグカップ……」
「気がついたか……」

 クルーウェルは慎重に家具を下ろして浮遊魔法を解くと、マグカップの前で最初の泣き顔に戻っているヒトハの肩にポンと手を載せた。
 マグカップ──尊い犠牲である。正直なところ、洗ったとしても二度と使いたくない。
 ヒトハは両手で顔を覆った。

「うう、気に入ってたのに……先生と旅行に行った時に買った……」

 よく見ると、それは共に輝石の国に行った時に買った土産の品だった。白い陶器に可愛らしく描かれているのはノーブルベルカレッジの鐘楼である。思い返してみれば、どこかの雑貨屋で色に迷って意見を求められていたのだった。白のほうが絵柄が映えていいのでは、と言ったのを覚えている。
 また買えばいいだろう、と慰めてやると、彼女は鼻を啜りながら頷いた。

「で、どうやって仕留めるんだ?」
「…………火で」
「家が燃える」
「水…………」
「部屋を水浸しにするつもりか?」

 無言。

「マグカップごと上から潰すか、餓死を待つか」
「いっ、いやです! 潰したら床についちゃう!」

 ヒトハが血相を変えて首を振るので、クルーウェルは腕を組んだ。確かにあまり気分のいい方法ではない。そもそも気分のいい殺し方なんてあるわけないのだが。

「では死ぬまで待て。ちなみに、そのマグカップで何を飲んでいたんだ?」
「蜂蜜入りホットミルク」
「長生きしそうだな……」

 いっそ元気になりそうなくらいである。
 げんなりとした顔で沈黙のマグカップを見つめていた二人だったが、ヒトハが大きく息を吐いて「ちょっと休憩しましょ!」と言い出したのを機に、近くにあった椅子に腰を下ろした。

「何か飲みます? ビールしかなくて申し訳ないんですけど」
「ビールしかない……?」

 そんな家あるのか。そう思っている間にヒトハはパタパタとキッチンに向かい、缶を二つ持って戻って来た。
 手際よくプルタブを開けて「はい」と片方を差し出してくる。クルーウェルは仕方なくそれを受け取った。
 大仕事の後なのだから一服くらいしてもいいか、と自分を許して口を付け、はぁ、と椅子に深く沈み込む。クルーウェルは床にぽつんと残されたマグカップを見た。

「しかし一応捕まえたのだからひとまず解決でいいじゃないか。学園には虫が得意なやつくらいいるだろう。明日にでも何とかしてもらえ」

 そう言うと、ヒトハは悲しそうに眉を下げた。

「え……先生、帰っちゃうんですか……?」
「帰る」

 何が悲しくて彼女でも何でもない女性の家に真夜中まで居座ろうというのか。不安そうな顔を見ていると心が揺れるが、けじめはつけておかなければ──そうしておかなければ、やはり、彼女にとっても良くはない。求められているのは恐ろしい虫と共に過ごす夜を一緒に越してくれる友であり、男ではないのだ。
 立ち上がったクルーウェルの袖を、ヒトハは慌てて掴んだ。

「いや……アレと一晩一緒なんて嫌です。帰らないでください……」

 はぁ、とため息をつく。

「いいか、お前には危機感が足りない。深夜に男を、あんな手を使って誘い込むな。俺は紳士だからな。お前を尊重して帰るんだ」
「でも、どうやって?」
「どうって車……」

 あ、とスラックスのポケットに手をやる。
 車。そうだ、自分はここまで車で来たのだ。硬いキーが「置いていくな」と主張している。
 そこでクルーウェルは気がついた。テーブルの上の缶。この小賢しい女の策である。

「き、貴様…………!」

 ヒトハはクルーウェルの腕をしっかりと掴んだまま、にやりと笑った。

「ふふん、捕まえましたよ先生!」

 それは心配したことを後悔するほどの極悪な笑みだった。

「今夜は帰しません!」

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