short
午後二時、麓の街にて
「助かりました、先生」
片手に重い紙袋を携えて、ヒトハは声を弾ませた。
ビリジアンのシックな扉に、カージナルレッドの柔らかい革手袋が添えられる。目が覚めるような極彩色は、この店内にあっては絵画を切り取ったかのような上品さを醸し出す。それが彼の手なのだから、なおのことだ。
クルーウェルは「それはなにより」と気取ったように言うと、扉を押し開けた。彼はヒトハに頑なに扉を触らせず、それはどこへ行っても同じだった。
真新しい本の香りがする書店から一歩踏み出し、外の明るさに目を細める。賢者の島の大部分を占める麓の街は、島を取り囲む大海の輝きを前に大いに賑わっていた。
週末休みの今日、ヒトハはこのところ勉強を始めた錬金術の本を選ぶために、クルーウェルと麓の街へ来ていた。勉強を始めるにあたってあれこれと相談していたら「それなら一緒に本でも探しに行くか」とお誘いを受けてのことである。
そういうわけで、ふたりはこぢんまりとした魔法書専門の書店で数冊の本を購入し、早々に用事を終えた。時刻は午後二時を回り、陰りひとつない太陽はちょうど頭の天辺にある。こうして街まで来たからには、まだ少し物足りない。
「どこか行きたいところは?」
「ううん、夜なら思いつくんですけど。美味しいお酒が飲めるって場所」
クルーウェルはちょっとだけ口角を下げて「相変わらずだな」と嘆いた。そしてヒトハの持つ紙袋をひょいと取り上げて石畳の上を歩き始める。
「適当にカフェにでも入るか」
「いいですねぇ」
ヒトハは同意しながら紙袋を取り返そうと手を伸ばしたが、紙袋は宙を滑り、指先ひとつ掠ることはなかった。
適当に、と言いながら無計画に歩き回っては、なかなか店は決まらないもので。ふたりは気がつけば、ふらふらと寄り道をしながら散歩をしていた。
海沿いの道を行き、円形の広場を抜け、窓辺を彩る花に目を奪われながら、ゆったりと歩く。細い道を抜けた先にひっそりと建つ洒落た眼鏡屋に引っ張られたかと思うと、彼は眼鏡が欲しいのだと言った。視力が悪いのかと問えば、そういうわけでもない。
伊達眼鏡選びにどれが似合うかと試着を重ね、ヒトハは良し悪しが分からなくなった結果「全部」と答えた。「真剣さがまったく感じられない」と拗ねられたのは、納得のいかないところである。本当は細い銀縁の眼鏡が似合っているような気がしたが、最後まで太い黒縁の眼鏡と迷って言えなかった。
結局収穫もなく店を出て、再びゆったりとした靴音を並ばせながら歩く。歩きながら先日起きた〈サイエンス部爆発事件〉の後日談を聴いていると、クルーウェルは急に足を止めた。
「え?」
半歩前に出て振り返る。彼はこちらを見下ろし、まるで内緒話を始めるかのように赤い人差し指を口元に立てた。静かにしろ、ということだろうか。首を小さく傾げるヒトハの視線を誘導するように、彼は楽しげに細めた目を前に向けた。
「──あら、みんな?」
ヒトハはその先で、見覚えのある集団がこちらに大きく手を振っている姿を見つけた。
そこにいたのはヒトハの勤めるナイトレイブンカレッジでも話題の一年生たち。オンボロ寮の監督生を囲むように、いつものエース、デュースコンビとエペルにジャック、セベクという組み合わせだ。
「こんにちは。みんなでお出かけですか?」
小走りに駆け寄ってきた彼らに囲まれながら問うと、彼らは一様に頷いた。部活で必要な道具や日用品の買い出しついでに、街を散策しているのだという。セベクはリリアから「たまには学友たちと遊んでこい」と言われて出てきたと言うが、満更でもなさそうだ。
「ヒトハサンも用事ですか?」
「ええ、今日は──あれ?」
エペルの問いに答えるべく隣を仰ぎ見ようとしたところで、ヒトハは先ほどまでずっと隣にいた人物が忽然と姿を消していることに気がついた。
クルーウェルは少し目を離した隙に音もなく消えていて、驚いたことに、近くにも見当たらない。特徴的な髪と、すらりとした立ち姿はすぐに目に留まるものだが。
置いていかれたかもしれない。不安な気持ちが胸に滲み始めたとき、突然エースが「あーっ! わかった!」と閃きの声を上げた。
「これからデートでしょ!?」
連動するように「デートなのか!?」と大声で問うセベクの口元を、ヒトハは慌てふためいて塞いで「声!」と咎める。
好奇心の塊の彼らは期待に満ち満ちた目で、頬を真っ赤にしたヒトハを見つめた。私服の女性ひとり、麓の街で彷徨い歩いていては目的が気になってしょうがない。
「隠さなくていいよ、秘密にしとくからさ。で、で、誰? 先生? それとも他の人?」
エースが正解の耳打ちを求めて一歩二歩と距離を詰めようとしたところで、今まで静観していたジャックが「やめねぇか」と呆れた。
「ヒトハさんが困ってるじゃねぇか」
そうだね、と同意して引き下がるオンボロ寮の監督生に倣って渋々追求を諦めたエースは、まだ疑わしげな目をしている。これで下手なことを言ってしまったら、ジャックの気遣いを無駄にしてしまいかねない。
「今日は本を買いに来たんです。ひとりで」
ヒトハは当たり障りのない答えを選んだ。咄嗟の嘘だが、あながち間違いでもない。悲しいことに、今はひとりだ。
ヒトハはふと、購入した本を持って行かれたままだったことを思い出した。まさかそのままということはないだろうが、本は持って行ったのに自分は置いて行かれたのだと思うと、無性に悲しくなってくる。
生徒たちはヒトハのつまらない答えにガッカリしながらも、それはそれで納得したようだった。なにも休日に誰かと街に来なければならない決まりはない。それに気がつけば、大きく膨らんだ期待も急速に萎んでいく。
「そろそろ次の店に行かないと不味くないか? 確かセベクは乗馬用のズボンを買い替えるんだろ?」
デュースがそう言い出して、セベクは「そうだったな」と眉を上げた。
生徒たちの外出は、大人たちが比較的自由に出入りできるのに対して制限が多い。当然外出許可が必要で、門限も存在する。
「じゃあヒトハさん、また学園で」
エースが人懐っこく笑って手を振り、ジャックが去り際に小さく頭を下げる。生徒たちが街角に消えて見えなくなると、ヒトハは小さく息をついた。
「ハウルには気づかれたな」
「わぁっ!?」
突然降ってきた声に驚き、ヒトハは文字通り跳ねた。ついさっき消えたはずのクルーウェルが、平然とした顔で隣に立っている。
「せ、先生!? どこにいたんですか!?」
「ずっと隣にいた。ただの〈目眩しの魔法〉だが、仔犬どもとお前には効いたな。さすがに匂いまでは誤魔化せないか」
置いて行かれたと思っただろう、とニヤリとする顔を睨む。そう思うなら先に言ってくれればいいものを、あえてそうせず隣で反応を楽しんでいたのだ。どれだけ不安を感じていたか、知りもしないで。
「お陰でややこしいことにならずに済んだじゃないか」
「そうですけど、もっとやり方ってものがあるでしょう!」
ヒトハは憤慨しながら、紙袋を取り返そうと手を伸ばした。しかしやはり、ヒトハの指は掠りもしなかったのだった。
クルーウェルはヒトハの怒りが斜め方向にエスカレートし始めているのに気がついて、苦笑を浮かべた。
「分かった。悪かった」
「もうしませんか?」
「しない」
クルーウェルが両手を上げて誓うと、ようやくヒトハは矛を収めたのだった。とはいえすぐに元に戻るのも難しく、顔には険しさを残したまま。それが面白かったのか、彼は堪え切れずに小さく吹き出した。
「そうむくれるな、まだデートの途中だろう?」
思わず聞き返す。
「はぁ? これって本当にデートだったんですか?」
すると今度は彼が不機嫌になる番だった。
「……なんだと?」
「え?」
「一応聞いておくが、今日のこれは何だと思っていたんだ?」
「買い出し」
「今まで俺を夜な夜な連れまわして食事に行ったのは?」
「飲み歩き」
「お前は錬金術を学ぶ前に知るべきことがあるようだな」
彼は嫌味っぽく言うと、ぷい、とそっぽを向いて歩き出した。
(拗ねちゃった……)
もはや「お互いさま」と言ってしまえばそこまでだが、ヒトハはほんの少し考えて「先生」と彼を引き止めた。
「なんだ」
ついさっきも見た、拗ねた顔だ。自分のせいで怒っているのに、ヒトハにはこれがどこか可愛く見える。年上の、頭ひとつは大きな男だというのに。初対面ならまず、そんなことは思わない。
隠しきれず、ぽろりと笑みがこぼれる。この問題には、実は一ついい解決方法がある。
「やっぱり銀縁の眼鏡が似合ってました」
と告白すると、彼は思った通り、困ったように笑うのだった。
「お前は本当に都合のいいやつだな」
そんなことを言いながらも、結局は隣に並ぶのを待っている。ヒトハは小さく首を傾げてニヤリとした。
「それは先生も同じでは?」
「お前ほどではない。だが──まぁ、これは詫びに俺が持つこととしよう。これでいいな?」
クルーウェルはヒトハから奪っていた紙袋を掲げた。重たい本が数冊入っていて、ずっと持っているには少し疲れる紙袋である。そうまで言うのなら、任せてあげなくもない。
「とりあえず一休みして店に戻るか」
「いいですねぇ」
ヒトハはクルーウェルの提案に、のんびりとした声で応えた。
歩幅の広い彼を真似るように、大きく二歩。爪先が揃ったら、再びゆったりとした靴音を並ばせながら歩く。白い太陽は相変わらず空高く、こうして街まで来たからには、まだまだ物足りない。
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