いつか遠い未来の話 Ⅰ
雪降る夜に
柔らかい綿をふわふわの布地で包んだもの。大きな頭に大きな耳。黒い目と鼻が顔の中心にちょこんとのった愛らしいテディベア。それを両手で包んで、丁寧に座らせる。左右にお行儀よく並んだ彼らの姿を眺め、店員は満足そうに頷いた。実用性とは無縁のぬいぐるみたちだが、人はその愛らしさに心を癒される。子どもであろうと、大人であろうと、きっと皆同じだ。
客のいない閉店間際であるのをいいことに、店員は鼻歌を歌いながら閉店の準備をしていた。冬の時季、とりわけウィンターホリデーの期間には街中から聞こえてくる定番の曲である。
店員は日中に崩れてしまったディスプレイを整え、おもちゃが並んだ棚の埃を落とし、窓を柔らかい布で拭った。窓の外では遅い帰りの大人たちが、予想外に降り出した雪の中を首を縮めて歩いている。あと十分そこいらで店を閉めて、帰宅の準備を整えたら、自分もああやって家に帰るのだ。こんなに急に寒くなるのなら、この前一目ぼれしたコートを思い切って買ってしまえばよかったなぁ、なんて思いながら、店の隅に置かれた脚立を持ち出す。
そろそろ商品の配置変えをしてもいい頃合いだろう。そう思って脚立に上り、ウサギとリスのぬいぐるみに手を伸ばそうとしたときのことだった。
「すみません」
「うわぁ!」
脚立の狭い板から、ずるりと踵が滑る。突然の来客に驚いて、店員はなす術もなく倒れ込んで床にぶつかってしまった──ということはなく、重力を無視して、静止していた。
「あ、え?」
「タイミングが悪く申し訳ない……」
頭の後ろから男性の低い声が聞こえてくる。彼は申し訳なさそうに店員に謝ったが、すぐに「真っ直ぐ足に力を入れて、支えに手を」と、ころりと声色を変えた。まるで学校の先生のような、無駄のない指示だ。
店員は訳も分からないまま手を棚の縁に伸ばした。すると無重力状態だった体はゆっくりと前に傾き、自然と真っ直ぐに立ち上がる。どうやら閉店間際に駆け込んできた客は魔法士らしい。
「ありがとうございま……うわ!」
ほっとして振り返る。が、頭が白と黒のツートンカラーの派手な男が立っていて、店員は再び転げ落ちそうになってしまったのだった。
「大丈夫ですか?」
男は暗い色のアイシャドウで飾った目を細め、手を差し出す。店員は躊躇いながらも、それに甘えさせてもらうことにした。
「ああ、はい、おかげさまで大丈夫です。どうも」
彼の赤い革手袋は外気を纏ったままで、氷のように冷えていた。よく見れば顔は寒さで白いところが少ないくらいには真っ赤だし、肩や頭には雪が溶けた跡が残っている。仕立ての良い黒いロングコートは襟もとが少しずれていて、ひょっとすると、焦って店に駆け込んで来たのかもしれなかった。
可愛らしいものに溢れた店内とはちぐはぐな容姿をした彼は、店員がしっかりと床に立ったのを確認すると、コートを正しながら店内を軽く見渡した。
「何かお探しですか?」
「ええ、以前外に飾っていたぬいぐるみを」
男は「これくらいの」と両手で大きさを表現した。彼は店員から見ても高身長だったが、それでも首元から腰ほどの大きさを主張している。これは相当に大きなぬいぐるみだろう。
店員はコロコロと変わる店外ディスプレイを思い出しながら、店でも数少ない大きなぬいぐるみに行きついて、手を叩いた。
「ああ! テディベアですね!」
彼が言うぬいぐるみは、客寄せはできても買い手のつかないテディベアだった。とびきり大きな体が愛らしく、子どもたちには人気があったが、大抵の場合「置く場所がない」と親たちに却下されるのだ。結局は半分以下にサイズダウンされて貰われていくさだめである。
店員が店の奥から抱えながら持って来たテディベアを見て、案の定、男は少し困った顔をしながら「思ったより大きいな」と呟く。
「置き場所に困りますよね。もう少し小さな子もいますけど……」
「いえ、そちらでお願いします」
店員が驚いて目を瞬かせると、彼は何か面白いことを思い出したのか、「妻が」と微かに口元を笑わせる。
「『大きなぬいぐるみは夢だから』と」
彼はおもむろに手を伸ばし、テディベアの頭を子どもにするように優しく撫でて、見惚れるほど綺麗に微笑んだ。
「それに、なかなかに愛らしい。仔犬たちもきっと喜びます」
「こいぬ……?」
子犬? 最近飼い始めたのだろうか。奥さんが欲しがったらしいテディベアを子犬たちに与えたら、ボロボロにされやしないだろうか。
ちょっとだけハラハラしながらも、店員は「奥様もワンちゃんも、きっと喜びますよ」と、彼の気持ちを尊重したのだった。
「ありがとうございました」
男の背が雪の街に消えていくのを見送って、店員はほっと息をついた。
結局、彼は大きさゆえに梱包ができなかったテディベアを、そのまま抱えて帰ることにした。雪がちらほら降っているのを心配したが、「車に乗せて帰るから」と首を振って。
帰り間際に見た大きなテディベアをぎゅっと抱いて立つ彼の姿は、“可愛らしいもの”がまるで似合わない容姿のはずなのに、上手く噛み合ったパズルのように、よく似合っていた。あの品の良いコートも、彼が着こなせば、たとえぬいぐるみを持っていたとしても様になる。ちょっと可愛らしくはなってしまうけれど。
彼はこれから白い雪が舞う中、あの愛らしいテディベアを抱えて暖かな家に帰るのだろう。それから愛する人にプレゼントを渡して、彼が最後に見せたような微笑みを貰うのだ。
「コート、やっぱり買おうかなぁ……」
かっこよかったなぁ、あの人。
寒空の下、閉店の看板を扉にかけながら、店員はしみじみ呟いたのだった。
***
クルーウェルは小さな子どもほどの大きさがあるテディベアを片腕に抱え、玄関ポーチの下に立った。雪がしつこく体に纏わりついてくるのを手で払い、野ざらしになってしまったテディベアの頭からも叩き落とす。
「お前も早く体を温めないとな」
黒いつぶらな目を見ていると、早くも愛着が湧いてきた。“分かっていない”と分かっていながら話しかけてしまうのは、愛犬に対する態度にも似ていて、なんともおかしい。
クルーウェルは慎重に鍵を手にした。それほど遅い時間ではないが、我が家はもう寝静まっているはずだ。変に物音を立ててしまったら、多方面からの苦情は免れない。
しかしクルーウェルが鍵を開けるより先に、カチャリと鍵が開く音がした。続けて静かに開いた扉から暖かな光が漏れ、微睡みから抜けきっていない顔をしたヒトハがひょっこりと現れる。彼女はクルーウェルの姿をみとめると、「おかえりなさい」と優しく囁いて、大きく扉を開いた。そして抱えているものを見つけて目を丸くしたが、それはすぐに微笑みに変わった。
「思ってたより大きいですね」
ヒトハは手を伸ばしてテディベアを受け取ると、弾力を確かめるようにぎゅっと抱きしめた。自分では片腕に抱えられていたサイズも、彼女にとっては両腕で抱えなければポロリと落としてしまいそうな大きさである。ぬいぐるみの生地に体のほとんどを埋めて、彼女は面白そうに笑った。
「やはり愛らしいものだな」
「ん?」
クルーウェルは弾力に夢中になっているヒトハの額に唇を寄せた。すぐに「つめたい……」と苦々しい声が返ってくる。暖かい家で眠りかけていた彼女には、少し刺激が強かったようだ。
ヒトハは外の寒さにようやく気がついて、ぶるりと震えた。
「これ、どこに隠しましょうか?」
「手が届かないところがいいんじゃないか?」
「それならクローゼットの上にしましょう」
家に戻りながら、ヒトハは相変わらずテディベアのお腹辺りをふわふわとさせて言った。
「やっぱり“大きなぬいぐるみはみんなの夢”ですね。癒されます」
クルーウェルは後ろ手に扉をゆっくりと閉め、寒さを外に追いやった。当日が楽しみですね、と微笑む彼女に「まったくその通りだな」と返しながら。
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