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可愛いって言って!
じゃあ今週末のお昼に。なんて約束を交わして手を振る。
週の中ごろ、ヒトハはクルーウェルと週末の予定を立てた。彼の趣味である服作りの生地探しに付き合う予定だ。
この手の用事に付き合うのはもう数度目で、今回は前回悩んでいた生地を買いに行くのが目的なのだという。ついて行ったところで別段意見を口にできるわけでもないのだが、趣味に付き合ってくれる人間に飢えていたのか、クルーウェルは定期的にヒトハに声を掛けては街に連れ出した。
ヒトハ自身も彼の趣味に付き合うのは嫌ではなかった。むしろ暇な休日の娯楽として楽しみにしている方だ。同年代の友人がほとんどいない賢者の島で、娯楽らしきものに誘ってくれるクルーウェルの存在は貴重である。
(でもなぁ……)
ただ一つ、どうしても気が重いことがある。これさえなければ何も考えずに週末の予定を楽しみにできるのに、これのせいで毎度知恵熱でも出しそうなほど頭を悩ませているのだ。
ヒトハは人知れず、ため息を落とした。
「──クルーウェル先生のファッションチェック?」
「そうなんですよ。毎回毎回気が重くて……」
はぁ、とジュースのパックを手に項垂れる。
エペルとデュースは顔を見合わせた。三人がけベンチのど真ん中で座り込むヒトハの周りには、どんよりとした空気が漂っている。彼らはたまたま休憩でジュース片手に遠くを眺めていたヒトハを見つけ、その異様な様子が気になって声をかけたのだ。
「ま、まぁ、ヴィルサンも似たようなところがあるし……。気持ちは分からなくもない、かな」
エペルは眉を下げてヒトハに同情した。
かのヴィル・シェーンハイトから多大なる期待を寄せられ目をかけられている彼は、肌のケアもファッションも振る舞いも常にチェックされているのだという。
出会い頭にやれスカートの生地がどうだとか、ボトムとトップスの色が合ってないだとか一年前の流行だとか言われるより遥かに大変で辛いはずだ。
ヒトハはパックを握る手にグッと力を込めた。じわ、とオレンジがストローの差し口から滲む。
──いや、“辛い”は比べるものではない。誰だって辛いものは“辛い”。
急に眉間に皺を寄せて顔を凄ませたヒトハを見て、デュースは慌てて口を開いた。
「やっぱりデートの時くらいは褒めて欲しいですよね! かっ……可愛い、とか!」
しかし彼の必死のフォローも虚しく、ヒトハは「デート?」とさらに皺を深めたのだった。
「いえ、買い出しなのでデートではありません。だから別に褒めて欲しいわけでもないんです」
「デートじゃない……?」
エペルとデュースは再び顔を見合わせた。
週末に男性と遊びに行くから服装で頭を悩ませる。それだけ聞けば立派なデートではあるが、彼女によるとそうではないらしい。
確かにいきなり厳しいファッションチェックから始まるデートなんて、そういうことに疎い男子生徒から見ても悲惨だ。
それならもう一緒に出かけなければ良いのでは……と、喉元まで出かかった言葉を飲み込む。エペルとデュースは週末のことに頭を悩ませるヒトハに「大変ですね」と声をかけることしかできなかった。
「……でもやっぱり、ヒトハサン可哀想だよね。僕はヴィルサンとの約束があるから仕方ないけど」
ヒトハと別れて向かったのは昼休みの大食堂。そのまま昼食を共にすることにしたデュースとエペルは、食堂の長いテーブルの隅で不憫な彼女のことを話していた。
デイヴィス・クルーウェルという教師は自他共に厳しい男だ。彼の仔犬たちは皆揃って彼に厳しく躾けられるのが当たり前で、それに逆らうことはできない。教師と生徒という関係があるからだ。
しかし彼女はどうだろう。ヒトハ・ナガツキという女性はこの学園の生徒ではないし、仕事上でも彼の部下ではない。“忠犬”と言われることはあるが、それだって何かの契約関係にあるわけでもないのだ。そこまで厳しくファッションチェックをされる謂れはない。
「デートじゃないって言ってたけど、せっかくなら指摘されるより褒めて欲しいよな」
デュースは母親のことを思い出しながら手元のスープに視線を落とした。恥ずかしくてあまり口にしたことはないが、ごくたまに服や髪型を褒めると頬を淡く染めて嬉しそうに笑うのだ。
「ヒトハさんもクルーウェル先生に褒めてもらえたら、やっぱり嬉しいんじゃないか?」
とデュースが心配そうに言ったところで、隣から椅子を引く音がした。
「デュース、ここいい?」
「エース……と、監督生にグリム」
デュースが「いいぞ」と椅子を少し動かすと、エースはデュースの隣に、向かい側にはオンボロ寮の監督生とグリムが腰を下ろした。
エースは出来立ての温かな昼食を前にして、ぐるりと体を捻りデュースに詰め寄る。
「なぁ、さっきちょっと聞こえたんだけど、ヒトハさんとクルーウェル先生が何だって?」
「それは……」
爛々と光る大きな赤い瞳。好奇心に満ちた目だ。
言うべきか迷ってエペルをチラリと見ると、彼はそれに肩をすくめて答えた。
エースは隠せば余計に知りたがるだろう。それに、わざわざ隠すような話でもない。ただヒトハが休日にクルーウェルと会う時、ファッションチェックをされているというだけの話だ。
「実はさっき……」
デュースは話を聞きたがる二人と、昼食ほど興味はなさそうな一匹に先ほどのことを語った。
まさかそれが、思わぬ形で広まってしまうとは思いもせずに。
***
クルーウェルは放課後、サイエンス部の活動を監督しながら片手間に仕事を片付けていた。簡単な薬草の下処理である。土を扱うものだから、コートはハンガーラックに、黒いシャツの袖は肘まで捲り上げ、作業用の手袋をしての作業だ。
目の前では実験着の生徒たちがあれやこれやと言いながら部活動に勤しんでいる。サイエンス部の活動は授業ではないから、生徒のやりたいようにやらせてやるのが方針だ。学園に活動費を出してもらっている分、成果を出す必要は勿論あるのだが。
ふとクルーウェルは実験室の壁を仰ぎ見た。年季の入った時計は、その歪んだ分針の先を底に向けている。部活動終了時刻の三十分前である。
「仔犬ども、そろそろハウスの時間だ」
はぁい、とパラパラとした返事が聞こえ、クルーウェルは作業で強張っていた肩を落とした。なんとも気の抜けた声だ。授業中だったら指摘してやるところだが、今は部活動の最中で、日中ほど煩く言ってやるほどのやる気も起きない。
さっさと自分の作業も終えるか。
クルーウェルが鉢に植えられた薬草を引き抜こうと根本を掴んだその時、「先生」と声がかかった。
クルーウェルは手元に目を向けたまま、「なんだ」と返す。
「ヒトハさん、先生に『可愛い』って言って欲しいらしいですよ」
どっと土が弾け飛び、生徒が小さな悲鳴を上げる。
驚きのあまり力加減を誤って、勢いよく引き抜いてしまった。素材になるはずの根の先がポキリと折れている。クルーウェルはそれを眼前に翳しながら苦々しく口元を歪めた。せっかく捲り上げたシャツにも、ベストにも、ネクタイにも土が飛び散る惨事だ。
「聞き間違いかもしれん。もう一度いいか?」
根の先からジロリと生徒を見やると、彼は助けを求めるように隣にいた友人に視線を逃がした。
「えっと、クルーウェル先生に『可愛い』って言って欲しいって、ヒトハさんが」
「どうしてそんな話になるんだ……」
強く問いただすほどの声も出ず、片手の薬草をだらりと下ろして弱々しく呟く。
何やら悩んでいるらしい彼女のためを思ってなのか、男女のあれこれに首を突っ込むのを楽しんでいるのかは分からないが、まるで余計なお世話である。
生徒は気まずく首を縮こまらせた。
「せ、先生と休日デートする時にお洒落して行ってるのに『可愛い』って言ってくれないから……だったっけ?」
隣の友人に問うと、彼はびくりと肩を揺らして首を縦に振った。どうやらこの話は人伝てのものらしく、察するに、少なくはない人数を渡り歩いている。
クルーウェルは「はぁ」と声に出して大きくため息をつき、作業用の手袋を脱ぎ捨て、力なく垂れてきた前髪を掻き上げた。
「デートじゃない」
「デートじゃない……?」
「たまに休日の買い出しに付き合わせているだけだ」
彼女は週末誘った用事のことを“デート”とは認識していないから、嘘ではない。
ここで変なことを言って更に話が広がることだけは絶対に阻止したいクルーウェルは、この親切で余計な助言を有耶無耶にすることにした。
「他人のことを気にする前に、まずは自分の服装に気を配るように。清潔感は襟元ひとつ、タイひとつで大きく変わる。俺はお前たちのこともしっかり見ているからな」
赤い杖先を向けると、実験着の下で歪んだネクタイがキュッと締まる。
クルーウェルは目を瞬く生徒たちの前で杖をしならせ、遠くへ向けた。
「ハウス」
生徒たちが寮に戻り、自分以外誰もいなくなった実験室。その片隅で処理を終えた薬草を吊るしながらクルーウェルは先ほどのことを思い出していた。
無限に好奇心が湧いてくる仔犬たちの標的にされて妙な噂に振り回されることは多いが、今回ばかりは明確に心当たりがあった。休日、私服のヒトハに出会う時につい口にしてしまう小言である。
今まで出会ってきた女性たちの中でもトップクラスの精神の太さと従順さを持つ彼女は、多少厳しく言っても素直に言うことを聞くし、機嫌を損ねてもすぐにあっけらかんと元に戻る。悪く言えば適当、良く言えば寛容な性格に甘えてしまっていたのだ。世間一般で言う“普通の女性”に対して同じことをしていたら、喧嘩が勃発して大惨事になっていてもおかしくはない。
いや、もうすでに相当怒りを抑えている可能性もある。
(たまには褒めてやらなければ……)
なにも貶したかったわけではない。悲しませたいわけでもないのだ。
たまには“普通の女性”として接してやらなければ。クルーウェルは“普通の男性”として、そう決意した。
それが効くような相手ではないと骨の髄まで身に染みていながら、妙な焦りからか、冷静な判断ができずにいたのだ。
***
ヒトハはその週最後の仕事を終え、クローゼットの前で唸っていた。今夜は明日着ていくものを考えなければならない。
せっかくの休日のお出かけだから、どうせなら綺麗にして行きたい。それくらいの気持ちは持ち合わせているが、それよりもいかに小言を少なく済ませるか──ファッションにうるさい彼に「ウェルダン」を言わせるかの方が重要なのが悲しいところである。
幸いにして、クルーウェルはヒトハに小言を言うだけ言って放り出すことだけはしなかった。もともと教師向きの面倒見の良い性格をしているせいか、彼は小言とセットで改善案とファッション理論を語りだし、本来の用事そっちのけでブティックを渡り歩こうともする。会う回数を重ねるたびに服は増え、何をどう合わせればいいかの知識が増えるのだ。
ヒトハは今まで言われてきた小言の数々を思い出しながら、いくつか服を取り出しては鏡の前で当て、脱ぎ着を繰り返した。そうして決まった現在最高と思われるコーディネイトに満足して、ヒトハはその日の夜を終えることにしたのだった。
明日の朝も髪の手入れに化粧にと忙しいし、クルーウェルと出かけるのは容易ではない。
本当は、適当に着て行って小言を言われるがまま頷くだけでもよかった。彼ほどファッションにこだわっているわけでもないし、言うことを聞かなくたって無難な服を選ぶことくらいはできる。
けれど毎回こうして頭を悩ませているのだから、結局は自分を良く見せたいと思っているのかもしれない。デュースが言っていたように、胸の奥底では『可愛い』と一言言ってもらいたいのかもしれない……。
真っ暗な部屋でシーツにくるまりながら、ヒトハはそこまで考えて「ううん」と小さく唸った。
それはやっぱり、ちょっとむず痒いことだった。
そして来るべき当日。ヒトハは完璧なコーディネイトに身を包み、今日こそは百点満点のウェルダンを貰うのだと意気揚々と玄関へ向かった。
最後の仕上げ、この服に合わせるパンプスが必要だ。手持ちの靴はそれほど多くはなく、今日の服に合うのはその一足しかない。
ヒトハはそれを取り出そうとシューズボックスを開き、下段を覗き込んで呟いた。
「靴、修理に出してた……」
最悪の滑り出しである。昨日まで「これで完璧」と週末の気晴らしだけを楽しみにしていたのに、これではまた小言を言われてしまう。かといって今から靴を買いに行く時間もないし、代わりのものを履いて行くしかない。
ヒトハは「足元だけは見ないで」と願いながら、仕方なく待ち合わせている麓の街へ向かった。けれど近づくにつれて気持ちは重くなり、足取りも重くなる。落ちた視線の先につま先が見えて、ヒトハは肩を落とした。
今日はデートをしに来たのではない。買い出しに付き合いに来たのだ。それなのにどうして服装一つでこんなにも落ち込んだ気持ちにならなければいけないのだろう。
週の中ごろ、ベンチでデュースが言っていた言葉がふと頭に浮かぶ。
デートの時くらい「可愛い」って言って欲しい。これはデートではないけれど、目一杯頑張った結果なのだから、可愛いと言わずとも褒めるくらいはして欲しい。
ヒトハは待ち合わせ場所の広場にたどり着き、目印の時計前で佇む人を見つけ、おずおずと歩み出た。彼は相も変わらず完璧な姿でヒトハを見つけると、いつものように片手をあげ、なんだかいつもと違う笑顔を浮かべたのだった。
「今日は春の陽気にふさわしい装いだな。“可愛い”じゃないか。良く似合っている」
「え」
ヒトハはつい数分前にあれだけ欲しいと渇望していた言葉を与えられながら、ぶるりと肩を震わせた。
「こ、怖い…………」
今日の自分は100点ではない。小言覚悟のせいぜい80点である。当然彼もその評価を下すと思っていた。今まで教え込まれたファッション理論と、直感がそう言っているのだ。
「先生、体調が悪いなら今日はやめておいた方が……」
ヒトハはクルーウェルを見上げながら恐々と申し出た。体調が悪くて冷静な判断ができていないというのなら、今日は大事を取って家で休んだ方が良い。
しかし彼はキョトンとして、小首を傾げた。
「体調? 良いくらいだが」
「い、いえ、でも、ちょっと今日の先生おかしいですよ。あっ、私のことはお気になさらず。買い物はまた都合の良い時に……」
「いやいや、待て! ステイ!」
くるりと背を向けてもと来た道へ行こうとするヒトハの腕を引っ掴み、クルーウェルは焦った声で引き留めた。
振り返って見上げる顔には、焦りのような、苦々しさのようなものが滲んでいる。クルーウェルはヒトハの腕を掴んだまま何度か言い淀んで深く息を吐いた。
「普段言わないことを言ったせいで驚かせたなら悪かった。散々俺から小言を言われて嫌気が差しているのではないかと──たまには褒めなければと、思ったんだが」
「はぁ、まぁ、嫌気は差してましたけど」
反射的に返した言葉がよほど効いたのか、彼は奥歯を噛みしめて「すまない」と滲むような声で言う。
「お前は素直で物覚えもいいからな。きちんと教えれば良い相談相手になるのではないかと、つい熱が入ってしまった。……悪かった」
そこでようやくヒトハはクルーウェルに向き直った。
「なんだ、そういうことですか」
今日までずっと、単にコーディネイトが下手なのが気に食わないだけなのかと思っていた。何かとこだわりの強い彼のことだから、自分が良しとしない恰好をした女を隣に歩かせたくなくて小言を言っているのだと思っていたのだ。
けれど実際は教育したかっただけで、自分と同じレベルに引き上げたかっただけなのだと言う。それも、“素直さ”と“物覚えのよさ”を見込んで。
ヒトハはそれを聞いて、じんわりと頬を上げた。先ほど「可愛い」と言われた時よりもずっとずっと嬉しい。
「私、思ってもないことを言われるより、本当のことを言ってもらえた方がずっといいです」
「いや、思っていないわけでは……」
クルーウェルは何か弁解しようと珍しくまごついていたが、ヒトハは構わず続けた。
「つまり、私は先生に期待されてるってことですよね! コーディネイト、ちゃんと上手くなってますか?」
「あ、ああ、そうだな。随分上達した……」
やっぱり、とヒトハは興奮気味に服を見下ろす。自分の中でも、着実に良し悪しの判断ができるようになってきていると感じていたのだ。これからもっと磨いていけば、クルーウェルの言う「良い相談相手」になれるかもしれない。
「ということは、今日も何か言いたいことがあるんじゃないですか?」
「……いいのか?」
「いいですよ」
ヒトハは堂々と両腕を広げた。
彼の意図が分かってしまえば何ということもない。つまりこれはテストで、今回80点を取ったなら次回は90点を取ればよく、いずれ100点を叩き出せばいいだけのことだ。彼に期待されているうちは頑張りたいと思うし、そのために必要な批評なら受け入れたい。もっともっとできるようになりたいのだ。
クルーウェルは顎に手を添え、一瞬発言を躊躇った。しかし真剣に見つめてくるヒトハに負けて、渋々口を開く。
「靴、適当に選んだだろう」
ヒトハは彼の言葉をよく聞き、飲み込んで、真剣に受け止めた結果、こう結論を出したのだった。
「…………やっぱりちょっと、イラッとしますね」
以降、ヒトハは週末の予定で頭を悩ませることはなくなった。曰く、前日までに着ていく服を写真で送れば添削されて返ってくるのだという。
デュースとエペルは上機嫌に週末の予定を語るヒトハを見て、「たしかにそれはデートではないかもしれない」と、ようやく納得をしたのだった。
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