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眠れない夜は星を探して

 整列する格子窓から、鈍い月明かりがぼんやりとさし込んでいる。
 ヒトハ・ナガツキは誰もいない校舎を、ひとり静かに歩いていた。手に持った杖に小さな灯りをともし、絵画たちに文句を言われないように足音を忍ばせる。
 目的地は広く複雑なナイトレイブンカレッジの校舎──その端の端にある、かつては物置だった場所。廊下を曲がり、階段を上り、やっと辿り着くその場所には、大きな窓がある。今夜は無性に、そこに行きたいと思ったのだ。そこでなければならないと、そう思ったのだ。

『今日の夜、流星群が見れるらしいよ』

 昼頃の雑談で生徒たちから聞いた話を思い出したのは、夕食を終えた後だった。
 今夜、流星群が見れるらしい。聞いた時は「へぇ」と相槌を打っただけだったが、就寝までの暇な時間に思い立った。
 星が見たい。なるべく空に近いところで。
 気がついたら、杖だけ持って家を出ていた。暗い学園の敷地を突っ切り、いたずらな生徒たちのように校舎に忍び込む。住み込みで清掃員をしているヒトハには、それが可能だった。
 星が見たい。たったそれだけで寝静まった校舎をひたすら上るなんて、本当にどうかしている。分かっていたけれど、引き返す気にはなれなかった。なぜって、今夜はそういう気分だったから。どこからともなくやってきた焦燥感が、星を見に行けと告げたから。
 そうしてようやっとたどり着いた目的地で、ヒトハは窓を大きく開き、身を乗り出して空を見上げた。

「……星、見えない」

 夜の空は底のない暗闇で、月のある場所だけがぼんやりと浮かび上がっていた。つまり、完全な曇り空である。流星群どころか、星ひとつ見えやしない。
 ヒトハは小さな悪態を吐きながら、窓の縁に寄りかかった。思えば今日は、そんなにいい天気でもなかった。少し考えれば曇り空かもしれないと思いつくものだが、今日の自分は酷く鈍くて、まるで思いつかなかったのだ。かといって帰る気にもなれず、ぼうっと何もない空を見上げる。
 星が見たい。そう思って夜に飛び出してみたけれど、よく考えてみれば、それ以外のことを考えたくなかっただけなのかもしれない。その証拠に、目的を失った頭にジワジワと嫌なものが滲み出してきたのだ。
 ヒトハは助けを求めるように、指先をそっと腰のポケットに伸ばした。

「スマホ、置いてきたんだった……」

 そうだった。杖だけ掴んで家を出たのだった。そもそも服だって適当に制服のワンピースを着ているだけだし、髪も整えていない。

「あーあ、何してるんだろう、私」

 ずるずると窓枠に寄りかかって空を見上げる。星のない曇り夜空。自分と同じ、不完全な夜だった。

「……ナガツキ?」

 はっと目が覚めるような心地がして、ヒトハは慌てて体を起こした。
 いやいやまさか。こんな時間に、こんな場所で、都合よく彼の声が聞こえるはずがない。何もない夜空をじっと見ていたせいか、半分夢を見ていたのかもしれない。
 そう思って、ヒトハは再び窓枠に寄りかかろうと体の力を抜いた。その時、

「おい」
「うわぁ!?」

 あまりにも近くで声がしたものだから、ヒトハはその場でぴょんと跳ねた。夢か幻聴かと思っていたが、そうではなかったらしい。
 鈍い月明かりに浮かび上がるような真っ白な髪と肌に美しい毛並みのファーコートを携えて、学園の教師──デイヴィス・クルーウェルが険しい顔をしてヒトハの前に立っていたのである。
 いつの間に、と問う前に、彼は「こんな時間にこんな所で何をしているんだ、お前は」と呆れた声で言った。

「真夜中の女性のひとり歩きは感心しない。俺が見つけたからいいものの、何かあったらどうするつもりだ」
「す、すみません……」

 心臓をドキドキとさせたまま、ヒトハはカラカラの喉を鳴らした。どうやら彼は校舎に侵入したことよりも、真夜中にひとりで出歩いたことに腹を立てているらしい。仔犬たちを叱る時のように、きっちり整えられた眉をギュッと吊り上げている。
 ヒトハが恐々として首を窄めていると、彼は何か言おうとした口を閉じて、ハァと深いため息をついた。

「それで、こんな所で一体何をしていたんだ?」

 当然の疑問である。こんな真夜中に、こんな場所にいるのは誰がどう見たっておかしい。
 ヒトハは空を盗み見た。空は相変わらずの曇天だ。結局今まで、何も見えることはなかった。

「星……」

 ヒトハは名残惜しそうに呟いた。それを低い声が追いかける。

「星?」

 さらに深く眉間の皴を刻んだ男をちらりと見て、ヒトハは視線を落とした。大きな赤い手が、銀のスタッズをあしらったベルトに添えられている。

「星を見たかったんです。星、流星群。生徒に教えてもらったんです。今日のこの時間が見頃だって……」

 星を見たかった。このどうしようもない夜に、できるだけ近くで流れる星を見たかった。そうすれば、この漠然とした感情を、共に連れて行ってくれるのではないかと思ったのだ。
 クルーウェルは「ふぅん」と興味があるのかないのかよく分からない相槌を打って、革靴を鳴らした。
 彼はこちらにゆっくりと歩いてくると、「どれ」と覆い被さるように長い腕を窓枠に突いて、腰を屈めながら空を見上げる。
 ヒトハは壁と胸の間に挟まれて、肩を極限まで萎ませた。
 終わりかけの香水の、甘ったるい匂いがする。心臓の音が聞こえてきそうなほど近く、ヒトハはたまらず口を開いた。

「ていうか、先生はなんでこんな時間に……」

 クルーウェルは空に向けていた目をこちらに向けた。眼球の動きに合わせて、銀色の虹彩とグレーのアイシャドウがちらちらと瞬く。
 彼はスッと窓から離れると、疲れを思い出したかのように肩を落とした。

「残業が終わって帰る途中、校舎の窓に小さな光がうろうろしているのが見えたから、どこぞの駄犬が度胸試しでもしているのかと思って追いかけた。で、夜中に徘徊しているバッドガールを見つけたというわけだ」

 再び「はぁ」とため息をついて前髪を掻き上げる。

「おかげで睡眠時間が減った」
「す、すみません……」 

 スマホを持ってこなかったヒトハには、今の時刻がわからない。けれど、それなりの時間であることは確かだろう。こんな時間まで残業をしていた彼を引き止めて、かつこんな場所まで誘い出したわけである。申し訳ないわけがない。
 クルーウェルは項垂れるヒトハを見下ろして、聞こえるか聞こえない程度の声で「見つけたのが俺でよかった」と再び呟いた。そしてヒトハの頬にかかっていた横髪を人差し指で掬い上げ、それを耳にかけてやった。

「隙だらけだ。お前らしくもない」
「だって、急に思い立ったから……」

 触られたところを指先で掻きながら、ヒトハは口を尖らせた。あまりに急だったから、身だしなみに気を使う余裕もなかったのだ。それに、誰に見られることもないと思っていたし、実際彼が現れるまでそうだった。
 クルーウェルは仕方がないやつだと腕を組み、「それで」と話を続けた。

「星は見えたのか?」

 ヒトハはふるふると首を振った。

「だろうな。今日は朝からずっと曇りだ」
「でも、待ってたらひとつくらいは見えるかなって」

 もう一度空を見上げる。
 見えるはずもない。月の光ですらも危ういのだから。でも、そんなことはここへ来た時から分かっていた。結局自分は、こうやって子どものようにちぐはぐな言い訳を並べて、ただ家に帰りたくないだけなのだ。ベッドでひとり途方もない感情を抱いて、明日を待つだけの夜を過ごしたくないだけなのである。誰だってきっとそういう夜はあるし、今日はたまたま自分がそうだっただけ。大したことじゃない。

「ですから、私はもうちょっとここで待ちます。先生はお疲れでしょうから帰っていいですよ」

 ヒトハはふいと顔を反らして、ずっとそうしていたように窓の縁によりかかった。

「俺にお前を置いて帰れと?」
「私はひとりで大丈夫です」
「大丈夫なわけあるか。こっちを見ろ駄犬」
「わ」

 肩を引かれ、ヒトハは背にトンと窓枠をぶつけた。クルーウェルは肩を掴んだ手をそのままに、ヒトハをそこに縫い留める。彼はいつもよりくたびれた前髪を目元に垂らしながら、静かに口を開いた。

「何か嫌なことでもあったのか」
「いいえ」
「仔犬と喧嘩でも?」
「まさか」
「それならどうしてそこまで落ち込んでいるんだ」
「落ち込んでいるわけでは……」

 否定しようとして、途中であきらめる。そういう風に見えていたのなら、そうなのかもしれないと思った。

「なんだか今日は、気持ちが晴れなくて。今家に帰っても、たぶん眠れないから……」

 ヒトハがついに白状すると、クルーウェルは「なんだ、そういうことか」と、あっさりと手を放した。こっちは真剣に話したつもりだったが、拍子抜けだったらしい。ヒトハはムっとした。

「女の子にはそういう日があるんです。先生には分からないでしょうけど!」
「悪かったな、男で」

  ヒトハの反撃に対し、クルーウェルは吐き捨てるように言い返す。おまけに舌打ちまで付けて。

「だから気晴らしに深夜徘徊した末に校舎に侵入して見えない星を探していたというわけか? 愚かにもほどがある!」

 完全にスイッチが入った彼はそこまで一気にまくし立て、

「どうして俺を呼ばない!」

 と、理不尽に怒った。
 こんな夜中に気晴らしに付き合って欲しいだなんだと言って呼び出せるわけがない。大体、彼は残業をしていたのだ。自分より忙しい相手を呼びつけるなんて、それこそどうかしている。

(でも、)

 でも本当は、ちょっとだけ、そうしたいと思ったのも事実だった。声のひとつでも聞けば、この不完全な夜が多少なりとも満たされるのではないかと。けれど、結局それを行動に移すことはなかった。
 ヒトハは空のポケットをつまんだ。

「スマホ、置いてきちゃって……」
「馬鹿が」
「馬鹿……」

 彼は駄犬以下のストレートな悪口をヒトハに浴びせると、いいか、とヒトハの鼻先に人差し指を突きつける。

「そういう時は、真っ先に俺を呼べ。みっともない格好で夜道をうろつく前に。いいな」

 ぐっと顎を引いたまま、こくこくと二度頷く。それで満足したのか、彼はやっと眉間に寄せていた皺を伸ばした。
 それから長い足を大きく踏み出し、ヒトハの首根っこを掴んだ。と、いうよりは、肩口を掴んで引き寄せた。
 上等なファーが頬に触れる。終わりかけの香水の匂いの中にほんの少し薬草の匂いを感じながら、ヒトハはすっぽりとクルーウェルの腕の中に納まった。彼の服はほとんど毛皮なものだから、体の半分はふわふわとしたものに包まれている。かろうじてベストの胸元に触れた片腕だけは、熱いほどの体温を感じていたけれど。
 普段だったら真っ先に逃げたくなるところだが、今日だけは「これもいいな」と、ヒトハは思った。あたたかくて優しい。嫌なものが溶けていく。安心する。
 大きな手が頭頂部から首筋にかけて大きく撫でた。彼に可愛がられている犬たちも、こんな風に撫でてもらっているのだろうか。

「ふわふわ……」
「特注品だからな。化粧をつけるなよ」
「そんな無茶な」

 それはさすがに手遅れである。がっちりと抱かれているあたり、不可能ともいえた。
 リズムよく髪を撫でる手に心地よさを感じながら、頭がうとうととし始める。こんなところで寝るわけにはいかないと、ヒトハはゆっくりと口を動かした。

「先生」
「ん」
「先生も、こういう時は私を呼んでいいですよ」
「お前を?」

 彼は鼻で笑って「いや、いい」とヒトハの申し出を一蹴した。

「俺は“男の子”だからな」

 その小憎らしい言い様に、ヒトハは肩を揺らして笑ったのだった。

「帰ります」

 ヒトハがそう宣言すると、クルーウェルは腕をほどいた。
 飼い犬をなだめるのに大変なひと仕事をしたはずなのに、彼はひどく穏やかな顔をしていた。

「それがいい。いい子は寝る時間だからな。送ってやるからさっさと寝ろ」
「ひとりで帰れるから大丈夫ですってば」

 さすがに家までとなると、かなりの遠回りになる。それに学園内に不審者の侵入はありえないのだから、ひとりだって平気だ。
 ヒトハが遠慮すると、彼は「大丈夫じゃない」と真剣な声で言って、それから「俺がな」と肩をすくめた。

「──ああ、そうだ。ひとつ言うのを忘れていた」

 ヒトハの前を歩きだそうとしたクルーウェルは、ふと浮かせた片足を床に戻した。そしてこの静かで穏やかな夜に、巨大な爆弾を投下したのだった。

「流星群は“明日”だ」
「は?」

 ヒトハは口をぽっかりと開けたまま固まり、その言葉の理解に数秒を要した。
 流星群は明日。──明日?

「明日ぁ!?」
「だから俺はいつも『仔犬どもに気を許すな』と言っているんだ」

 クルーウェルはうるさそうに言いながら、ヒトハを置いて歩き始める。ヒトハは慌てて追いかけて、隣から文句をまくし立てた。

「騙されてたってこと!? なっ、なんで先に言ってくれなかったんですか!? 今さっきまでのは何だったんですか!?」

 隣を歩くクルーウェルを見上げ、ヒトハは目を剥いた。
 なんと、彼は口元をムズムズさせながら笑いを堪えているのである。

「まさか面白がってたんですか!? 私が、落ち込んでいるときに!?」
「キャンキャン吠えるな。明日もっとよく見える場所に連れて行ってやる」
「先生のド派手な車で!?」
「ド派手とはなんだ。スタイリッシュでエレガントな車と呼べ」

 真っ赤で真っ黒で大きくて煩いのだからド派手で大正解に決まっている。ヒトハは先ほどと打って変わって怒り心頭のまま、ポコポコと白黒のファーを叩いた。全くダメージが入らない。彼は「やめろ、ファーが痛む」と服の心配ばかりして素知らぬ顔だ。

「もう!」

 階段を下り始めたクルーウェルに向けて叫ぶ。絵画たちから「煩いぞ!」と苦情が入ったが、それは怒りの元凶である彼に言うべきだろう。
 ヒトハは数段下を下りていくクルーウェルを追いかけようとして、足を止めた。踊り場の窓から夜が見える。月にかかった雲のベールがゆっくりと流れ、ほんの少しの間、はっきりとした光を放った。

「先生」
「ん?」

 クルーウェルは階下からヒトハを仰ぎ見た。窓から入る月の光が、彼の美しい瞼と瞳の色をきらきらと輝かせる。ヒトハは眩しそうに目を細め、小さく笑った。

「星、見えましたよ」

 冗談だと思ったのか、彼はフッと笑った。

「そうか。今日も流れていたか?」
「いいえ」

 ヒトハは首を振った。

「ずっとそこにある星です」
「なんだ、それは残念だったな」
「ええ。でも、とても綺麗でした」

 階段を駆け下りながら言うと、彼は「それはよかったな」と笑ったのだった。

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