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清掃員さんと偵察
「延期ですか?」
ヒトハが軽く首を傾げると、クルーウェルはばつの悪そうな顔をしながら「悪いな」と返す。
外廊下を掃除している時に声をかけられたヒトハは、まず彼の様子が少しおかしいことに気がついた。物事は白黒はっきりつけるタイプの彼にしてはどこか釈然としないような、発言に抵抗があるかのような声をしていたからだ。
「急に明日用事ができてな。この前試した魔法薬の調合を少し変えたから、試してみたかったんだが……」
「用事ができたなら仕方ないですよ。気にしないでください」
急用ができて予定が流れるのは何も珍しいことではない。そしてそれをわざわざ詮索しようとするほど聞き分けが悪いわけでもなければ、野暮なことをするほど子どもでもない。
ヒトハがすんなりと引き下がると、クルーウェルは「ではまた一週間後に」と口早く言って踵を返した。
(何かあったのかな……?)
それは多分繊細な変化で、ほとんどの人は気にも留めないくらいのものである。しかし少なくはない時間を公私共に過ごして来たヒトハにしてみれば、違和感を抱くのに十分なほどだった。
彼は何かを隠している。それも自分には言えないことを。
なんだか無性に苛立って、ヒトハはムッと口を曲げた。どうしてかは分からないけれど、むしゃくしゃする。腹の奥に嫌なものを飼っているかのような、気持ちの悪い気分だった。
***
「ああ、それは」
バルガスは後ろ首を掻いて、周囲を警戒するようにササッと視線を左右に動かした。彼には心当たりがあるようだが、うーんと悩ましい声を聞く限り、あまり良いことではないらしい。
昼休みが終わる直前にバルガスが運動場の近くにいたものだから、つい捕まえてしまった。このすっきりしない気持ちを聴いてもらうには彼以外いない。先輩はふにゃふにゃしているから話し甲斐がないし、同僚たちは情報漏洩の危険があるし、生徒たちは論外だし。
ここで友人の少なさを自覚してバルガスに向かうのも失礼なことだが、この男性だらけのナイトレイブンカレッジで内密な話を内密に処理してくれそうで、かつ一応ちゃんと話を聴いてくれるのは彼くらいのものだから仕方がなかった。
話したいのは、つい先ほどのクルーウェルの様子についてだ。何があったのか知っていれば尚良い。
バルガスは最初「自分で聞けばいいじゃないか」と面倒そうにしていたが、ヒトハが必死に訴えていると、急に思い出したかのように心当たりのある素振りを見せたのだった。
バルガスは腰を屈めて、ヒトハの片耳に顔を寄せた。
「それはな……“合コン”だ」
「合コン」
ヒトハは一瞬何のことか分からず、目を点にした。合コン。久々に聞く単語である。
「極東ではそう言うらしいな。この前一緒に飲んだ極東出身のやつが言っていた。男女が集まって酒を飲むんだろう?」
「え、ええ、概ね合ってますけど……。まさかこんなところでそんな単語を聴くことになるなんて……」
極東で働いていた時期はよく耳にしていた。会社のロッカールームで恋愛に精を出す女性たちが騒いでいたものだから。
「いや、でも、先生が合コン」
ヒトハはあまりにも予想外の理由に驚愕した。合コンといえば、恋愛目的のカジュアルな出会いの場のことである。
(に……似合わない……)
いきなりあのレベルの容姿の男が出てきたら、女性たちは怯んでしまうのではないだろうか。そもそも彼はそんな場に向いている性格だろうか。自分と最初に出会った頃を思えば「その話はいつまで続くんだ?」とか「壮大な前置きご苦労。それで?」とか嫌味を言われるかもしれない。あの顔で。怖いに決まっている。だって自分も怖かったし。それとも割と気の強い人たちの集まりだったりするのだろうか。あるいは、あのクルーウェルを唸らせる才女たちが呼ばれていたりするのだろうか。
ヒトハがぐるぐると思考を迷宮入りさせている中、バルガスは「なるほど」と分かったような顔をして髭をさすった。
「クルーウェル先生がどんな女性と会うのか気になるんだな?」
「そ、そりゃあ気になりますよ。先生、言う時は結構言うし、先生に合う女の人ってどんな人だろうって……」
ヒトハはバルガスにピタリと考えを言い当てられて、わざわざ言わなくていいことを言ってしまうくらいには動揺した。
完全な図星と理解したバルガスは、顎をさする指をそのままにニヤリと笑う。
「つまり、嫉妬か」
「はぁ!?」
ヒトハは驚いて運動場に響き渡る大声を上げた。チラチラと次の授業に向けて集まり始めた生徒たちの視線を感じて、はっと口を噤む。顔を赤らめながらヒトハは「違います!」と小さな声で捲し立てた。
「私は! あの“人を犬呼ばわりする先生”にお似合いな女の人ってどんな人なんだろうって……つまり──そう! 心配しているんです! 『大丈夫かな、先生?』って! 親心的な!」
「あーあー、分かった分かった」
バルガスは騒ぎ立てる小鳥を追い払うように手をパタパタとさせ、その途中で突然、逞しい二つの眉をひょいと片方だけ上げた。
「そこまで言うなら、行くか」
「へ?」
行くって、どこに? と、首を傾げる。するとバルガスは輝く歯を見せつけながらニッと笑ったのだった。
「──偵察だ!」
ヒトハは深々とキャップを被りムチムチのTシャツを着たムキムキの男を見上げて、静かに数歩退いた。
「これ、隠れきれてないですよ」
ビーチにお似合いの大ぶりなサングラスで濃い目元を隠していても、身体の特徴を隠せていない。彼を知る人が見れば、どう見たってアシュトン・バルガスその人である。
「やはり変装程度では隠しきれないな、オレ様の、この逞しい筋肉は……」
「それに関しては否定のしようがないですね」
バルガスは隠す気のない上腕二頭筋をこんもり腕に盛りながら、惚れ惚れと言った。ヒトハはそれを見て、小さくため息を落とす。本当にこれで上手くいくのだろうか。
バルガスから「偵察に行くぞ!」と言われた翌日、仕事を終えた二人は麓の街へやって来た。バルガスの提案により、お互いクルーウェルにばれないような変装をしてくる約束をしていたのだが──もう早々にばれる予感しかしない。地味なパンツスタイルに眼鏡を装着したヒトハは“ただの地味なヒトハ・ナガツキ”だし、バルガスは“ビーチにいるアシュトン・バルガス”なのである。しかも、二人のスタイルが真逆すぎて並んで立っているだけでも目立つ。
「ま、お前さえバレなければ問題ないだろう」
バルガスはのんきに言って、二人が陣取った白い丸テーブルにグラスを二つ置いた。
合コン会場はヒトハも知る麓の街の人気店である。当然予約なしでは入ることもできないので、向かい側にある酒場のテラスで張り込むことにしたのだ。
まだ予定時刻まで余裕があり、手持無沙汰のヒトハは、バルガスが持って来たモヒートを手に取った。ほんの少し口に含むと爽やかなミントの香りが鼻孔を通り抜け、仕事疲れで麻痺した頭がすっきりとしてくる。
(そういえば、なんでこんなことになったんだっけ)
改めて考えてみると、はた迷惑な話である。プライベートをこそこそ盗み見られて気分を悪くしない人なんていないだろうに。
分かっているのに、こうしてここまでやって来たのは、後ろめたさよりも興味が勝ってしまったからだ。先生のプライベートなことだからと、今回ばかりは突っぱねることができなかった。
(だって、私との約束を後回しにして女の人に会うなんて……)
考えるとムカムカしてきた。それに、無性に悲しくなった。今まで過ごしてきた時間が──約束が、知りもしない女の人に根こそぎ奪われてしまうかのような気がして、悔しくもあった。
「そう浮かない顔をするな。ほら、大好きな酒だぞ?」
「えっと、今日はあまり飲む気になれなくて……」
ヒトハは一口飲んだきり減っていないグラスを片手に、力なく肩を落とした。
酒だけではない。喉がきゅうと絞られてしまったかのように食べ物が受け付けないのだ。昨日の夜からずっと胃の中がもやもやとしていて、好きなお菓子も、どんなものも上手く喉を通らなかった。
バルガスは眉間を曇らせるヒトハを見て「ま、そんな日もあるか!」と大口を開けて愉快に笑うばかりだ。まるで共感も感じられない態度だったが、ヒトハはそれが彼なりの慰めであることを知っている。もし他の人だったら、葬式かと思うくらいどんよりとした空気になっていたに違いない。そしてそんな空気にしてしまう自分が嫌で、きっと無理をしてしまうだろう。数少ない友人の一人にアシュトン・バルガスがいてくれてよかったと、ヒトハは昨日不承不承に彼に相談したことを棚に上げて、心底思ったのだった。
「お、来たぞ」
突然、バルガスが背を丸めてヒトハに囁いた。
大きな道を挟んだ向こう側に男女の団体が見える。見覚えのある学園の教師も混じっているから、例の合コンに間違いないだろう。彼らは既に打ち解けているのか、楽しそうに談笑しながら一人二人と洒落た店の扉をくぐっていった。
「──あ」
ヒトハは意図せず、誰にも聞き取れないくらいの小さな声をもらした。
人の往来に遮られながら、最後に一組の男女が現れる。片方は馴染みのある白と黒の派手な男性。その隣に立つのは、彼にも見劣りしない背の高い女性。髪は艶やかに長く、服の上からもメリハリのある女性らしい体つきが目を引いた。遠目から見ても綺麗な人だ。二人は他の人たち同様、そのまま吸い込まれるように店の中へ消えていった。
「大丈夫か……?」
彼らが店の中へ消えてしばらくした後、バルガスは慎重に口を開いた。彼の声は今までに聞いたことがないほど優しく、それが余計にヒトハの胸を抉る。
昨日「先生にお似合いの女性はどんな人なのか」なんてお節介にも騒いでいた自分が恥ずかしくなるほど、二人が並んで立つ姿は違和感がなく、まさしく“お似合い”だった。極東からやって来た平凡な田舎娘の自分よりも、ずっと。
(い、いや、いやいやいや! そもそも私は先生の恋人じゃないし!)
そして、そうなろうと思ったこともない。
一緒にご飯を食べに行って、他愛ない話をして、近くにいることを当たり前に思っている、ただ親しい人。もしくは世話を焼いてくれる親切な飼い主。命を救ってくれて、今まさに治療に手を貸してくれている恩人。それがヒトハにとってのデイヴィス・クルーウェルである。
(でも、先生に恋人ができちゃったら、私は邪魔になる……)
それが分からないほど、こういうことに疎いつもりもなかった。恋仲ではないが職場の知人レベルは越えているし、今まで通りにしようと思ったら彼女にも失礼になる。
(嫌だなぁ……)
胃の中がもやもやする。ヒトハは嫌な感情を押し込むように、グラスを大きく傾けて、一口に飲み干した。
デイヴィス・クルーウェルは誰のものでもない。それは男性という意味でも、人としての在り方という意味でも。だから誰のものでもない彼の隣に一つ席を与えてもらった自分のことを、あまりにも過信しすぎていた。
「先生、恋人ができたら、もう私とご飯行ってくれなくなっちゃうのかなぁ……」
「辛いよなぁ……失恋の痛み! 分かるぞ!」
「失恋じゃないです……」
二人は空いたグラスをテーブルの脇に乱立させながら、ぐずぐずと鼻を啜っていた。バルガスは気分が落ち続けるヒトハを慰めようと共感を続けた結果、ヒトハの感情に完全に引きずられ、今や長い下睫毛に涙を滴らせている。
「隣にいた人、綺麗な人でした」
「そうだなぁ」
バルガスは認めざるを得ないといった声で同調した。彼から見ても、やはり魅力的に見えたのだろう。安易に否定されるよりはよっぽどいい。それなら仕方ないと納得ができるからだ。
「私、ずっと今が続くと思ってました。そんなことないのに」
バルガスが気遣って頼んだ酒をあおりながら、ヒトハはしょぼくれた。
「先生に恋人ができたら、もう、今まで通りじゃダメですよね……」
学園で何気なく話かけても、きっと毎回あの綺麗な人の姿が目に浮かぶのだ。あの綺麗な髪をした、スタイルの良い女の人が。それに彼の関心だって、ほとんどが彼女に移ってしまうはずだ。魔法薬を作ってやらなければならないような面倒な駄犬にかける時間を、煩わしく思うかもしれない。
敵うわけがない。自分がクルーウェルだったなら、喜んで心を差し出すだろう。だって彼女は、“誰もが羨むもの”を持っていた。
「やっぱり……やっぱり……」
ヒトハはぐずぐずと鼻をすすった。いつの間にか涙が滲んで、目の前に座るバルガスがふにゃふにゃに見える。突然のショックのせいか、頭がふわふわとしてきた。
こんがらがってきた思考の糸を解く余裕もなく、ヒトハはただ真剣に、ストレートに、純粋に、考えていることを言葉にした。
「やっぱり、おっぱいは大きい方が……」
「……うん?」
その時、アシュトン・バルガスは自らの行いを悔いた。そうしてはならないと分かっていたのに、一時しのぎのためにアルコールを与え過ぎたと。
ヒトハは目の縁に薄く涙を溜め、そこから滲むように肌を赤く染めていた。焦点の合わない目をしているが、顔だけはひたすらグラスに向いている。彼女は至って真剣な顔をしながら、頓珍漢なことを口にし始めた。
「やっぱり先生も、男の人なんですよね。おっぱいには抗えない……だって、大きかった……私より……」
いや、うちの学園の生徒じゃあるまいし。突っ込みたくなるのを堪えて、バルガスは押し黙った。彼女は真剣に考えているのだ。自分ではない異性がクルーウェルの隣にいる理由を考えて、納得しようとしている。いわば自らの心を慰めている最中と言ってもいい。彼女の考えを無理に否定しても、悲しみが増すだけだ。
それよりも今は、彼女自身がどれだけクルーウェルにとって価値のある人物かを教えてやるべきだろう。それは多少荒波が立ったくらいでは揺るがないものであることを、バルガスは知っている。
バルガスは気合を入れるようにグラスに残ったビールを飲み干した。友人として、彼女の心に響くように、熱く語ってやらなければなるまい。
そして彼は勢いのまま──言葉選びを間違えた。
「大丈夫だ! クルーウェル先生はたとえ胸の大きな彼女ができても、お前との関係を変えたりはしない! 絶対にお前を見捨てたりなんかしないぞ! お前たちを見てきた、この俺が保証する!」
「……! バルガス先生ぇ!」
ヒトハは勢い良く立ち上がり、バルガスの大きな胸に飛び込んだ。
厄介な酔っ払いたちの完成である。
***
「いやぁ、クルーウェル先生が来てくださるとは思っていませんでした」
「いえ、なかなか無い機会ですので」
魔法解析学の先生が酔いの回った勢いで嬉しそうに言うので、クルーウェルは肩をすくめて愛想笑いを浮かべた。味も雰囲気も申し分なく良い店だったが、やはりそこまで親密度の高くない職場関係の人間と共にテーブルを囲むのは、少し疲れる。
クルーウェルは空を見上げ、もうずいぶん夜も更けていることを悟った。二軒目に誘われる前に早々に挨拶を済ませて、さっさと家で飲み直す方が良いだろう。
「クルーウェル先生」
クルーウェルは参加していた女性に肩を叩かれ、今日の礼と別れの挨拶をするために一言二言の言葉を交わした。彼女は今回一番交流をした人物でもある。
そうして幹事に声を掛けようとした時、向かい側の店に見覚えのある人影を見つけた。
「バルガス先生……?」
普段見慣れない私服を着ているが、あの体格では隠しようもない。バルガスは向かいにある店のテラス席で、何者かと一緒に酒を飲んでいるようだった。相手は線の細さからして女性だろう。
見てはいけないものを見てしまったような気がして少しだけ申し訳なさを感じたが、しかし、あのアシュトン・バルガスが連れている女性である。興味がないわけがない。
あまりじろじろと見過ぎないように控えめに様子を窺っていたクルーウェルは、先ほど話していた女性に再び声を掛けられた瞬間、観察していた人物と目が合った。
「ナガツキ?」
見間違えようなどあるはずもない。恰好はなぜかずいぶんと地味で眼鏡までかけているが、毎日のように見ている姿である。今更その程度で別人とは思えなかった。
「知り合いを見つけたので、今日はここで」
クルーウェルは二軒目の話をし始めている集団に素早く手を上げて別れを告げると、返事を待たずに大きく踏み出した。
ヒトハはクルーウェルが近づいて来るのを、目を丸くしたまま凝視している。近づきながらよく見てみると、彼女の顔は真っ赤で、頬には涙の跡があった。眼鏡越しでも充血した目にじわりと涙が滲み始めていることに気が付いて、クルーウェルは駆け出した。
「ナガツキ、どうしたんだ」
うお、と驚いて仰け反るバルガスを横目にヒトハの顔を両手で包み、ぐいとこちらを向かせる。彼女は涙にぬれた目をぱちぱちと瞬いて「せんせい」と喉に籠った声でポツリと呟いた。
「一体こんなところで何を? いや、それより何で泣いているんだ? 何かあったのか?」
ヒトハは一息に言われてしばらく唖然としていた。かと思えば口元にぐっと力を入れて鼻を啜り始める。ぼろぼろと大粒の涙を溢しながら、彼女は嗚咽混じりに言った。
「やっ、やっぱり先生も、大きい方が、いいんですよね?」
「大きい?」
何がだ? と問う前にヒトハは勝手に続けた。
「だって……だって! 大きい方が嬉しいに決まってますもん! 私も! おっぱいは大きい方がいい!」
「こんな街中で何を言ってるんだお前は!?」
泣いているからと思って油断していた。この顔の赤さはそれだけが理由ではない。
さっと視線をテーブルに落とすと、存分に酒を楽しんだ形跡がある。このグラスの量はバルガスの分を差し引いても多い。
ヒトハはぐずぐずに顔を濡らしたまま「じゃあ……」と駄々をこねるように言った。
「じゃあ、お尻? お尻なんですか……?」
「ちが……いや、違うとかではなく……。いいか、その話を今すぐ止めろ。品がないにもほどがある」
「俺はどっちかというと尻、ですかね」
「バルガス先生の趣味はどうでもいいです」
ニコニコとしながら割り込んできたバルガスを素早くあしらって、クルーウェルはヒトハの眼鏡を外した。とめどなく溢れる涙をせっせと拭ってやるが、涙は湧き水の如く止まることはなかった。
一体何があったのかまるで分からないが、身体的な特徴について泣くほど悩んでいるらしい。またどうしようもないことで悩んでいるな、とクルーウェルは呆れた。元々生真面目な性格もあって、一度悩み始めたらずるずると引きずる癖がある。今日も悪い癖が出たのだろう。
はぁ、とため息を落とすと、ヒトハはクルーウェルの手を押しやって、プイと顔をそむけた。
「もう、いいんです。おっぱいもお尻も……わ、わたしには、何もない…………」
「何もないわけでは……」
これはどうすれば解決するんだ。クルーウェルは途方に暮れた。泣きつかれて眠るのを待つのが最善なのだろうか。
戸惑っていると、バルガスが懲りずに身を乗り出した。こちらも相当酔っている。
「ヒトハ、俺は無いものを欲しがるより強みを活かす方がいいと思うぞ。お前の強みは何だ?」
「強み……?」
ヒトハは首を傾げた。そして自分の体を見下ろして、何かを確かめるように両手であちこち触りだす。彼女は二の腕から胸に足にと身体検査でもするかのように触れていたが、急に腰で手を止めた。ふっと上げた顔は少しだけ誇らしそうだ。
「ちょっと……くびれてる……」
「ちょっとくびれてるのか! すごいな!」
「へへ」
バルガスは自慢の娘を紹介するかのようにヒトハの肩に手を置いて、クルーウェルに得意げに見せつけた。
「──だそうです」
「そうですか」
心底どうでもいい。というより、クルーウェルにとってヒトハの体つきは特に気にするようなことでもなかった。服を仕立ててやったこともあったから似合うように体型を維持して欲しいとは思うが、特別に何かを求めているわけではない。今更外見を変えたところで、ヒトハ・ナガツキという人間が変わるわけではないのだから。
クルーウェルはヒトハに比べたらまだ話が通じそうなバルガスに顔を向けた。
「バルガス先生、これは一体どういうことなんですか」
「いやぁ、ヒトハがクルーウェル先生の合コンが気になるっていうからですねぇ」
「“ゴウコン”?」
聞き慣れない言葉に首を傾げる。
バルガスは一瞬ハッとして口を覆ったが、すぐに無駄と悟ったらしい。気まずそうに口を開き、“合コン”というのは……と説明しだしたバルガスの話を聴いて、クルーウェルはヒトハがこんなにも落ち込んでいる理由と、この状況をようやく理解した。面倒なことになっている、と思っていたが、ある意味面白いことになっていたらしい。
「ナガツキ、これは合コンとやらではない。他校から視察で来た先生方と情報交換をするために、学園の先生を集めて食事会をしただけだ」
すん、と鼻を啜って、ヒトハはクルーウェルを見上げた。
「先生の好きなタイプの話は……?」
「なんだそれは。最初から最後まで仕事の話しかしていない」
顎から滴りそうになった最後の一粒を掬ってやると、ヒトハはむくれた。
「ちゃんと言ってくれたらよかったのに……」
「一応食事会だからな。先に決まっていたお前との約束を中止にしてまで参加するのが後ろめたかったんだ。悪気があったわけではない」
これは本当のことで、さらに言うなら、以前ヒトハが「いつか行きたい」と言っていた店だったから余計に後ろめたかったのだ。
「そんなに俺が他の女性と会うのが嫌だったのか?」
クルーウェルが尋ねると、ヒトハは顔中に皺を寄せて否定を試みた。しかしさっきまで赤くなかったところ──例えば、耳の先がじわじわと赤くなったから、恐らくこれは図星である。
面白くなって、クルーウェルはニヤニヤしながら「嫌だったんだな?」とさらに迫った。
「ちょっと嬉しそうですね、クルーウェル先生」
楽しそうに割り込んできたバルガスを、クルーウェルはじとりとした目で見る。
結局のところ、この状況を作り出したのは彼だ。多少美味しい思いをさせてもらったが、褒められることかと言えば、そうでもない。彼はクルーウェルが独り身の男女が集まる出会いの場に参加したと勘違いをし、あまつさえ、彼女にその様子を見に行こうと提案したのだ。
「バルガス先生。明日、少々お時間いただけますか?」
「いやぁ、明日はちょっと……ええ、もちろんです」
バルガスはクルーウェルの睨みに、素早く両手を上げて降参を示した。
「もう十分飲んだだろう。さっさと帰るぞ」
これで話はおしまいだ。これ以上ここにいるのも無意味だし、何より今日はもう疲れている。彼女だって同じだろう。
クルーウェルがヒトハの腕を取って立ち上がらせようとすると、ヒトハはまだ何か納得がいっていないのか、体に力を入れて拒んだ。そして俯きながら口を尖らせる。
「でも……でも、最後に話してた女の人は?」
「最後? あぁ……」
最後に話していた女性。クルーウェルはもう彼女がいなくなった場所をちらりと見やって「なるほど」と笑う。
そういえば彼女は出会った時からよく話しかけてきた。他校の魔法薬学の教師だというから、それなりに会話もしたし、話も合った。確かに、仕事関係以外の感情も多少は透けて見えていた。
それにしても、だ。クルーウェルはまず、ヒトハに“女の感”とかいうものが備わっていることに驚いた。まるで無縁かと思って、少し見くびっていたようだ。そして想像よりも、遥かに嫉妬深いことにも驚かされた。あまり頓着しない方かと思っていたのだが。
「このままお前を弄ぶのも面白そうだが、それはいくらなんでも酷だな」
簡単に見捨てるような男だと思われていたなら心外だが、見捨てて欲しくないと思うほど頼られているのであれば悪い気はしなかった。独りでも大丈夫だと突っぱねられるより、遥かに世話のし甲斐がある。
クルーウェルは手を伸ばし、ヒトハの頭を遠慮なく撫でまわした。嫉妬で拗ねた飼い犬にそうしてやるように。不安を埋めてやるように。
「当然、何もない。愛犬は一匹で十分だ」
「う゛う゛~……」
ヒトハは再び目に涙を滲ませた。
そして泣きながら「わん」とひとつ吠えたのだった。
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