魔法学校の清掃員さん

02 清掃員さん、初出勤をする

 ヒトハは初めて学園に訪れたその日、最低限の荷物を持って住み慣れた家を離れた。
 移動は瞬く間のことだったが、実際は家から学園まで途方もない距離がある。あれだけ日々恋しく思っていた七畳そこそこの素朴な住まいは、もはや広大な陸地と大海の果てにあるのだ。
 しかしこうして長年住み慣れた家を離れたというのに、ヒトハの心には不思議と寂しさや悲しさのようなものが湧いてくることはなかった。もしかしたらそれは、心のどこかであの家を仮の住まいだと思っていたからなのかもしれない。

 

 そうしてヒトハが鞄ひとつ抱えてやって来たのは、木材をふんだんに使った、アンティーク調の内装が可愛らしい部屋だった。
 社員寮のようなものなのか、家具や家電は一式揃っていて、今すぐ生活を始められるほどには設備が整っている。なにより驚いたのは、前に住んでいた家よりも居間だけで一回り以上は広いということだ。これが無償で貸し出されるというのだから、ナイトレイブンカレッジはかなりの太っ腹である。
 ヒトハは疼く好奇心を抑えることなく、部屋中をぐるぐると散策することにした。

「大きいベッド!」

 まず目についたのは部屋の隅にどっしりと構えている木彫りのベッド。素朴で可愛らしく、セミダブルほどの広さがある。同じ素材のサイドチェストの引き出しからは、開けると強い木材の香りがした。ひょっとすると、この部屋には永らく住人がいなかったのかもしれない。
 壁の広い一角には大きなクローゼットがあったが、これはあまり活躍の機会がなさそうだ。手持ちの服も少ないし、せいぜい制服が何着か掛かるだけだろう。
 隣にある空っぽの棚は本棚にちょうどよかった。せっかく学園に来たのだから、また勉強を始めてみるのもきっと楽しい。
 ヒトハは最後に、壁にたっぷりと幅を取った出窓から外を眺めた。外はすでに真っ暗だったが、校舎から漏れる灯りが周囲を煌々と照らし、その輪郭を浮かび上がらせている。

(これが“ナイトレイブンカレッジ”……)

 ここでやっと遠くへ来たのだという実感が湧いてきて、ヒトハは唯一持ち込んだ鞄を見下ろした。小旅行にでもやって来たかのような大きさで、必要最低限の衣服や日用品、化粧品が詰まっている。家を出る時はこれでいいと思っていたのに、今はそれがどこか心もとない。
 本当にこの選択は間違えていないのだろうか。極東で今まで通りのんびり過ごすのも悪くなかったのではないだろうか。気を抜くと、そんな暗い考えが足元ににじり寄った。
 新しい環境に飛び込むには勇気がいる。今までの人生で散々思い知らされたことだ。変わらないのは楽でいい。でもそれは、結局のところ楽なだけでしかない。

「……ま、なんとかなるよね」

 ヒトハは迷いを振り払うように自分に言い聞かせた。
 なにはともあれここで働くと決めたのだ。一度始めたら最後までやり通したい性格である。たとえ過酷な仕事だったとしても、一生懸命やればきっと上手くいく。今度こそ、この学園で生きていくのだ。
 そうと決まれば、明日のことから考えなければならない。
 ヒトハは手始めに制服をクローゼットに仕舞い、シャワーを済ませると、テーブルに学園内の地図を広げた。絶対に迷うからと渡された地図で、広げてみると、しばらくは手放せなくなりそうなほど広大な敷地が記されている。
 ヒトハは地図を指でなぞりながら、今日聞いた説明を一つずつ振り返ることにした。

 ナイトレイブンカレッジには、校舎を中心として八つの寮が存在する。それぞれの場所へは鏡舎から鏡での移動が可能で、校舎だけでも城一つ分はあるだろうに、各寮もそれに近い規模で存在しているらしい。ただし、八つのうち一つ、オンボロ寮という珍妙な名前の寮だけは校舎近くに建っていて、小さな屋敷一戸分程度しかない。最近新設されたと聞いたから、もしかしたらこれは仮設の建物なのかもしれなかった。

 こうして校舎からグラウンド、図書館、魔法薬学室まで目を通して、ヒトハは地図を畳んだ。
 とにかく明日からは、この広大な学園内を清掃して回ることになる。朝には指導係の人が部屋に迎えに来てくれるとのことだから、あとは準備をして待つだけだ。

「明日は六時に起きて、準備して、ペンとメモを忘れないようにしないと」

 ヒトハは指を折りながら明日の予定を確認すると、さっさと寝る準備をしてしまうことにした。スマホのアラームを設定してサイドチェストに置き、その隣で温かに光るランプを消す。部屋の灯りが全て消えると、カーテンから差し込む月明かりが薄く部屋を照らした。
 いつもこの月明かりの中、ぼんやりと天井を眺めながら明日の仕事を憂鬱に思っていたものだった。それが社会人として当たり前のことだと思っていたし、仕事とはそんなものだと考えていた。けれど明日は――明日からは、きっと今までの毎日ではない。それが楽しみで、ほんの少し不安で。いつもと違う毎日にどうしても期待してしまう。
 せめて明日の仕事で出会う人たちが優しい人たちであればいい。なんとなくそんなことを思いながら、ヒトハは疲れで重くなった瞼をゆっくりと閉じたのだった。

 

 翌朝、二重にも三重にも掛けたアラームの一度目で、ヒトハは見事に起床を果たした。いつもの気怠げな朝から一転して、近年稀に見る冴え渡った寝覚めの良さである。
 そしてベッドから飛び降りるようにして出窓に向かい、カーテンを大きく開く。ナイトレイブンカレッジの校舎は昨晩と変わらず、早朝の薄白い光の中に佇んでいた。

(夢じゃなかった……)

 この部屋で目を覚ました瞬間から確かに夢ではなかったが、こうして目の当たりにすると、いよいよ実感が湧いてくるのだ。ここは魔法に溢れた地、賢者の島のナイトレイブンカレッジ。優秀な魔法士を目指す子供たちの学び舎だ。

「――準備!」

 ヒトハは思い出したかのように言うと、クローゼットへ駆け寄った。ほとんど空のクローゼットに引っかかった制服を手に取り、全身がすっぽりと収まるスタンドミラーの前に立つ。貰った制服は清掃員というからにはよく見るパンツスタイルかと思っていたが、意外に可愛らしく灰色がかった水色のワンピースである。丈は長く、派手ではないが校風によく合っている。一緒に渡された白いエプロンをすると、清掃員というより給仕に見えなくもない。ヒトハは後ろに結んだリボンを体を捻りながら整え、下ろした髪をすっきりと纏め上げた。最後にチェストの上に置いていた杖を腰に忍ばせて完成だ。
 杖は相変わらず小ぶりに形状変化させたままだが、そのおかげで制服にちょうどよく収まっている。一見杖を持っていないように見せること。ヒトハにとってはそれが長年の癖で、一番しっくりとくる杖の位置だった。

 

 早々に準備を終えたせいで思いのほか時間を持て余し、ヒトハはしばらく窓の外を眺めたり、家具を触ったりして指導係の人を待った。時間を潰しに潰して、そろそろ飽きてきたかという頃合いに、ついにノックの音が響く。

「はい! 今行きます!」

 何事も最初が肝心だ。明るく、元気よく、素直そうに。
 ヒトハはひとつ呼吸を置いて、勢いよく部屋の扉を引いた。

「おはようございます!」

 が、しかしそこにいたのは、ヒトハの想像する“人”ではなかった。

「おはよう」

 それは白くて大きな塊だった。足はなく、ふわふわと宙に浮かんでいる。そのもっちりとした白い頬を柔らかく膨らませて、にこにこと人の好い笑みを浮かべているのは、紛れもなくゴーストだ。
 遠い昔に学んだ記憶を掘り起こしながら、ヒトハは「えっと……」とたじろいだ。
 ゴーストは強い未練があって死後この世に残った者たちのことだ。彼らはツイステッドワンダーランドのどこにでも“いる”。しかし目に見えないのが普通で、ヒトハもこうして目の当たりにしたのは初めてだった。ごく稀に魔力の濃度が高い所で視認できるというが、まさか教育係がすでに死んでいるとは。

(ゴーストって物に触れるんだっけ?)

 生前の面影は残しているのだろうが、おおよそ人には見えないコミカルな姿をした先輩を見ながら、そんなどうでもいいことが一番に頭をよぎる。
 指導係の先輩は「朝食まだでしょう? 食堂に案内しようね」と優しく言いながら、くるりとヒトハに背を向けた。

(ゴーストって、食事するんだっけ?)

 ヒトハのゴーストに対する疑問は尽きなかったが、この学園に来たばかりの今、頼りになるのは彼しかいない。

「よ……よろしくお願いします!」
「はい、よろしく」

 少し先を行っていた先輩が穏やかなまま振り返り、ヒトハは慌ててその背を追った。職場の先輩は人ではなかったが、どうやら優しいゴーストのようである。

 

 先輩の後ろをついて回りながら分かったことは、この学園には意外にもかなりの数のゴーストがいて、仕事を持っている者も多くいるということだった。だいたい彼らは廊下をせわしなく飛び回って、たまに壁をすり抜けていく。急に現れて驚く生徒も見かけたが、その存在自体を気にした様子はない。
 ヒトハは先輩の話に相槌を打ちながら、ゴーストが生徒をすり抜けた瞬間をつい目で追った。どうやら彼らは物に触れることはできるのに、人に触れることはできないらしい。奇妙としか言いようのない光景だが、これもいずれは慣れるのだろう。

「しばらく席を外すね」

 先輩は食堂までの道のりで一通り校内の説明をすると、それだけ言い残してどこかへ消えてしまった。やはり食事は必要ないらしく、ヒトハの前には朝食のプレートがひとつだけ置かれている。
 今日初めての食事だ。ヒトハはまだ温かいクロワッサンを拾い上げた。千切って一口齧ると、濃厚なバターの香りが口の中に広がる。プレートに乗っているサラダも、スープも、どれもが甲乙つけがたい美味しさだ。食パン一枚で慌ただしく仕事に出かけていた頃では考えられない贅沢である。

(絶対辞めたくない……)

 ヒトハは控えめに添えられていた苺を頬張りながら、決意を新たにしたのだった。

 

 結局先輩はヒトハが朝食を終えた頃を見計って、両手いっぱいに掃除道具を抱えて帰ってきた。そのうちいくつかを手渡しながら、掃除場所、方法、道具の置き場をスラスラと説明していく。
 先輩によると同僚はほぼ全てがゴーストで、分からないことは彼らに聞けば解決するのだと言う。けれどヒトハにしてみれば、掃除係のゴーストを見分けることが一番困難であるように思えた。彼らは誰一人として例外なく、つるつるの白い体に青い目をしているからだ。
 これは先輩が仕事に入る直前に教えてくれたことだったが、最近まで生きている人間の清掃員もいたのだという。その人が辞める前に挨拶できなかったことが、ヒトハには少しだけ残念だった。

「じゃあ早速始めようか」
「はい」

 先輩は身の丈よりもずいぶんと長いモップを手にして告げた。
 掃除のエリアは日によって持ち回りで、今日は先輩と一緒に校舎周辺を掃除してまわることになる。学園の広大すぎる敷地の清掃は、数人程度では到底賄うことはできない。それこそ膨大な数のゴーストたちが仕事に励んでいて、今日から自分もその一員になるのだ。
 ヒトハは貸し与えられた仕事道具の箒を手に、慌ただしく先輩の後ろをついて回った。

「ヒトハちゃん、大丈夫?」

 五つ目の教室から出た頃、先輩は仕事始めと変わらずのんびりとした様子で振り返った。
 ヒトハは箒を抱え直し、額に滲み始めた汗をそのままに答える。

「は、はい、なんとか」

 基本的に仕事内容はシンプルで、そして体力さえあればなんとかなった。長い廊下を箒で掃き、その脇に連なる果てしない窓を一枚ずつ丁寧に拭いて回る。燭台の煤を払い、空いている教室に入っては生徒のいない机を磨き上げる。その繰り返しだ。
 しかし授業が終わって、生徒がどっと移動を始める合間に教室を掃除することだけは、なかなか骨が折れることだった。
 ここで自分の風魔法が埃を集めるのにちょうどよく、予想外に活躍したのは面白い発見である。力が強すぎては散っていくし、弱くては集まらず、微妙な匙加減でなければ難しい。それは魔法の練習だけは人一倍励んでいた過去の自分の、努力の賜物でもあった。
 こうして掃除をしていると、この学園は各地から才能のある生徒を集めているというだけあって、かなり個性的な学園だということも分かってきた。
 廊下を掃除していたら「猫、うるさいぞ!」という叫び声が聞こえてきたので教室には猫もいるらしく、かと思えば別の教室から「仔犬ども! 躾の時間だ!」と聞こえてきたから犬もいるらしい。

(ここも動物言語学やってる……)

 ヒトハは教室の近くで耳をそば立てながら首を捻った。それにしたって、動物たちへの当たりが強すぎる気がするのだけれど。

 

「じゃあ今日は、このゴミを捨てたら終わりにしようね」

 黙々と窓を拭き続けていたヒトハは、先輩の声でようやく顔を上げた。
 気が付けば足元の影が薄く伸びて、ずいぶん暗くなっているような気がする。今日の授業はもう終わってしまったようで、校舎にちらほら残っているのは自習をする生徒くらいのものだった。
 掃除係のゴーストたちはゴミ袋を両手に抱え、次々にゴミ捨て場へ飛んで行く。学園内の移動は、飛んだ方が効率がいいかもしれない。
 ヒトハは箒の利用申請でもしようかと思いながら、ひとりで無人の廊下を歩いていた。先輩は他のゴーストに呼び止められて少し前に別れたから、次に会うのは明日の朝だ。
 ヒトハは周りに誰もいないのを確認して、そっとため息をついた。体力仕事だというのは分かっていたが、それにしても運動量が半端ではない。気を抜いたら眠ってしまいそうで、ヒトハは無理やり今日の出来事を思い返しながら足を動かした。
 似た顔をした同僚たちの自己紹介、突然勃発する生徒たちの喧嘩、覚えられる気がしない校舎内の構造……

「なんか問題しかない気がする。――ん?」

 ぶつぶつ呟きながら、ヒトハはある教室の前で足を止めた。扉は開け放たれていて、室内の様子がよく見える。今日は清掃に入っていない場所だ。
 その教室には、あらゆる種類の薬品や鉱石、薬草などが天井まで届く棚に所狭しと並べられていた。錬金術か魔法薬学の教室だろうか。ずいぶん年季の入った大釜が部屋の中央に置かれている。
 ヒトハのいた学校では、こういった実験室はもっとこざっぱりとした場所だった。無機質な白と黒に統一された室内で、必要なものはガラス扉の棚に仕舞われている。この教室は長年使っているせいかごちゃついていて、目に見える範囲でも素材の量が桁違いだ。

(懐かしい匂い……)

 どこか覚えのある薬品の匂いを嗅いでいると、昔世話になった魔法薬学の先生が厳しい人だったことをつい思い出してしまう。「その魔法薬で人でも殺して回る気か」などと嫌味たっぷりに言われたのは、懐かしくて苦い思い出だ。あの頃は煙たく思っていたこともあったが、思い返せば、あれだけ面倒見のいい先生は他にいなかった。大半の先生からは「才能なし」と半ば諦められていたが、彼だ
けは最後まで大学受験を勧めてくれたのだ。

「ん……?」

 ヒトハはふと、教室の棚から瓶が落ちそうになっているのを見つけた。ゴミ袋を置いて棚に歩み寄る。瓶が置いてある場所は、自分の身長でギリギリ手が届くくらいの高さだった。

「届くかな」

 片手を伸ばし、指先で瓶に触れる。このまま押し込めばよさそうだ。

「なにをしている!!」
「わぁ!」

 ヒトハはその時、まさか他人の大声でこんなにも驚くことがあるなんて思っていなかった。伸ばした指先が瓶に引っかかり、押し込もうとしていたのに逆に引き出してしまう。瞬く間に瓶は外に向かって傾いた。
 ヒトハは反射的にもう片方の手を伸ばし、その瓶を床に落とす前に受け止めた。拍子で蓋が飛んでいったが、幸いにも中の薬品は両手とエプロンに引っかかっただけで済んでいる。ぬるりとした液体が生暖かく、気持ちが悪い。
 ヒトハはドキドキとしたまま、へたり込んで声の方に振り返った。心臓がどうかなってしまいそうだが、今はとにかく誤解を解かなければ。

「ええと、清掃員なので、不審者では……」

 ないんですけど。と言おうとして、途中でやめた。座っている分その人を見上げたつもりだったが、あまりの身長の高さに、腰の部分までしか見えなかったのだ。

(大きい……)

 やたら声が大きな彼は、薄緑の髪を後ろに流した高身長の生徒だった。制服からしてディアソムニア寮の生徒だろうか。鍛えているのか、均整の取れた体躯には細身ながらも重厚感がある。厳格そうな顔立ちに品の良さを忍ばせる姿は大人びていて、制服を着ていなければ学生には到底見えなかっただろう。
 ヒトハは背中にうっすら冷や汗を滲ませた。心なしか手のひらが熱い。
 ディアソムニアの生徒はヒトハの姿を見て何か気づいた様子で、たちまち吊り上がった眉を下げた。

「ああ、清掃の……大丈夫か?」
「い、いえ、暗くてよく見えないから、仕方ないですよね」

 彼は早々に自分が勘違いしていたことを認めて、すまなそうに言った。第一声の異常な迫力の割に、話は分かる人のようだ。
 ヒトハがほっと胸を撫で下ろしたのも束の間、新たに教室に入って来る人がいた。ナイトレイブンカレッジの硬い床を鋭く踏み鳴らし、いかにもな厳しさを滲ませている――男だ。
 ディアソムニアの生徒のおかげでヒトハから上半身はよく見えなかったが、足元にくすみ一つない白黒の革靴と、派手な赤色の靴下が見える。黒のスラックスには制服の金ラインがなく、どうやら生徒ではないことだけは分かった。

「おい、仔犬ども、こんな所で何をしている」
「先生」

 先生と呼ばれた人は床に座り込むヒトハと生徒を交互に見て、そして最後に床に飛び散った薬品を見咎めた。

「まさか、あれが服に付いたのか?」
「あ、エプロンに……」

 ヒトハの声は叱られた生徒のように萎んでしまったが、彼はその答えを聞き取るなり、急に血相を変えて声を荒げた。

「早く脱げ!」
「え!?」
「エプロンの方だ!」
「は、はい!」

 ヒトハは彼の言う通りに、慌ててエプロンの紐を解いて脱ぎ捨てた。
 その最中、両手に奇妙な感覚があった。気のせいでなければとてもヌルヌルとしていて、気持ち悪いを通り越して痛みすら感じる。

(……痛い?)

 ヒトハは恐る恐る両手のひらを目の前に広げた。ディアソムニアの生徒がそれを頭上から覗き込んで息を呑む。それはヒトハとほぼ同時のことだった。
 そして、そのあまりに酷い有様にヒトハはしばらく呆然とした。次に、先生と呼ばれていた人を見上げる。
 初めて見る彼の表情は暗がりの中でもはっきりと分かる蒼白さだったが、細い輪郭に形の良い眉、そして何より暗闇に溶け込むようなアイシャドウとシルバーグレーの瞳が美しく、ヒトハは場違いにも、「綺麗な人だな」と圧倒されたのだった。
 それきり意識が途絶えたので、その先のことは分からない。

 

「――うぅん」

 唸りながら寝返りを打つ。しかし腕がどうにも重くて体が横にならない。ヒトハは仕方なく、微睡みから覚めることにした。
 薄く目を開き、高い天井を凝視する。見覚えのない場所だった。それもそのはずで、初めて使う簡易なベッドの上に寝かされている。真っ白なシーツは洗いたてのように硬い。首を捻ると両脇にパーテーションが見えて、ピンときた。ここは保健室だ。
 ヒトハはそこでようやく自分の状況を思い出した。あの教室で生徒と先生に見守られながら気を失ったのだ。たしか、両手が見るに耐えないことになっていなかっただろうか。
 恐る恐る上半身を起こして両手を持ち上げ、その姿に驚く。ヒトハの両手は、指先から腕の中間あたりまで包帯でぐるぐる巻きにされていた。しかし不思議と意識を失う前の焼けつくような痛みはない。包帯の圧迫感で指は満足に曲がらなかったが、しっかりと動かすこともできた。蒸すような暑さを感じるから、きっと感覚も残っているのだろう。それでもこれだけ頑丈に包帯で巻かれているということは――つまり、そういうことだ。

「目が覚めたか!」
「わぁっ!」

 まったく保健室に似つかわしくない声量で割り込んできたディアソムニアの生徒は、ヒトハの両手に目を留めると、痛々しく顔を歪めた。

「大丈夫か!? 痛くはないか!?」
「だっ、大丈夫ではなさそうですが、痛くはないです」

 見た目にそぐわず心配そうに騒ぐ姿を見ていると、ヒトハはなんだか可笑しくなって、つい吹き出してしまった。

「ふふ、さっきは挨拶もできなくてごめんなさい。私、今日から清掃員をしているヒトハ・ナガツキって言います」

 あなたは? と問うと、彼はすっかり失念していたのか金色の瞳を瞬いて、少しばかり胸を張った。

「僕はセベク・ジグボルト。今年入学した、ディアソムニア寮の一年だ」
「一年!?」

 一年といえば十六歳ではないか。ヒトハはセベクを上から下まで眺めて、感嘆のため息を漏らした。
自分が同じ年齢の時には、周りにはもう少し子供っぽい子が多かったものだが。
 しかし言われてみると、彼の生真面目そうな姿の中に、どこか慌ただしい子犬のような雰囲気が感じられなくもない。そう思うと途端に親近感が湧いてくる。彼も自分と同じく、この学園に来て間もない新人なのだ。
 ヒトハはふと、自分が新人どころか初出勤の身分だったことを思い出した。よく考えたら、最後の仕事をひとつ放り出したままである。

「あ、そういえばゴミ袋、どうなりました?」
「それはゴーストが代わりに持って行った」

 セベクとの間に穏やかな空気が流れる中、突然低く耳に残る声が響く。ゆっくりとした口調ながらも優しさとは無縁で、ともすれば一瞬で緊張感を生み出す威圧感たっぷりの声だ。
 セベクに続いて現れたのは、先生と呼ばれていた男だった。上質な白と黒の毛皮のコートを羽織り、モノトーンで統一された全身に真っ赤な革手袋とネクタイが苛烈な印象を抱かせる。服のみならず髪色までも左右で白と黒に分けていて、黒を後ろに流し白を前に下ろすヘアスタイルは几帳面さすら感じられた。ともかく教育現場にはなかなか見ない奇抜さだが、彼にはそれがよく似合っていた。
 すっかり返事を忘れてしまったヒトハを置いて、男はスッと赤い手を差し出した。

「デイヴィス・クルーウェルだ。教員をしている」
「えっと、ヒトハ・ナガツキです。今日から清掃員をしています」

 ヒトハは無意識に手を差し出して、とても握手ができる状態ではないことに気が付いた。白い包帯がぐるぐる巻きの棒のような手だ。慌てて引っ込めようとしたが、クルーウェルはその手を素早く掴んだ。

「痛むか?」
「いえ、なにも……」

 痛むかもしれないのに掴んだのか、と喉元まで出かかった言葉を飲み込む。とてもではないが、口答えができる雰囲気ではなかった。
 彼は相変わらず澄ました様子で「ならいい」と素っ気なく言った。

「簡潔に言うと、あの薬品は物を融解する。つまり、薬品を被ったこの手は、溶けたということだ」
「と、溶けた……」

 ヒトハはクルーウェルに捕まったままの手を呆然と見下ろした。この中身が溶けているらしい。あまりグロテスクなものは好きではないから、できれば一生見たくない。
 そんなヒトハの様子に気が付いているのかいないのか、彼は話しながら平然と包帯を解き始めた。

「あと少し遅ければ骨まで溶けて危なかったが、対処が間に合ったから表面だけだ。痛くないということは、魔法薬で皮膚の再生までは上手くいったのだろう」

 かなり頑丈に巻かれていたせいか、包帯がシーツの上に延々と積み重なっていく。

「ただ完全には元通りにはなっていない。元の状態に戻すには、少し骨が折れるだろうな」

 露わになった手を見て、ヒトハは息を呑んだ。
 姿かたちは保てているが、色がちょうど火傷をした時のように変色してしまっている。指先から手首を越えた先のところまで薬品のかかった部分を中心に斑になっていて、手のひらに至っては全面に及ぶ。これでまったく痛くないのだから驚きだ。ここまでくると、魔法薬の凄さを見せつけられている気分である。

「もう片方も同じ状態だった。残念ながら」
「はぁ」

 吃驚しすぎて、ヒトハにはそれ以上の言葉が思い浮かばなかった。
 あの教室で、無防備にも素手で薬品の入った瓶を触ろうとしたことが不味かったのだろう。次第に後悔が湧いてきて、なんとも情けない気持ちになってくる。

「すみません、私が素手で触っちゃったから……」
「ほう」
「薬品を触る時は手袋が必須って、最初に習うはずなのに」

 学生時代に口酸っぱく言われていたことなのに、すっかり忘れていた。触れたら死ぬようなものもあると聞いたことがあるから、この程度で済んだのは不幸中の幸いだろう。ヒトハは深々とため息をついた。

「なるほど。もっと取り乱すかと思っていたが、杞憂だったようだな」
「はぁ、どうも……」

 クルーウェルはそこで初めてヒトハに興味を抱いたのか、感心したように言った。取り乱すかと思っていながら一切優しさのない態度を取るのだから、意地の悪い人だ。
 どこか釈然としないまま次に言うことを悩んでいると、パーテーションの向こうからひょっこりと仮面の男が顔を出した。

「あ、起きてます?」

 学園長はベッドの角を大股で避け、ヒトハを挟んでクルーウェルとセベクの向かい側に立った。この一角は大人三名と大人並みの生徒一名で、ずいぶんと手狭だ。

「災難でしたねぇ。大丈夫ですか?」
「お陰様で、この程度で済みまして」

 ヒトハが露わなった手を差し出すと、学園長は「うわぁ」と小さく驚いた。
 昨日までとは違う様子に驚くのも無理はない。ヒトハは改めて自身の手のひらを眺めた。今もまだ実感が湧かず、どうしても自分の手に見えないのだ。
 学園長は「ともかく」と軽く咳ばらいをした。

「痛みがないのは何よりです。それにしても、早かったですねぇ」
「早かった?」
「普通こういう怪我は二、三年目にするものなんですけどねぇ。初日からとは」

 やれやれと言った様子で肩を落とす。まさか、あれだけ契約を急いでいたのはこのせいではないだろうか。ヒトハはじとりとした目で学園長を見やった。

 「前任の人間の清掃員の方も、うっかり薬品入りの大釜に落っこちて死にかけたのを理由に辞めちゃったんですよねぇ」

 つまり、事故の起きやすい現場で働く人間の清掃員が突然いなくなったから、補充したかったというわけだ。
 ヒトハは出会うことのなかった前任の人に深く同情した。これより酷い目に遭ったら怖くて辞めるに決まっている。それこそ即時退職だ。

「もしかして怖くなっちゃいました? 続けられないと言うのなら、引き留めませんが……」
「あっ、い、いえ! 続けます!」

 咄嗟に学園長の言葉を遮ってしまって、慌てて口を噤む。少し間を置き、ヒトハは慎重に口を開い
た。

「……始めたばかりですし、まだ投げ出したくないですし」

 それと給料がよく家賃がタダで家具家電の購入の必要がなく、食事が美味しい。
 ヒトハはその他諸々の理由をそっと胸に仕舞い、当たり障りのない言葉で訴えた。辞めたくないのはもちろん本心で、その言葉に偽りはない。
 学園長はヒトハがあまりに真剣なのを感じ取ったのか、嬉しそうに言った。

「そうですか! それはよかった! いやー、なかなか根性のある方で正直助かります! では先生、後のことは頼みましたよ。そうそう、後ほど新しい制服を届けます。今のはちょっと……大変なことになっていましたので。それでは私はこれで」

 そして彼は、スキップの勢いでさっさと居なくなってしまったのだった。切り替えが早いと言うべきか、何と言うべきか。
 ヒトハはそっと自分の胸元に視線を落とした。エプロンがなくなっているのは当然で、今着ているワンピースにも嫌な染みが見える。暗がりの中でよく見えなかったが、壮絶なことになっていたらしい。
 終始黙って静観していたクルーウェルは、そこでやっと口を開いた。

「では治りが早まるように薬を調合してやろう。一週間に一度、魔法薬学室に取りに来るように。今日はもう遅い。仔犬、部屋まで送ってやれ」

 彼はセベクにそう言い付けると、重みのある毛皮のコートを翻し、さっさと立ち去ってしまった。

(仔犬……まさか、生徒のこと?)

 今日どこかで聞いた声を思い出して、ヒトハはクルーウェルから仕事を言い付けられたセベクをそっと窺った。生徒を犬呼ばわりするとは、なかなか過激な教師のようである。しかもあの口ぶりからすると、彼は魔法薬学を担当しているらしい。またもや魔法薬学の教師に世話になるのだ。不思議な縁に、ヒトハは予感を抱かずにはいられなかった。きっと今日のことは、忘れられない出来事になる。

 

 取り残されたセベクに手伝ってもらい、ヒトハはもう片方の包帯も取り払ってしまうことにした。ぐるぐると長い包帯を外し露わになった手は、案の定片手と同じ状態になっている。このまま生活するには、少し周りの目が気になってしまうかもしれない。手袋か何かを用意しなければと思うと、ただでさえ憂鬱な気持ちが倍にも膨れ上がった。
 幸いにもその他で身体に不調はなく、ヒトハはすぐに保健室から帰ることができた。時刻は夜九時を回っていて、あれからずいぶんと時間が経っている。
 セベクは言い付け通り、部屋まで付き添ってくれた。ただ、「ああ、若様に何と説明すれば……」としばしば力なく嘆き、頼りになるのかならないのか、いまいちよく分からない。見た目はかなりの堅物に見えるものの、心配性なところがあるのかもしれない。

「巻き込んでしまってすみません」
「いや、事故とはいえ切っ掛けになってしまったのは事実だ。すまなかった」

 ヒトハが謝罪すると、セベクは声を絞り出すように言った。こちらからしてみればほとんど自業自得なのだが、真摯に謝ろうとする彼に特別かける言葉も見つからず、ヒトハは「気にしないでください」としか言えなかった。無理に説得しようとしたところで失礼というものである。
 こんな風にぎこちない会話を二つ三つしながら、二人は校舎内の誰もいない廊下をとぼとぼと歩いた。
 そうしてようやく自室の前に着いて足を止めると、セベクは静かに口を開いた。

「その、手のことは本当にすまなかった。何か困ったことがあれば必ず助けになろう」
「気にしなくていいのに」
「いいや、けじめはつけておきたいんだ」

 セベクは強く言って、頑なに意志を曲げようとはしなかった。今どき珍しい義理堅さである。

「それなら今度引っ越しでも手伝ってください」

 大した荷物はないはずだが、一人で引っ越しの作業をするのは大変だ。ちょうど誰かの手を借りたかったことを思い出して、ヒトハはセベクにそれだけお願いすることにした。かなりの力持ちに見えるから、彼にはもってこいの仕事だろう。
 彼は二つ返事で手伝いの約束をすると、足早に去って行った。若様という人をずいぶんと気にかけていたから、一刻も早く帰りたかったのかもしれない。
 ヒトハはセベクを見送り、重い腕を持ち上げて自室の扉を開いた。とてつもない疲れが急に襲ってきて、もう何をするのも億劫だ。たった一晩しか世話になっていないこの部屋が、今はどこよりも落ち着く。
 ヒトハは何もかもを後回しにして、ベッドのスプリングに上半身を投げ出した。

「はぁ、つかれた…………」

 そうしてやっと、初日の仕事を終えることができたのだった。

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