short
紛らわしい話
「先生、いい匂いしますね」
その日の最終授業が終わった後、魔法薬学室に入ったヒトハは掃除をしながら普段と違う匂いに気が付いた。ヒノキのような落ち着く香りで、故郷である極東の国では馴染み深いものだが、このナイトレイブンカレッジにおいては様々な植物と素材が並ぶ魔法薬学室でも嗅いだことはない。
その香りの元を辿ると、居合わせたクルーウェルが明日の授業の準備をしているのか、教科書をパラパラと捲っていた。身だしなみに関してはポムフィオーレ寮のヴィルに並ぶこだわりの強さである。なるほどこの人か、と思い至って、なんとなくそう声をかけたのだ。
「ああ、香水か」
クルーウェルは一瞬何のことか分からない顔をしたものの、すぐに自身の手首をヒトハに差し出した。少し顔を寄せてみるとより鮮明に匂いが感じられて、ヒトハは「やっぱり、ヒノキっぽいですね」と頬を緩めた。
「よく分かったな。珍しい香りかと思ったが、極東では馴染み深いのか?」
「ええ、特別珍しい香りではないです。なんかすごくいい木の香りって感じですね」
「その表現力は一旦置いておくが、確かに自然を思わせる香りだな。少しスモーキーだが、すっきりとしているから女性にも向くだろう」
手を出せ、とアトマイザーを片手に言われて差し出した両腕は、手袋のせいで指先から襟元まで完全に布で覆われている。
「そうだったな……」
クルーウェルは結局、自分の手袋を少しだけずらしてそこに吹きかけた。鼻孔をくすぐるのはどこか懐かしさも感じる香りだ。それは恐らく、この学園でも数少ない極東出身の者だけが抱く感覚なのだろう。
(これ、欲しいなぁ)
と次の給料の使い道を考えていると、ぬっと顔の両脇に腕が伸びてきた。驚く間もなく耳裏から首筋にかけて冷たい体温が通り抜け、「ひぃ!」と上擦った声をあげる。突然のことに硬直しているヒトハを前に、犯人のクルーウェルは手袋を直しながら鼻で笑った。
「なんだその反応は」
「いきなり触らないでくださいよ!!」
他人の首筋を勝手に触っておきながら酷い言い草である。熱を冷まそうとして両手で首を抑えていると、やはりあの匂いがした。方法はどうあれ好きな香りを纏うのは悪くない。
ヒトハはそれはそれで満足してクルーウェルにどこのブランドの香水か教えてもらうと、上機嫌に教室を後にしたのだった。
***
放課後、サバナクロー寮では良からぬ噂が囁かれていた。
──自分たちの知らない間に、例の教師が寮内に足を踏み入れたらしい。
例の教師とは、多様な獣人属を全員ひっくるめて〈犬〉呼ばわりしては躾がどうのこうのと厳しい男のことである。まだ噂程度なのは、その教師が普段纏っている香水の匂いが寮内に漂っていたからで、誰もその姿は見ていない。獣人属はこと匂いにおいては敏感だった。
しかしいくら教師と言えど生徒のプライベートな場所である寮に何の理由もなくやって来ることはない。一体何の目的で、誰かが何かをやらかしたのか、はたまた抜き打ちでチェックでも入ったのか、と慌てる寮生達が白羽の矢を立てたのは一年生のジャック・ハウルである。
サバナクロー寮でも屈指の鼻が利くジャックは寮生達の頼みに首を傾げた。
「クルーウェル先生がうちの寮に来て何か問題でもあるんスか?」
「いやぁ、まぁ、問題は……無いんスけど、でも、そうじゃなくて」
生真面目な彼を説得しながら、ラギーは頭を掻いた。自分としても興味が無いわけではない。かといって、そこまで気にしているわけでもない。問題なのは、寮生が騒がしくて鬱陶しいと言うレオナから「なんとかしろ」と言われたことである。
ジャックは困り果てた様子のラギーに気を遣ったのか「ラギー先輩の頼みならいいッスけど」と最終的には首を縦に振ったのだった。
「確かに匂いがしますね」
そうジャックが言い出したのは、後ろにぞろぞろと寮生を連れ立って寮内を歩き始めてすぐのことだった。さすが鼻が利くと指名されるだけあって、目的の人物が歩き回ったルートを正確に辿っている。寮生たちが顔を青くしたのは、そのルートが個室から談話室に至るまで複雑で、細かいことである。しかも全く終わりが見えない。
さすがにおかしいと思ったジャックが緊張感を醸し始めたことを、寮生たちは敏感に察知していた。
「まさか、まだ寮内にいるのか……!?」
「ええ!?」
ジャックがそんなことを言い、寮生みんながひっくり返るほど驚いた頃、廊下の角からひょっこりとゴミ袋を携えた女性が現れた。
「あれ? みんな揃ってどうしたんですか?」
「ヒトハさん? こんなところで何してんスか?」
「何って、ゴミを集めに来たんですけど」
これ、と突き出された黒いゴミ袋にはパンパンに物が詰まっている。それはよく彼女が手に持って寮内を歩き回っている物だった。確かに言われてみれば、これといって特別でもない光景である。
「クルーウェル先生は!?」
それならこの先にクルーウェルはいるはずで、彼女は出会っているはずだ。ラギーはヒトハを追求してみたものの、帰ってきたのは不思議そうな顔と「先生? 見ていませんが」という期待外れの言葉だけだった。
「ラギー先輩! クルーウェル先生、さっき寮に来て寮長呼び出してました!」
その代わり転がり込んでくる勢いでやって来た一年生の報告に、寮生たちは揃って「は?」と声をあげ、ヒトハと一年生を何度も何度も交互に見やった。ヒトハは状況を理解しないまま、呑気にニコニコとしている。
「見つかってよかったですね」
ほどなくして、クルーウェルによほど強く何かを言われたのか、レオナが心底うんざりした顔で現れた。寮まで乗り込んで来るということはつまりこういうことで、ちょっと伝言、とかいう生易しいものではない。
レオナはヒトハと大勢の寮生を前にして「何してんだ、お前ら」と自分が命じたにもかかわらず言ってのけた。かと思えば何かに気が付いた様子で直進してヒトハの前に立ち、少しだけ腰を曲げて頭上でスン、と匂いを嗅いだのだった。
「なな、なんです……?」
「おい、あいつに『マーキングなら別の方法でしろ』とでも言っておけ。紛らわしい」
「ええ?」
ラギーはその光景を傍から見て、なるほど、と事の顛末を理解した。どうやら彼女はとてつもなく鈍感で、よく分かっていない。あるいは意図せずそうなってしまったのかもしれないが。
「ま、同じ匂いしてたら紛らわしいからやめろってことッスよ。オレら特別鼻が利くんで」
「はぁ」
***
数日後、ヒトハは魔法薬を受け取る日にこそこそとクルーウェルに近づいて「やっぱり欲しいなぁ」と呟いた。結局買えずじまいの香水を、彼は気に入っているのか最近よく付けている。
「なんだ、買わなかったのか?」
「なんかサバナクローの生徒たちからマーキング……『同じ匂いがしてたら紛らわしいからやめろ』って言われちゃったので、やめました。気に入ってたのに残念」
クルーウェルはヒトハの言葉にしばらく押し黙ると「それもそうだな」と同意して、その話はそれきりになった。
とはいえやはり好きな匂いなので香れば近づきたくなるもので、近づけば多少は移ってしまうもので。香りに飽きるまでは獣人属の生徒を何度も驚かせることになったのだった。
※コメントは最大10000文字、5回まで送信できます