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清掃員さんと自律清掃の魔法
忙しい。ああ、忙しい。
掃除道具を抱え、ヒトハは息つく暇もなく学園を駆け回っていた。学園内を清潔に保つことをミッションとしている清掃員は、その範囲が広ければ広いほど仕事量が増える。そして人手が少ないほど、一人が受け持つ範囲が増えるのだ。
(忙しい……!)
それもこれも最近立て続けに同僚たちが退職──あの世へ逝ってしまったからだ。“深刻な清掃ゴースト不足”のおかげで、ヒトハの一日の仕事量はとうに限界を超えていた。広い校舎を西へ東へ、北へ南へ。掃いても拭いても湧き出る汚れとイタチごっこを繰り返し、翌朝は昨日の疲れを残したまま目を覚ます。
これはいよいよ危ないと学園長に陳情しても、「未練持ちの死者はレアですからねぇ」「もう少し辛抱してください。残業代、割増しますから」と色よい返事を貰えた試しがない。給料が増えるのは嬉しいが、使う暇もないのでは宝の持ち腐れというものである。
「せんぱぁい」
廊下にぽつりと置かれた花瓶の台に縋って、ヒトハは項垂れた。
「今日も先生のお誘い、断っちゃいました……久しぶりだったのに……」
先輩ゴーストは燭台の煤を払いながら、ヒトハの嘆きにのんびりと返す。
「かわいそうにねぇ」
ヒトハはふよふよと宙を飛び回りながら仕事をこなす先輩を恨めしく見上げた。ゴーストたちに過労死というものは存在しないし、あの世に行かない限り時間は無限だ。口では「かわいそう」とは言うが、どこかズレている気がしないでもない。
ヒトハは花瓶を布巾で拭いながら、ブツブツと文句を続ける。
「人手は増えないのに仕事は増えるし、生徒たちはいつも通り学園を汚すし。観たいドラマも録画が溜まってきたし、眠いし」
「先生にも会えないし」
「そっ、そうですけど、その言い方はちょっと……」
ヒトハは丸々と大きな花瓶を抱え、これ見よがしにため息を吐き出した。
「この前も、その前も断っちゃったんですよ? 私、もう愛想尽かされちゃったかなぁ……ただでさえ友達少ないのに……」
ヒトハの出身地は極東にある小さな島国だ。この学園で同郷の人に出会うわけでもないし、日ごろゴーストたちと一緒に過ごしているから生徒以外の知り合いも少ない。そんな中、プライベートでもよく関わり合いになるクルーウェルの存在は貴重だった。
彼はヒトハの仕事が忙しくなっても、たびたび声を掛けてくれていた。ディナー、ランチ、ドライブ、果ては仕事の手伝いまで。しかしこの忙しい状況で、それももう何度も断ってしまった。今やお誘いの頻度は減り、学内で話す機会すら数日に一度である。
「はぁ……」
これはさすがに精神にくる。肉体の疲労もさることながら、心にも疲れが蓄積してきた。このままでは仕事どころではなく、身体がダウンしてしまう。
ヒトハは磨き上げた花瓶を定位置に戻し、次に窓へと手を伸ばした。その時、先輩が「そういえば」と思い出したように言った。
「〈自律清掃の魔法〉を検討してるとかって、どこかで聞いたよ」
「〈自律清掃の魔法〉?」
ヒトハは首を捻った。
自律清掃の魔法。正式名称は〈道具への魔力付与による自律清掃の魔法〉である。魔法学校においては三年生で教わる、上級者向けの魔法だ。
これは魔力と適切な術式さえあれば道具が勝手に掃除をしてくれる便利な魔法だが、しかし広大なナイトレイブンカレッジでは術式が複雑になり、管理が難しい魔法でもあった。定期メンテナンスに加え、安定した魔力の供給も必要だ。
「まぁ、まだやるかどうか分からないけど。学園長がゴーストを見つけてくるほうが早いかもしれないし」
先輩はそう言うと、燭台にふっと息を吹きかけて、残った塵を払った。不思議な緑の炎は一瞬だけ薄く伸び、再び勢いを取り戻す。彼は束の間の雑談を終え、次の燭台へ飛んで行った。
ヒトハは廊下に立てかけていた箒を手にして考える。
「魔法かぁ……」
その魔法が上手く使えれば、この激務も少しは楽になるのだろうか。
***
エースとデュースは放課後の廊下を歩いていた。片手に長い箒を持ち、授業で着る運動着を身にまとっている。
放課後になっても校舎に残っている生徒は少ない。ほとんどが部活動に励んでいるか、寮に戻っているからだ。暇を持て余す絵画たちを除けば人の気配を感じることもない、物静かな学校。廊下を照らす夕暮れの光の中をカラスの影が通り抜け、カァカァと鳴きながら遠ざかっていく。
こんな物寂しい場所に人が残っているはずがない。二人は当たり前のようにそう思っていた。だから自分たちの教室の扉を開いたとき、思わず「あっ」と驚いた。
「ヒトハさんだ」
エースが言うと、その女性は両脇に積んだ本の影から顔を出し、「エースくん、デュースくん……」と、疲れきった声で応えたのだった。
「〈自律清掃の魔法〉?」
デュースが聞き返すと、ヒトハは頷いた。
「掃除道具たちに自動で掃除をしてもらう魔法です。最近人手不足なので、導入することにしたみたいで……」
本が積まれた机には、何度も書いては消してを繰り返した大きな紙と校舎の間取り図、そして鉛筆が置いてある。ヒトハはため息を吐き出して、両脇から紙を覗き込む二人を尻目に頬杖をついた。
「学園長に進捗を聞いてみたら術式を組む作業を押し付けられちゃって」
学園長は〈自律清掃の魔法〉と聞くと途端に目を輝かせ、
『ナガツキさん、魔法士の資格を持ってましたよね? 自律清掃の術式組めます? 組めますよね? いやあ〜! 今はどこも人手不足で手が回らなくて! ほんと〜に、ちょうどいいところに声をかけてくださって、私、とーっても助かりました! ありがとうございます!』
と一息に言い、ヒトハに仕事を押し付けた。ヒトハ自身も履歴書に『魔法士養成学校 卒業』と堂々と書いた手前「できない」とは言えず、この有様である。
術式を組むための用紙の隣に校舎の間取り図を置き、少し考えては書き、そして消し、唸り、時々「分らない……」と弱音を吐いて数時間。ついに残業に突入し、己の無力さを噛み締めるだけの苦痛の時間を過ごしていたところ、エースとデュースが現れた。
「学園長がご自身でされたほうが早いと思うんですけどねぇ……」
はぁ、と再びため息がこぼれる。学校を卒業したのも何年も前で、それからは魔法に触れる生活すらしていない。それに校舎内部は複雑で、一般家庭の間取りとは次元が違う。明らかに自分の手に余る業務である。
「そういえば、おふたりは放課後にどうしたんですか?」
顔を上げてふたりの顔を交互に見ると、エースはにやりとした。
「飛行術の試験の練習してたんだけど、デュースが忘れ物したって言うから」
「悪かったな」
デュースは不服そうにエースを睨んだ。改めて見ると、彼らは運動着に飛行用の箒を一本ずつ携えていた。箒は学園で見る教育用とは異なるから、プライベート用なのかもしれない。放課後に自主練習だなんて、バルガスが聞いたら大喜びすることだろう。
エースはその箒を片腕に抱え直し、再び紙を覗き込んだ。
「へぇ、ヒトハさんって結構難しい術式組めるんだ」
「そりゃあ組めますよ、魔法士ですし」
ふふん、とヒトハは胸を張った。
「私は極東の四年制魔法士養成学校を卒業した、正真正銘の魔法士ですよ! 学園長にも、きちんと資格を証明したうえで雇っていただいています。──つまり、私はあなた方の先輩です! 敬ってください!」
「そんなこと言って、ヒトハさん滅多に魔法使わないじゃん」
「ウッ」
エースの言葉がぐさりと胸に突き刺さる。
確かに、魔法に溢れたこの学園で、珍しいほど魔法に頼らない生活をしている自覚はある。でもそれは、平均より魔力が少ない自分の体質を考えてのことだ。一番大事な時に魔法が使えないのでは意味がない。決して“魔法を使わない生活が習慣化しているから”ではない。断じて違う。
「私が通っていたのはこの学園ほど立派な学校ではなかったですけど、基本的なカリキュラムは同じです。ですから、私もあなたたちの先輩と同じくらいの知識はあるんです! 信じられないと思いますけど!」
「ほらエース、ヒトハさんが拗ねたじゃないか」
「拗ねてないです!!」
ヒトハは顔を赤くしながら、術式を記した紙をふたりの前に広げた。
「いいですか? この術式は三年生で習う内容なので、決して簡単なものではありません」
ヒトハは机に置いた紙の
「“自律”と言うくらいですから、他の魔法よりも正確さが求められます。コンピューターに指示をしているようなものですね」
プログラミングのようなもの、というのは、この手の魔法を説明するときによく用いられる表現である。あらゆるパターンを想定し、無駄をそぎ落とし、最大限に効率化したものが良い術式となる。
「どんな風に組み立てるんですか?」
デュースが興味深そうに言い、ヒトハは「たとえば」と隣の記述を指した。
「この教室に入ったら右端から箒で履く。壁にぶつかったら横にずれて折り返す。左端まで行き着いたら教室から出る……のような感じで。そこに速度はどれくらいかとか、障害物があった場合はどうするかとか、条件を付けていくんです」
ヒトハは速度の記述に下線を引きながら答えた。その周りには何度も書いては消してを繰り返した跡がある。紙が波打つほど文字を書いたのは、学生時代以来かもしれない。
「ただ、自分の部屋とかなら簡単なんですけど、校舎となると……」
はぁ、とヒトハは溜まっていた疲れを吐き出した。
そう、ここまでくるのに相当な時間をかけたのだ。一日中校内の間取り図と睨めっこして、やっとワンフロアというところである。その辺の魔法士が気軽に手を出していいものではない。その手のプロに頼むべきだろう。
エースは不思議そうに言った。
「これってゴーストたちにやらせたらダメなわけ?」
「ダメではないんですけど、魔法も日々進歩ですからね。古い術式では効率が悪いということもあります」
この学園のゴーストのほとんどはヒトハが生まれるよりずっと前から学園にいるのだという。ヒトハの祖父母の代からいる者もいれば、歴史の授業でしか聞かない年代からいる者もいれば、自分がいつ死んだかすら覚えていない者もいる。さまざまな時代のさまざまな魔法を駆使するゴーストたちに好きに作らせてはクオリティが統一されないし、メンテナンスが必要になった時に誰も手出しができなくなってしまう。
「そういうこともあって私は“生きている人間の”清掃員として雇ってもらえているわけです。つまり、これは私の仕事ってこと」
意外にも真剣に話を聴いていたらしいエースとデュースは、「へぇ~」と声を揃えた。自分も生きている清掃員として雇われた理由を聞いた時には、同じような反応をしたものだ。ゴーストの労働力だけでは賄えないものかと不思議だったものだから。
ヒトハは術式を書き込んだ紙を手に取り、ようやく席を立った。
「せっかくです。試しに一度動かしてみましょうか」
教室の中央に道具を集め、三人は一本のモップを囲んでいた。ヒトハは呪文を唱えながら、考案した術式の通りに素材をモップにかけていく。浄化の魔法薬、セージと塩、暖炉の灰、人魚の髪を一本……普通の魔法であればそこまで時間がかかるものではないが、今回は広い校舎のワンフロア。ミスのないように慎重にしていることもあり、通常の何倍もの時間がかかった。
目の前でエースが欠伸を噛み殺しているのを見ていると、自分も釣られてしまいそうになる。仕事疲れに加え、ずっと頭を使っていたせいか、とにかく眠い。
最後の呪文を唱え終わると、ヒトハはポケットから小石ほどの魔法石を取り出した。モップを自動で動かすための魔力供給用の魔法石である。青く光る魔法石がいっそう眩しく光を放った時、一番に口を開いたのはエースだった。
「お、動いた」
続けてデュースが驚く。
「すごい!」
モップはヒトハが想定していた通り、勝手に起き上がって教室の床をスルスルと滑った。魔法の力で床を綺麗にしていきながら、端に行きつけば折り返す。折り返し、折り返し、折り返し……
「……なんか、速くなってませんか?」
デュースが首を傾げる。彼の言う通り、モップは折り返すたびに少しずつ速度を上げていた。
「これ、大丈夫なの?」
エースが不安そうにしている。
「大丈夫だと思うんですけど……」
三人は首を左右に振りながら、教室中を動き回るモップを目で追った。
「動きが安定するまで少しずつ速度を上げるようにしてるので、間違いではないと思いますが……」
でも、なんだか嫌な予感がする。
モップはいつの間にか、教室の壁と棚の狭い隙間に挟まってしまっていた。
ガタガタガタガタガタ……
壁にぶつかるたびに激しく柄の先を振る姿は、まるで壊れたメトロノームのようだ。それでもモップは少しずつ少しずつ前進を続け、ついにビュン! と風を切りながら隙間から飛び出した。
「速っ!?」
モップは勢い衰えぬまま床を滑り、教室の扉を破った。そしてガン! ガン! と激しい音を立てながら、廊下の先へと消えていったのだった。
「ちょ、ちょっと、ヒトハさん! 出て行っちゃったけど!?」
エースは扉を見つめながら唖然とするヒトハの肩を激しく揺すった。
「ほあ……」
ヒトハは声にならない声を漏らしながら、術式を記した紙を見下ろす。
「そ、そんな変な間違いはしてないと思うんですけど! 加速、加速……折り返すごとに……上限、無し……」
サーッと血の気が引いていく。完全に記述を間違えている。徐々に速くしたかったのは確かだが、こんなに速くしようなんて思っていなかったし、“折り返すごとに加速”なんて条件をつけるつもりもなかった。あんなものが万が一にでも生徒ににぶつかったら大惨事だ。
「どうするんですか!?」
「どーすんの!?」
「どどど、どうって……!」
切羽詰まった後輩ふたりに迫られて、ヒトハは狼狽えた。
このまま魔力が切れて止まるのを待つのも手だ。使った魔法石はテスト用で、それほど長くは持たない。けれどあのスピードで誰かにぶつかりでもしたら……
「ごめんなさい!」
ヒトハはエースが手にしていた箒をひったくった。
「ちょっと借りますね!」
「えっ、ちょ!?」
「追いかけます!」
柄の長い箒をぐるりと回して飛び乗るように跨り、グッと力を込めた爪先で強く床を蹴る。ヒトハはフルスピードで教室を飛び出した。
「は、速……!」
彼女が箒に跨る姿を見たのは、たった一瞬のことである。エースとデュースは慌ててヒトハの姿を追いかけた。
しかしその時にはもう、廊下は放課後の静寂を取り戻していたのだった。
ヒトハは上半身を前に倒し、箒に引っ付けるようにして廊下を器用に飛んだ。校舎内部はある程度の広さがあるとはいえ、柄の長い箒を不用心に振り回してはどこかにぶつけてしまう。かといって速度を控えていてはモップに追いつくことができない。ヒトハは箒の柄の先を思いっきり傾け、爪先を廊下で削りながら角を曲がった。壁掛けの絵画が風圧で揺れ、中の住人たちは悲鳴と怒りの声を上げる。壁に当たるか、当たらないかのぎりぎりを狙っての飛行である。
しかしいくら技術があるといっても弱点はある。自分自身の魔力の少なさだ。普通の魔法士なら海を越えるほど長く飛んでいられる箒も、ヒトハにしてみれば短距離用の移動手段でしかない。
(早く見つけないと……!)
前髪をぺったりと額に張り付け、猛スピードで廊下を駆け抜ける。天井の高いエリアに差し掛かったとき、ヒトハは前を滑るモップの姿を見つけた。
前かがみの姿勢をそのままに杖を抜き、狙いを定める。もう一押し、と加速をした瞬間、モップの向こう側から現れた人物にぎょっとして、ヒトハは叫んだ。
「え゛っ!?」
「なんだ……?」
仕事が終わり、帰宅しようと校内を歩いていたクルーウェルは目を疑った。なぜか廊下の先からモップが危険な速さで迫っているし、それを追いかけている女もマジフト選手さながらの気迫で箒に跨っているのである。
「………………夢か?」
クルーウェルは目を瞬いた。仕事疲れで何かを見間違えたのかもしれない。
しかし瞬きをするごとに、それらはこちらに近づいて来ていた。夢でもなく、見間違いでもない。
「わあああああ! すみませーん!!」
ヒトハは絶叫しながら手首を捻り、モップに解除の魔法を命中させた。モップは途端にバランスを崩し、廊下を跳ねながら転がっていく。それを見届ける前に、ヒトハは箒の先を跳ね上げた。まっすぐ進めばクルーウェルに衝突する。けれど横に避けるほどの余裕もない。それならば、頭上を越えるしかない。
「伏せてください!」
箒はグンと上昇し、クルーウェルの頭上を越えようとしていた。しかしこのまま飛んでは天井にぶつかってしまう。ヒトハは高さを戻そうとして、今度は前に重心をかけた。
「わぁっ!」
突然、ぽーんと体が投げ出される。つるりと滑って手から離れた箒は、非情にもヒトハを置いて飛んでいった。残された体だけが、クルーウェルの頭上で宙返りをしながら舞う。ヒラヒラと靡くスカートとエプロンの裾。コンマ一秒の光景が、なぜだかスローモーションのようにはっきりと見えた。
(あ、死ぬ)
もう魔力は残っていないし、これからできることといえば、衝撃に備えることくらいしかない。ヒトハは固く目を瞑り、生か死のギャンブルに挑んだ。死にたくない──でも、死ぬなら痛くないほうがいい。
宙を舞いながら覚悟を決めたヒトハだったが、しかし、いつまでたっても衝撃はやってこなかった。
おそるおそる瞼に力を入れ、ゆっくりと瞬きを繰り返す。
次第に鮮明になっていく光景。逆さ吊りのクルーウェルの、恐ろしい顔。
「……地獄?」
「何が地獄だ、この駄犬」
ぐるんと視界が反転して、今度こそ尻を打ち付ける衝撃が襲ってくる。
「いたあっ!」
どうやら彼が咄嗟に魔法で受け止めてくれていたらしく、あの勢いで硬い廊下に接触するのは免れたらしい。しかしこれもなかなかの衝撃で、ヒトハはじんじんと痛む尻を摩りながら唸った。
「……一応聞いてやるが、これはどういうことだ?」
クルーウェルはヒトハが状況を理解したのを確認すると、呆れた声で言った。ヒトハはよろけて立ち上がりながら後ろ頭を掻く。
「ええっと、自律清掃の魔法を……」
「自律清掃?」
「術式を組んだので、テストを……」
「一体どんなミスをしたらこうなるんだ?」
「えーっと……」
クルーウェルは危険な術式を作ったばかりではなく、歯切れの悪い受け答えを繰り返すヒトハに苛々とし始めていた。白い額にうっすらと青筋を浮かべ、口元を不機嫌に歪ませている。
よく考えてみれば分かることだが、死にかけた自分と同じく、彼も下手をしていたら死んでいたかもしれないのだ。思い出したかのように噴き出し始めた冷や汗を拭いながら、ヒトハは「すみません……」と蚊の鳴くような声で言った。
「自律清掃の魔法に限らず、魔法は少しのミスで重大な事故に繋がることもある。もちろん──当然、極東の魔法士養成学校でも、最初に習うことだが……」
段々早口になり始めたクルーウェルの説教を聴きながら悟る。これは進むにつれ怒りのボルテージが上がり、最後には怒鳴られるタイプの説教だ。しかも、長い。
ヒトハが長期戦を覚悟したとき、バタバタと慌ただしい足音が遠くから近づいてきた。音のしたほうから現れたふたりの生徒は、放課後の校舎内に響き渡るほどの大きな声で「あーっ!」と叫ぶ。デュースは叫びながら廊下に転がっているモップを見ていたが、しかしエースはまるで違う方向を向いていた。
彼の視線の先には傷ついた壁があり、ポッキリと二つに折れて棒切れと化した箒が落ちている。エースはよろよろと箒だったものに近づいて、膝から崩れ落ちた。
「オレの箒────!」
「なるほど」
クルーウェルはよれよれになった紙を机に置いた。
小鳥も囀る陽気な昼休みのこと。昨晩の失態について魔法薬学室で追求されていたヒトハは、げっそりとした顔でそれを見下ろした。
あれだけ頑張って作ったのに、あんまりではないか。しかし誰を責めようにも諸悪の根源は他でもない、自分である。お陰でクルーウェルは殺しかけるし、エースの箒は大破したし、学園の壁に傷を付けたのだ。
エースの箒は修復魔法で形こそ元に戻ったが、クルーウェルから「飛行に支障があるかもしれない」と言われてしまい、その足で購買部に赴いて弁償することになってしまった。グレードが一つか二つ上がったような気がするが、彼の愛用の箒を壊してしまったからには仕方がない。プロモデルを買わされなかっただけマシだろう。
(今日も長いかもなぁ……)
ヒトハはこっそりと肩を落とした。こうなっては彼の長々と続く説教も素直に受け入れなければならないだろう。ひそかに覚悟したヒトハだったが、しかし彼が次に口にしたのは説教ではなかった。
「全体的な構成はよく出来ている。悪くない術式だ」
赤い指先をトントンと紙の上で跳ねさせ、口元に微笑を浮かべる。ヒトハは訳も分からず、それに「はぁ」と疑り深い返事を返した。
「なんだ、叱られたかったのか?」
「そんなまさか」
もう十分反省したつもりだから、これ以上のお叱りはないに越したことはない。
クルーウェルは血相を変えて首を振るヒトハを鼻で笑い、再び術式に目を落とす。
「次も同じ過ちを犯されては困るからな。しっかり反省したなら、次は改善策を考えるべきだ」
「で、でも、私が考えたらまた事故になるかも……」
すでに怪我人が出てもおかしくはない惨事を引き起こしたのだ。またミスをしないとも限らない。それに、魔法士としてのプライドもズタズタだ。
他の誰かに任せたほうがいい。ヒトハは当たり前にそう思ったが、クルーウェルはそうではなかった。彼は呆れた顔で大きな溜息を吐いた。
「ひとりでやれと言っているわけではない。責任感があるのは結構なことだが、いい加減他人に頼ることを覚えろ」
そして彼は魔法でペンを出現させ、それをヒトハの前に置く。
「手伝ってやる」
「えっ」
よれよれの未完成の術式を記した紙と一本のペン。それを交互に見ながら、ヒトハは怖気づいた。
「あの、先生がやったほうが早くないですか……?」
「馬鹿を言うな。清掃はお前の領分だろう? だから学園長はお前に依頼したんだ。俺ではお前の代わりにはならない」
彼はペンを掴んでヒトハの手に無理やり握らせると、愛用の指揮棒をしならせた。
「無駄吠えは無しだ。この俺が手伝ってやるんだ。学園長も唸る完璧な術式を作るぞ」
「ええ……?」
ペンを握りしめ、不完全な術式と向き合う。
やっぱり自信はない。けれど、「これがお前の領分なのだ」と言われれば返す言葉がない。間違いなく、これは清掃員である自分の仕事だ。
「…………ヒントください」
「横着をするな。まずは自分で考えろ」
「はぁい」
こうしてなんとか昼休みの終わりまでに間に合って、ヒトハお手製の自律清掃の魔法の術式は無事に学園長の元へと届けられたのだった。
***
「──いやあ、よかった!」
隣で大げさに喜ぶ学園長をちらりと見やり、クルーウェルは「ほんとうに」と困り顔のまま小さく笑った。
目の前ではたっぷりと毛先を蓄えた箒が熱心に教室を掃いている。柄は一定のリズムで左右に揺れ、機械的な動きを繰り返していた。
お手本のような見事な〈自律清掃の魔法〉だ。この箒には教室の掃除を終えると勝手に次の教室に向かい、一晩の間に元居た場所まで戻るような術式が施されている。日中はどうしても邪魔になりやすい掃除を、生徒がいない間に終えてしまおうという作戦である。
「先生のおかげでようやく清掃問題が解決しそうです」
「俺は少し手を貸しただけです。礼なら彼女に」
学園長は満面の笑みのまま、首を大きく縦に振った。
「ええ、もちろん! ナガツキさんには大変な苦労をかけてしまいました」
学園長が言う通り、彼女はいなくなったゴーストたちの穴を埋めるために相当な苦労をしていた。いっそ投げ出していい程の仕事量だったはずだが、彼女の真面目な性格のおかげで学園は変わらず清潔に保たれたのである。この学園長の喜びようなら、いつぞやの夜に願っていた“昇給”の夢が叶ってもおかしくはないだろう。
彼はにこにこと上機嫌なまま続けた。
「しかし〈自律清掃の魔法〉の導入を一番最初に提案してくださったのはクルーウェル先生ですからね」
「それはそうですが……」
それでも自分でやろうとは思っていなかった。ナイトレイブンカレッジの校舎は広く複雑で、仕事の片手間にできるものではないと分かっていたからだ。専門外の者が勝手に術式を組んだところで、それこそ余計なお世話で終わったことだろう。
「それに、先生がスカウトしてくださったゴーストたちも学園に来てくれることになりましたし! この魔法と新人たちでしばらくは大丈夫ですね!」
「いえ、俺は子ぶ……後輩たちに紹介を頼んだだけで」
そうだった、と忘れかけていた話を思い出す。この小さな島の中でゴーストたちに声をかけるのにも限界があり、国外にあるツテを頼ったのだった。どうやら彼らは上手くやってくれたらしい。
自分の足を使って得た成果ではないが、しかし学園長は「人望ですよ、人望!」と大袈裟なまでに褒めちぎる。
「お礼と言っちゃあなんですが、ナガツキさんも誘って今夜どうです? ご馳走しますよ」
学園長はクイクイと拳を持ち上げるような動作をしながら言った。見かけによらずなんとも中年臭い動作である。とはいえ、彼に比べたら驚くほど若いはずの彼女も、時たま同じことをするのだが。
クルーウェルは肩をすくめて答えた。
「せっかくのお誘いですが、今夜は約束があるので、また今度」
教室内にある時計を仰ぎ見る。約束の時間まであと三十分。誘った手前、遅刻などもっての外だ。
クルーウェルは教室の扉に手をかけた。
「それでは学園長、そろそろ時間なので。お先に失礼します」
「ああ、もうこんな時間ですね。先生、今日も一日おつかれさまでした」
彼はにこりと笑い、それから「ナガツキさんにもお伝えください」と、ふたりの仕事を労ったのだった。
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