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清掃員さんと先生のハロウィーンの夜に

※この話は「ナイトウォーク」の後日の話になります。

 ナイトレイブンカレッジのハロウィーンは七日に渡り盛大に催される。このハロウィーンウィークと呼ばれる一週間は学園を開き、普段は招き入れることのない客をもてなすのが慣わしだ。麓の街の人たちも街の外の人たちも、この一週間だけは、かの名門魔法士養成学校ナイトレイブンカレッジの門をくぐることを許される。
 それがたとえ、死者であったとしても。

「先生ー」

 だだっ広い廊下に抑揚のない声が響く。
 ハロウィーンウィークの最終日、ヒトハは校舎を彷徨い歩いていた。毎年恒例の激務がついに終わり、この後は膨大な仕事を終えた職員たちのお楽しみ、打ち上げがある。ヒトハもクルーウェルに誘われて、これから打ち上げに参加する予定だ。「疲れた」「早く帰って寝たい」だの何だの言いながら、打ち上げと聞けば不思議と元気を取り戻すのが社会人である。
 例に漏れずヒトハも打ち上げへの気持ちを高めていたのだが、しかし講堂近くで待ち合わせていたはずのクルーウェルは一向に現れなかった。待ち合わせ場所を聞き間違えただろうか。焦って送ったメッセージに返信はない。
 ヒトハは仕方がなく、イベントを終えた人けのない校舎を歩き回ってはクルーウェルを呼び続けた。絵画たちは五月蝿そうな視線を寄越し、壁の燭台の灯りはヒトハが声を上げるたびに不気味に揺れる。
 この時期のゴーストはいつもより少し大胆になるのだと先輩は言っていた。この世に戻って来た嬉しさからか、羽目を外しやすいのだという。ヒトハはそんな彼らの悪戯に遭わないかとハラハラとしながら廊下を歩いた。たとえ原因が悪戯ゴーストであったとしても、こんな不気味な夜に被害に遭うのは御免被りたい。
 ヒトハは足を止め、夜も更けた空を見上げた。窓から見える夜空には赤い月がポツンと浮かんでいる。ハロウィーンウィーク最後の一日、ハロウィーンナイト。
 無意識にポケットを触りながら、ヒトハはいつかの夜の出来事を思い出した。そういえば再会の約束をしたゴーストは、結局その姿を現すことはなかった。今ここで出会えたなら心強いものだけれど。
 どこからともなく遠吠えが聞こえ、ヒトハはぶるりと体を震わせた。

「……戻ろ」

 もしかしたらクルーウェルは何か事情があって遅れているだけなのかもしれない。だから戻ったら勝手に待ち合わせ場所を離れた自分を待っているかも。もしそうでなかったとしても、待たずに打ち上げの会場に行けばいい。
 ヒールの先をくるりと回し、ヒトハは「あ」と声をもらした。
 振り返った先の曲がり角に、チラリと先の黒い尻尾が揺れたのだ。それはほんの一瞬のことで、尻尾は吸い込まれるように角に消えていく。

「先生?」

 ヒトハは誘われるように、小走りで曲がり角へ向かった。

「先生!」

 追いついたかと思えば、今度は角の先にある階段に消えていく。あのふさふさの尻尾は見間違えようもない。彼のコートだ。ヒトハは今度こそ駆け出した。

「ちょっと先生! 待ってください!」

 薄暗い階段の折り返しに滑り込む尾を追いかけて、ヒトハは階段を強く踏んだ。揶揄うつもりだろうか。ほとほと疲れている夜なのに、冗談ではない。
 いきりたって階段を駆け上る。尾はヒトハをあざ笑うかのようにスルスルと逃げていった。階段の先、外廊下の奥、アーチ窓から入る月明かりの向こう側へ。金の額縁の中でウトウトする若い男は、片目だけ薄く開いて閉じる。
 ヒトハは白黒の尻尾に誘われるように校舎の奥へ奥へと進んで行った。なぜ走りながら追いかけているのか、いつの間にか分からなくなってしまうほどに。
 ハロウィーンの夜は驚くほど静かだ。昼間の喧騒も夜のパーティーの余韻すらも残らず、ただただヒトハの靴音だけがカツカツカツと子気味良い音を奏でている。

「……あれ?」

 ふ、と我に返る。ヒトハは何度目か分からない突き当りで急に足を止めた。

 ──どうして自分の足音しかしないのだろう?

 その瞬間、尻尾が消えた先からぬっと手が伸びた。赤い革手袋がヒトハの腕を強引に掴む。
 クルーウェルは特別なことがない限り、ヒトハをこれほど雑には扱わない。痛いほど強い力で掴んで、引っ張ろうなんてことはしないのだ。

「────!」

 そこで初めて、ヒトハは“彼ではない何か”を追いかけていたことを悟った。つんのめりながら進んだ先に、深い闇がある。ヒトハはヒッと喉を引き攣らせた。上も下も横も、その先がどれくらい続くのかも分からない、底なしの闇。そこから腕が一本伸びている。それは一見彼のもののように見えたが、確かに彼のものではなかった。

(連れて行かれる!)

 ヒトハは直感した。咄嗟に腕を引っ込めようとしたが、腕は石にでもなったかのように動かなかった。足元から頭のてっぺんまで肌が粟立つ。

「や……やだ!」

 引かれる力を感じ取って、ヒトハは再び抵抗を試みた。やっとのことで出た声は、恐怖で掠れて弱々しい。思い出し、空いた手を杖に伸ばす。その時、静かだった校内に荒々しい声が響いた。
 犬だ。怒りのままに吠える犬の声だ。
 ヒトハがそれに気が付いた時、何かが突風のごとく鋭い速さでヒトハの横を跳ねた。

「わっ……!」

 ぱっと手が離れる。力の限り後ろ向きに身体を傾けていたヒトハは、ころりと尻餅をついて転がった。
 クルーウェルではない“何か”が闇に消えると同時に、獲物に襲いかかる犬の唸りが聞こえてくる。何も見えない闇の中でしばらく格闘する声が続いたかと思えば、それはほんの一分にも満たない間に、しんと静まり返ったのだった。
 ヒトハは廊下にへたり込んで心臓を抑え、食い入るように闇を見つめた。秋の夜に似つかわしくない量の汗が制服を湿らせている。
 そんな満身創痍のヒトハのことを分かっているのかいないのか、今度はポンと肩を叩く者がいた。

「ギャ──────ッ!!!!」

 叫びながら水揚げされた魚のように廊下の上で手足をじたばたとさせるヒトハの口元を、むんずと大きな手が覆う。それが余計に恐ろしく、ヒトハはあらん限りの叫び声を上げた。

「ムム゛────ッ!!!!」
「ビー クワイエット! 煩いぞ、お前!」

 叫びを上書きするような大声を聞き、ヒトハはハッとした。この低く苛立った声は、間違いなく彼だ。
 クルーウェルはヒトハが叫びを止めて肩で息をし始めると、口元を覆っていた手を離した。

「はぁ、はぁ……せんせ……?」
「落ち着いたか?」

 廊下に尻餅をついたまま、ヒトハはクルーウェルを見上げた。白い前髪がぐしゃぐしゃに散っていて、彼はそれを片手で撫でつけながら廊下の先を見やる。

「学園の結界が普段より緩んでいるせいだろう。良くないものが紛れ込んでいたみたいだな」
「よ、良くないもの?」
「この世に帰って来ているのは善良なゴーストだけではないということだ」

 クルーウェルはヒトハの手を取り、ゆっくりと起き上がらせた。ヒトハは恐怖で竦んでしまった足に力を込め、その手に縋りながらも立ち上がる。ちらりと見た廊下の先には、いつの間にか灯かりが戻り、闇は幻だったかのように消え失せていた。
 この世に戻って来ている“善良ではないゴースト”とは、この魔力の強い地に引き寄せられた悪霊のようなものだろうか。いくら外からの客を招くイベントとはいえ、到底歓迎できるものではない。
 クルーウェルはヒトハがしっかりと立ったことを確認すると、深いため息を吐いた。

「そろそろ結界を戻すから心配ないだろうが、あとで専門の先生方に報告しておこう」

 そして彼は奥へ伸びる廊下から視線を外し、壁を睨んだ。

「おい、お前たち。ちゃんと仕事をしないか」

 額縁の中の二人の女性は、覆っていた目を鬱陶しく開く。彼女たちは片手を口元に当てながら、見せびらかすように小さな欠伸をしてみせた。

「酷いわデイヴィス。毎日うるさくって寝不足なんだもの。今日くらいはゆっくりさせて」
「そうよ。今夜はみんなお疲れなんだから」

 そうして再び目を閉じる。七日に渡るハロウィーンウィークは絵画たちにとっても大変なことだったらしい。生徒たちに散々意地悪をする彼らも、訪問者たちの相手にはほとほと疲れているようだ。
 呆れた顔のクルーウェルをものともせず眠り始める絵画の女性たちを眺めていると、ヒトハは足元に冷たい気配を感じた。

「ひゃあ!」

 跳び上がってクルーウェルのコートに縋りつき、その正体を足元に見つける。
 それは一匹の白い犬だった。

「グッボーイ、お手柄だったな」
「ワン!」

 犬はクルーウェルを見上げて吠えた。目は青く、鼻先は細くて長い。ぱかんと開いた口から長い舌がぺろりと出ていて、短い呼吸をするたびに上下している。ヒトハはぱちぱちと目を瞬き、その犬の足元を見た。もやもやと湯気のように揺れる足先が、廊下からほんの少し浮いている。あの夜の光景が思い出されて、ヒトハは強張っていた顔をたちまち輝かせた。

「ゴースト犬!」

 忘れもしない、月と星の綺麗な夜に出会ったゴースト犬である。この学園に迷い込んだ犬と麓の街を散歩して、宝物を見つけ、飼い主の元へ送り出したのだ。
 クルーウェルは片膝をつくと、犬の頭を撫でた。

「待ち合わせ場所にこいつがいたんだ。ついて来いと言うから追ってみたが、間に合ってよかった」

 犬は嬉しそうに上向きの尾を大きく左右に振っている。
 クルーウェルはスマホを取り出してメッセージの画面を開くと、ヒトハにそれを見せた。送信に失敗したメッセージが画面にぽつんと取り残されている。

「遅れる連絡をしていたんだが、届いていなかったようだ。どうしてもお前を連れて行きたかったらしい」

 小賢しいことだ、と忌々しく舌打ちをしている彼も、犬がじゃれついてくれば途端に顔を緩ませる。無類の犬好きであるクルーウェルは、触ることのできないゴースト犬を満足がいくまで撫で続けた。

「私を助けてくれたんですね。ありがとうございます」

 クルーウェルの隣にしゃがみ込んだヒトハは、犬の額にそっと頬を寄せた。実態はなく、ひんやりと冷たい。頬に懐かしい犬の体温が染み渡ると、再会の驚きは喜びに変わっていった。

「もう会えないかと思っていました」

 ゴースト犬に出会ったのは少し前のことだったし、ハロウィーンウィークが始まっても姿を見せなかったから、もう二度と会えないのではないかと思っていたのだ。

「あっちの世界では飼い主さんに会えましたか?」

 犬はヒトハの問いに元気よくワン、と答える。分かっているのか、いないのか──あの日の約束通りハロウィーンの夜に再び会いに来てくれたのだから、きっと分かっているのだろう。

「あ、そうだ、これ……」

 ヒトハはポケットを弄った。このハロウィーンウィーク期間中に、ずっと制服に忍ばせていたものがある。

「ハロウィーンに会えるかなと思って、この前先生と選びました。はい、ハッピーハロウィーン」

 ヒトハが差し出したのは手のひらサイズの骨のおもちゃだ。犬はそれに鼻先を近づけ、ふんふんと鼻を鳴らしながら念入りに匂いを嗅ぎ、大きな口で咥えた。

「気に入ったようだな」
「ええ、先生の見立て通りでしたね」
「犬は棒が好きな生き物だからな」

 犬はクルーウェルが伸ばした手から逃れるようにプイと顔を背け、後ろに二、三歩下がった。おもちゃを取られるとでも思っているのだろうか。クルーウェルはそれを見て、怒るでもなく穏やかに笑う。

「ハロウィーンは楽しかったですか?」

 ヒトハが囁くと、犬はおもちゃを咥えたまま嬉しそうに前脚を跳ねさせた。きっとハロウィーンをたっぷり楽しんで、最後の挨拶をしに会いに来てくれたのだ。ヒトハは耳を引っ込める犬の頭をゆっくりと撫でた。
 その手を犬の背に滑らせていると、突然二人と一匹の耳にピュイと短い笛の音が届く。

「口笛?」

 クルーウェルは音を探して立ち上がった。首を回し、廊下の先に何かを見つける。

「お迎えだな」

 彼の視線の先には白い影が二つ立っていた。背の高い人と低い人。恐らく男性と女性で、背が少し曲がった老夫婦にも見える。背の高い人が片手を上げると、犬は弾かれたように駆け出した。

「あっ」

 あっという間に小さくなった犬は、白い影の周りをぴょんぴょんと駆け回った。口にしたおもちゃを見せびらかし、ヒトハにしてもらったように頭を撫でてもらう。その手はゴースト犬の柔らかな毛並みをしっかりと撫でているようだった。

「もう行っちゃうんですね……」
「あと数時間でハロウィーンは終わるからな。飼い主もそろそろ帰るのだろう」

 ヒトハはクルーウェルの傍に立ち、二人と一匹のゴーストたちに大きく手を振った。

「また来年! ハロウィーンの夜に!」

 広い廊下に大きな声が響き、その声が隅々まで行き渡ってプツリと途切れる。二人の影は応えるように手を振り、犬はワンワンと二度吠えた。やがてその影はいつか墓地で見た時のように、静かに消えてしまったのだった。

「あーあ、あっという間でしたね。もう少しハロウィーンが長ければいいのに」
「そんなことを言っていたらいつまでも打ち上げに参加できないぞ」

 口を尖らせるヒトハに、クルーウェルは呆れて言った。彼は手にしたスマホを見て「もうとっくに開始時刻を過ぎている」と付け加える。既に開始時刻から三十分過ぎた大遅刻で、会場では乾杯も終わって大盛り上がりしていることだろう。

「えーっ! バルガス先生と飲み比べする約束してたのに! 急ぎましょう、先生!」
「ナガツキ、ステイ!」

 慌てて会場に向けて駆け出そうとするヒトハの後ろ襟を引っ掴み、クルーウェルは慌てて引き留めた。振り返ると、彼は取り繕ったような笑みを浮かべている。

「急いでいる時こそ、余裕を持って行動すべきだ。ゆっくり行くぞ」
「そんな悠長なこと言ってる場合ですか!? 私は急いでアルコールを入れたいんですよ!」
「分かったからその表現はやめろ」

 なんやかんやと言いながら会場に行きたがらないクルーウェルをもどかしく感じて、ヒトハは彼の手を取って引っ張った。

「ほら先生、せっかくのハロウィーン、楽しまないと損ですよ!」
「お前が楽しんだ後どうなるか分かって言っているのか? はぁ、もう俺は疲れた。ハロウィーン早く終わってくれ……」

 どこからともなく遠吠えがする。窓から見える空には赤い月がポツンと浮かび、ハロウィーンウィーク最後の夜を飾った。
 こうして危険なハロウィーンの夜に、ヒトハはゴースト犬との再会を果たしたのである。

***

「先生ー! 見てください、これ!」

 ハロウィーンウィークを終えた翌日。片づけのために生徒たちも教師たちも駆けまわる学園の一角、魔法薬学室にヒトハは長い長い木の枝を携えて駆け込んできた。
 クルーウェルは彼女の腰ほどある長い枝に驚いて、「よく見つけて来たな、そんな枝……」と唖然とする。
 ヒトハの持っている枝は片手でしっかり握れるほどの太さがあった。しかも、とにかく長い。クルーウェルは大型犬が嬉々としておもちゃを持ってくるような姿に驚き、そしてそれを薬品棚にぶつけないかとハラハラとした。
 ヒトハはそれが自分が拾って来た枝だと勘違いされていることに気が付いて、カッと顔を赤くする。

「ち、ちが、違います! 私が道端で枝なんかを拾って来るわけないでしょう!? 朝起きたら家の前にあったんです! これ、昨日のゴースト犬ですかね?」

 ずい、と差し出された枝を受け取り、クルーウェルは訝しんだ。なぜこんな長い枝を? けれど、あの犬以外にこんなものを家の前に置く者はいない。まさかおもちゃのお返しのつもりだろうか。

「しかしあいつの体より長いじゃないか」
「ええ。犬は棒が好きとは言ってましたけど、長ければ長いほどいいんでしょうか? 先生、あのおもちゃでは物足りなかったかもしれません」

 ヒトハはクルーウェルから枝を取り返すと、ぶんぶんと上下に振った。

「やめろ、危ないだろうが」

 枝は細長いせいか、よくしなった。その感覚が楽しいのか、ヒトハは面白そうに笑う。これではもうほとんど犬だ。
 彼女はにこにこしながら枝を掲げた。

「来年が楽しみになってきました。私、次のハロウィーンまでにこれより長い枝を探します!」
「あ、あぁ……頑張れよ……」

 ハロウィーン期間中のゴーストたちはこの世に帰ってきた喜びからか羽目を外しやすいというが、それにしたって限度がある。もっと短い枝だってよかったはずだ。クルーウェルは「あの犬、とんでもない置き土産をしていったな」と苦々しくヒトハの手にある物を見た。いい年をした女性が長い棒を探すシュールさといったらない。男児じゃあるまいし。

「昨日のことを話したら仔犬たちも先輩たちもゴースト犬に会いたいって言ってたから、今度はみんなで遊べたらいいですよね」
「……そうだな」

 枝を両手に持って来年への期待を膨らませる。その様子を見ていると、なんとなく昨日見た犬の姿が重なって、クルーウェルはヒトハの頭を一度だけ撫でた。あの犬の毛並みは、生前はどんなものだったのだろうか。
 ヒトハは眉間に皺を寄せて、くるりと振り返った。

「なんです、急に?」
「いや、やはり犬はいいものだなと」
「……?」

 彼女は小首を傾げ、手にしていた枝を振った。

「まぁ、それは私も同感ですね」

 ふふ、とおかしそうな笑い声がする。
 一年に一度の特別なハロウィーンの夜に。来年こそはきっと、愉快な再会になることだろう。

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