清掃員さんとお正月Ⅰ(4/4)

東方より愛を込めて

 積もったなぁ。
 白い息を吐き出しながら、男は玄関から軒先の向こうを眺めた。地面は白く覆われ、門と生垣の上にも厚く雪が積もっている。近くに立つ家々の屋根もまた、遠くの山のように天辺から白く染まっていた。新年初雪にして、初の積雪である。
 男はスッと澄んだ空気を肺いっぱいに吸い込んだ。相変わらず外は冷たく、肌は痺れるようだが、なんとも清々しい気分がする。
 良い冬の日だ。こういう日は娘と雪だるまを作って、体が冷えたら軒下で餅を焼いたものだった。

(あの子は今頃どうしているだろうか)

 娘は遠い異国の地──黎明の国、賢者の島にあるナイトレイブンカレッジで働いている。年末には帰省したが、ものの数日で戻ってしまった。それだけあちらの暮らしが楽しいのだろう。
 子はいずれ離れゆくものだが、こうして遠くの国にまで行ってしまうと、どうしても寂しさを感じてしまう。あの子にとって故郷は良い場所なのだろうか。つらい時期を過ごした場所でもあるが、また帰ってきてくれるだろうか。
 男が感傷に浸っていると、突然家の奥から「お父さん!」と大きな声が響いた。
 妻の声だ。男はそれに応えようと大きく口を開いたが、それよりも早く、外で雪遊びをしていた隣家の犬が「ワン!」と短く吠えたのだった。

「押入れの上に仕舞ってるアレ、取ってくれない?」

 妻はほっそりとした指先を押入れの上に向けた。男はメガネのツルを指で摘み上げ、目を細める。
 彼女の言う「アレ」とは、乳白色のなめらかな木箱──桐の箱だった。平べったいが幅があり、それなりに大きな箱である。

「よっと……」

 男は居間から椅子を運んでくると、その上に立って桐箱を引き出した。どこか懐かしい桐の匂い。そうだった。これは娘の晴れ着だった。

「ありがと、あなた」
「うん」

 妻は受け取った箱をそっと床に置いて蓋を開けた。男は椅子を片付けながら、その様子を覗き見る。
 箱の中には、白いたとう紙に包まれたものが丁寧に収められていた。妻は紙を留めている紐を引き抜き、それをそっと開く。中から現れた鮮やかな織物は、やはり娘が成人した時にお祝いで買った振袖だ。

「それ、どうするんだ? まさか売ったりしないだろうね?」
「そんなことするわけないじゃない!」

 男が気を揉みながら問うと、妻はおかしそうに笑った。

「ヒトハがね、先生はファッションが好きだからって。写真を送ってって言ったのよ」
「先生……」

 最近、妻と娘がよく口にする人だ。酷い怪我の痕がある娘のために魔法薬を作ってくれている、ナイトレイブンカレッジの先生である。
 “先生”の話となると、胸がザワザワして仕方がなかった。妻はやたら娘から先生の話を聞きたがるし、娘はそれを煙たがっている。彼女たちにとっての“先生”とは一体何なのか。気になって仕方がないが、いまだに聞けた試しがない。
 妻は一通り中をあらためると、何もせず再び振袖を包み始めた。
 はて、写真を送るのではなかったのか。

「ヒトハに写真を送るんじゃないのか?」
「そうなんだけど、実物を送ったほうが喜んでもらえるんじゃないかと思って。ほら、見て」

 妻は慣れた手つきでスマホを操り、男に写真を見せつけた。
 画面の中では大きな炬燵に少年たちがぎゅっと詰まっている。窮屈そうだが、みな楽しそうに笑っていた。

「ヒトハが働いている学園の生徒かな? みんないい子そうじゃないか」
「でしょう? 炬燵を買ったからみんなで一緒に入ったんですって」
「ああ、それで。おや、女の子も一人いるね」

 男は薄紫色の髪をした子を指差した。体格のいい男の子たちに囲まれて、一人だけアイドルのように可愛らしい女の子がちょこんと座っている。
 すると妻は男の肩を激しく叩いた。

「いやね、お父さん! ナイトレイブンカレッジは男子校よ!」
「え、ええ……?」

 メガネを外して目を細める。大きな目、長いまつ毛。透き通った肌に、小さな鼻と淡い色の唇。どう見たって女の子だが、男子校なのだから男以外にありえない。
 最近の子は身綺麗にしているんだなぁと感心していると、妻は夫を置いてテキパキと平たい箱に梱包を始めた。そこでふと、男は気がついた。

「……それはなんだ?」

 レザー調の表紙の、アルバムのようなものが箱の脇に用意されている。
 妻はあからさまにびくりと肩を揺らし、「なんでもいいじゃない」と急にそっけなく答えた。

(怪しい……)

 男は見覚えのある表紙をじっと見た。そしてピンときた。

「まさか、それはヒトハの前撮り……」

 なんと、娘の成人式の前撮り写真である。写真館でうんとおめかしして撮ってもらった渾身の写真を、妻はこっそり箱に忍ばせようとしているのだ。
 娘の嫌そうな顔が瞬時に浮かんで、男は慌てて妻を咎めた。

「やめなさい、ヒトハが嫌がるだろう」
「だ、だって、先生も見たいかなと思って……」

 唇を尖らせながらぶつぶつと言い訳を始める妻。またしても先生である。
 妻は何処の馬の骨ともわからない男(あるいは女)のために、大切な思い出を二つも送ろうとしているのだ。
 一体“先生”とはヒトハの何なのだ、と喉元まで出かけたのを無理やり飲み込んで、男は声を絞りだした。

「……いきなり写真を送りつけられたら先生も迷惑じゃないか。振袖だけにしておきなさい」

 そう言うと、妻はやっと分かってくれたのか「はぁい」と不服そうに答えたのだった。
 あの桐箱が押入れの上にあってよかった。彼女の手が届く場所にあったなら、勝手に送っていたに違いない。それくらいは平然とやってのけるはずだ。
 ほんとうに、昔から変わらない。男は深いため息を吐いた。
 自分とは真逆の天真爛漫さと驚くほどの度胸で何度肝を冷やしてきたことか。娘にも一部引き継がれてはいるが、実際のところ、妻はあの子の比ではない。そういう危なっかしいところが、良かったわけだけれども。
 ひょっとして、先生とやらもこの性格に手を焼いたりしているのだろうか。

(さぞ気苦労が絶えないことだろう……)

 男はまだ見ぬ“先生”に、ほんの少しだけ同情したのだった。

***

 夫が「少し散歩をしてくる」と言って家を出るまで、女はじっと箱の前で座り込んでいた。妙な動きをしたら夫が監視に戻ってきてしまう。それだけは避けたい。
 女は玄関の扉が閉まるまで息を潜めるようにじっとしていたが、この家に誰もいなくなったと知るや否や、再び箱を大きく開いた。

「お父さんったら、ホント頭硬いんだから」

 まぁ、そういう真面目で融通がきかないところが良かったわけだけれど。
 女はそばに置いていたアルバムを手にした。中には可愛い娘の晴れ着姿が大切に仕舞われている。我が子ながら、ちゃんとしていればなかなかの美人である。実際、前回ここへ帰って来た時には、その姿に目を見張ったものだった。昔見た時よりも艶やかな髪、華やかな化粧、流行りの服装。いっそ何か予感めいたものを感じるほどだった。──そう、一足早い春の予感である。
 しかし性格は父親譲りで真面目、かつ自信がちょっとばかり足りない子である。背を押してやるのも親の務めだろう。
 それはそれとして。

「ふふ! 楽しみだわぁ!」

 “先生”の写真をスマホから探し出して、女はため息をついた。生徒たちと撮ったという写真の隅っこに映り込んだ、白黒の彼が先生なのだという。名門校の教師と言うからにはもっと真面目そうな人かと思っていたが、なかなかに尖った人のようである。この先生に、娘はよく懐いているらしい。
 ミドルスクールの先生たちに「難しい」と難色を示されながら、あえて魔法士養成学校に進学した娘は、長い学生生活の中ですっかり変わってしまっていた。友達も頼れる先生も少なかったのだろう。もしかしたら、いなかったのかもしれない。いつも何かに必死で、楽しさや嬉しさなんてものをどこかに捨ててきたようだった。あんなに魔法が好きで選んだ学校だったのに。
 それが今ではこんなに楽しそうに毎日を過ごしている。これほど嬉しいことがあるだろうか。あの子の辛い毎日も、今日の日のためにあったのだと思えば報われる。これもすべて、学園の人たちのおかげだ。

「それにしても……」

 女はチラリと部屋の隅にある本棚を見た。薄い背表紙が高さを揃えてきっちりと整列している。これは子役の頃から応援している俳優、ヴィル・シェーンハイトの写真集である。女にとってのナイトレイブンカレッジといえば、今まさに彼が通っている学校だった。
 再びスマホに目を落とす。ほとんど背景となっている斜め後ろからのショットでも、並々ならぬ存在感である。

「……先生、モデルとかやってたのかしら……」

 ナイトレイブンカレッジには今をときめくイケメン俳優に王族やら貴族やらと揃い踏みなうえ、先生もいる。もうちょっと若くて自由なら自分も学園で働きたかった──なんて思いながら、女は箱を閉じたのだった。

***

 その箱は極東の小さな島国から海を越え、やがて遠い賢者の島へと辿り着いた。そして、かの名門校ナイトレイブンカレッジの門をくぐり、娘の元へ。
 しかし写真だけは女の狙い通り“先生”が手にすることになった。ついでに、そこに挟まっていた手紙も。
 かくしてナガツキ一家の正月は、娘の絶叫と共に終わりを迎えた──かと思われた。

「ん?」

 クルーウェルのポケットから滑り落ちた手紙を拾った者がいる。
 隆々とした筋肉と、それに相反するような甘い瞳を持つ色男、アシュトン・バルガスである。

「クルーウェル先生、何か落としましたよ」

 彼は拾った手紙を持ち主に返そうとして、ふとその手を止めた。淡いピンクの封筒に、女性らしい文字で『先生へ』と書いてある。しかも、なんとハート付きの『先生へ♡』である。
 まさに脳天に雷を落とされたかのような衝撃だ。これは彼女──クルーウェルと最近良い感じになっているヒトハ・ナガツキの文字ではない。このラブレターのようなものを、クルーウェルは大切にポケットに仕舞っていたのである。

(た、大変だ……!)

 これは恋敵の出現に違いない。でなければ、一体誰がこのような恋に踊る筆跡で『先生へ♡』なんて書くだろうか。

「クルーウェル先生、これは一体……ん?」

 と、顔を上げて気がついた。クルーウェルがいない。封筒を落としたことに気がつかず、さっさとどこかへ行ってしまったのである。
 バルガスは再び封筒に目を落とした。
 淡いピンクの封筒。先生へ、ハート。
 予鈴が響く校内で、バルガスはゴクリと喉を鳴らしたのだった。

(それにしても、一体誰からこれを……)

 封筒に送り主の名はない。中を見れば分かるかもしれないが、さすがにそこまではできなかった。
 バルガスは返しそびれた封筒を手に、グラウンドの端にあるベンチに座り込んでいた。あの後、クルーウェルを完全に見失ってしまったのだ。お互い授業のためにあちこち移動するから、もう日中に出会うことは難しいだろう。

(……いや、ちゃんと探せば見つけられるだろうな)

 バルガスは片手で目元を覆い、ため息をついた。
 実のところ、この時までクルーウェルに鉢合わせていないことに安堵していた。出会わないということは、まだ手紙を返さなくてもいいということである。
 この手紙を見ていると、友人の姿を思い出す。ひょんなことからマジフトで意気投合した友人──ヒトハ・ナガツキの姿だ。
 彼女は真面目で優しく、裏表のない性格をした女性だ。騒々しくも愛嬌があり、クルーウェルが好きな犬っころによく似ている。クールで気位の高い彼をよく困らせ、よく笑わせ、そしてよく怒らせていた。バルガスは楽しそうにクルーウェルとの出来事を話す友人の姿を見るのが好きだった。
 もしもこの手紙の持ち主がふたりの間に挟まってしまったら、自分は一体どうしたらいいのだろう。
 この手紙があろうとなかろうと起きることは起きるが、返してしまったら事が進んでしまうような気がして嫌だった。それではまるで、友人以外の女性を応援しているかのようではないか。
 恋の真剣勝負ならば手紙を返してやるのがフェアというものだが、こちらにだって情がある。

「どうしたらいいんだ……」

 ぎゅっと眉間に皺を寄せ、バルガスは唸った。彼らだって良い大人だ。この件には干渉すべきではないと分かっていても、心の内は複雑だった。

 そんな悩ましい時間も、授業が始まればどこかへ追いやってしまわなければならない。仕事は仕事。余計なことを考える暇などない。
 バルガスはいつも通り、担当する体力育成の授業で調子に乗った生徒を叱り、フニャフニャ筋肉のイデア・シュラウドに檄を飛ばし、アズール・アーシェングロットの屁っ放り腰な飛行を見守った。
 筋肉を鍛えろ。オレのように逞しくなれ。
 いつも通り口酸っぱく言っていると、ふと頭に手紙のことが蘇ってくる。これだけ生徒に言っておきながら、自分はなんと軟弱なことをしているのだろう。

(……やはり返しに行こう)

 授業が終わった後、バルガスは思い切って魔法薬学室を覗きに行った。しかしそんな時に限って、教鞭を振るっているのは違う教師である。
 別の時間にはクルーウェルがよく足を運んでいる購買にも訪れたが、当然のように彼は不在だった。勢い余って店主のサムに「クルーウェル先生にはいいひと・・・・がいるのだろうか……」などと女々しいことを聞くと、彼は生温かい眼差しで「今はいないと思いますよ。愛犬はいるみたいですけど」と言いながら〈世界の名車図鑑〉を持ち出してくる。ひどい勘違いだと気づいた頃には職員室にいて、〈最強の飛行トレーニング〉と〈マジフト戦術入門〉の間に、無関係な〈世界の名車図鑑〉が挟まっていたのだった。

(今日はよくない日だな)

 特大のため息を吐くと、近くにいた教員が信じられないような目で凝視してくる。そんなに珍しい顔をしているのだろうか。いや、しているのだろう。
 自分の恋愛なら当たるも砕けるも自分次第だし、失敗したとしても傷つくのは自分で、そこから持ち直すのも自分である。しかし他人のこととなれば話は別だ。「なんとかなる、気にするな」なんて言って励ましたところで、自分のように持ち直せるとも限らないのである。
 まして──普段は忘れているが──ヒトハ・ナガツキは女性だ。女性の心など、男のアシュトン・バルガスには分かりようもない。たぶんきっと、少なくとも、自分よりは繊細なのだろうと想像することしかできなかった。
 ──こんな気持ちになるくらいなら、いっそ手紙を拾った場所に戻してしまおうか。
 邪念が頭を過ったが、それが出来るほど非常識にもなりきれなかった。それでは手紙の存在をヒトハに教えてやろうかとも思ったが、そんなことをしては送り主の女性が可哀想だろう。クルーウェルに対しても酷い行いだ。
 結局のところ、何を選んでも誰かを傷つけてしまうのである。
 そんなこんなで延々と頭を悩ませ、気がついた時には部活すらも終えていた。夕焼けのグラウンドに一人残されたバルガスは、ハッとして前髪を後ろに撫でつけた。

「しまった」

 ポケットにはまだ、返しそびれた手紙が大切に仕舞われている。さすがに持ち主も手紙を失くしたことに気がついただろう。
 一日が終わる。これ以上答えのない問いに頭を悩ませている場合ではない。
 この時間であれば、クルーウェルは職員室に戻って明日の準備をしているはずだ。そう考えて、校舎に戻ろうと振り返ったときのことだった。

「……ん?」

 生徒たちが数人で何かを囲んでいる。横からの日差しでよく見えないが、あれは真ん中で誰かが倒れているのではないだろうか。
 バルガスは慌てて駆けだした。周りの生徒たちは箒を持っているから、飛行術の練習でもしていたのかもしれない。もし墜落して怪我でもしていたら大変だ。
 おい、お前たち! と叫ぶと、生徒たちは腰を抜かす勢いで驚いた。崩れた人だかりの隙間から茶色のブーツが見える。それから水色のスカートと、白いエプロン。無造作に放たれた家庭用箒と、細い腕。

「ヒトハ……何をしているんだ……?」
「あっ、バルガス先生!」

 ヒトハはオレンジ色に染まった芝生の上で大の字になり、頬に細かい草を散らして笑っていた。起き上がろうと上半身を捻り「だめだ~!」と爆笑しながらパタリと倒れる。
 バルガスが腕を取って引き上げてやろうとしたが、力が入らないのか、芯のない人形のようにフニャフニャとしていた。ヒトハは目じりに涙を貯めながら言った。

「生徒たちに箒でレースのお誘いを受けまして。受けて立ったところ、このザマですよ」
「なに? レース?」

 バルガスが聞き返すと、生徒たちはつい先ほどまでの興奮を思い出したのか、ドッと笑う。

「マジで負けるところだった! 普通の箒であそこまで飛べるのどうかしてるって!」
「いやあ、手に馴染んだもののほうが魔力運用の効率がいいんですよねぇ」

 彼女の体は軟体動物のような心許なさだったが、顔と声だけは一丁前だった。
 どうやら彼女は生徒たちと放課後の箒レースに興じ、魔力を限界まで使用した結果、動けなくなってしまったらしい。魔力を枯渇させるほどの飛行など、とんだ危険行為である。体力育成の教師として見過ごせない。

「負けず嫌いはいいが、もっと自分の魔力量を自覚して行動しろ。お前たちも、分かっていながら勝負を挑むのはフェアじゃないぞ」

 ヒトハ・ナガツキの魔力量が生徒たちに遠く及ばないことは周知の事実である。無理に勝負に引っ張り出せば、こうなることは分かっていたはずだ。
 さらに続けようとすると、ヒトハは慌てて「いえ、違うんです!」と大きな声で割り込んだ。

「私が進んで受けたんです!」

 そして一度口を閉じ、恐るおそる続けた。

「その、誘ってもらえたのが嬉しくて、つい。それに私、ハンデも断ったんです。勝負するなら、やっぱり対等じゃないとって。……ごめんなさい」

 悪いことをしたという自覚があるのだろう。ヒトハは生徒たちと同じように肩を落とし、様子を伺うようにこちらを見上げている。それ以上のことを言えなくなって、バルガスは深いため息を落とした。
 彼女は生徒たちから声をかけてもらえたのが嬉しくて勝負に乗った。そのうえハンデを断った。それが自分にとってリスクのあることだったとしても、魔法士としてのプライドが、そうせずにはいられなかったのだろう。
 自分とて分からないわけではない。手心を加えられた勝負に勝ったとして、それは果たして本当に嬉しいものだろうか。

「ああ、そうだったな。お前はそういう奴だった……」

 この手紙はやはり、一刻も早くクルーウェルに届けなければならなかったのだ。それが彼のためであり、彼女のためだった。
 彼女を保健室に送り届けたら、急いで職員室に向かおう。今日の仕事を終える前に、明日の支度をする彼がいるはずだ。
 顔を上げ、夕暮れのグラウンドの先にある校舎を見上げる。その途中で、バルガスはこちらに向かって来る二人の影を見つけた。
 バルガスに寄りかかっていたヒトハは「あっ!」と声を上げ、力の入りきらない腕をゆるゆると持ち上げる。

「クルーウェル先生!」

 影は小走りに近づいて来た。一人の生徒と、厚いコートを着込んだ男だ。
 クルーウェルはバルガスに支えられているヒトハにぎょっとすると、青筋を立てて怒鳴った。

「何をしているんだ、貴様は!」

 それは広いグラウンドに響き渡り、その場にいた生徒たちを竦ませた。ヒトハはびくりと肩を揺らし、誤魔化すようにへらりと笑う。

「すみません、呼び出しちゃって」
「何が『呼び出しちゃって』だ! 飛行術で魔力を使い果たして動けなくなるなど、無謀にも程がある! こんなくだらんことで俺の手を煩わせるな、この駄犬が!」
「だ、だって、生徒たちに保健室まで運ぶように頼んだら『先生を呼んで来る』って言って聞かなくて……。最近痩せたのに、失礼しちゃいますよね?」
「……って言ってるんですけど、僕たち間違えてないですよね?」

 生徒が不満そうにクルーウェルに問うと、彼は長いため息を吐きながら眉間を摘み、「大人を頼ろうとしたのは正解だな」と苦しげに答えた。

「しかし結局バルガス先生の肩を借りているじゃないか」

 クルーウェルの不機嫌な顔を見て、バルガスはハッとした。生徒たちの話によると、もともと呼ばれていたのは彼で、自分はたまたま居合わせただけなのである。
 バルガスはやっと自分の足で立ち始めたヒトハを引っぺがし、両脇をひょいと持ち上げた。ヒトハは「そんな物みたいに……」と不服そうだったが、そのままクルーウェルに差し出す。

「俺はたまたま居合わせただけで。お返しします」
「はぁ、俺の所有物でもないんですが」

 などと不満をこぼしながらもヒトハを受け取って、クルーウェルはよろめく体を片腕で支えた。

「まぁいい。保健室への道すがら躾直してやる。覚悟しておけ」
「ほら、やっぱり呼ばないほうがよかったんですよ……」
「なんだと? もう一度言ってみろ」
「いたたたたた」

 赤い手でヒトハの頬を摘み、クルーウェルはグイグイと引っ張った。柔らかい頬がピロンと伸び、彼の赤い指先から色が滲み出しているようだ。
 彼女は頬を奪い返すと、そこを手でさすりながらこちらに向き直った。

「そういうわけなので、クルーウェル先生にお世話になることにします。バルガス先生、ありがとうございました。また明日」
「あ、ああ。また明日。今日は安静にな」
 
 バルガスが言うと、二人はくるりと踵を返した。足がもたつくヒトハを支えながら、クルーウェルが「引きずってもいいか?」と疲れた声で問いかける。いつものように言い合いを始める二人を眺め、バルガスは突然「あっ!」と大事なことを思い出した。

「待ってください、クルーウェル先生!」
「……まだなにか?」

 彼は眉間に不機嫌を残したまま振り返った。
 これくらいなら見慣れたものなので、構わずポケットから手紙を取り出し、宛名を伏せて差し出す。万が一にもヒトハの目に触れたら──それだけは遠慮したかった。

「これを落としませんでしたか?」

 バルガスが問うと、彼は訝しむように細めていた目を見開いた。

「確かに俺のものです。どこでこれを?」
「今日、廊下で先生が落としたのを拾ったんですが、見失ってしまい……」
「そうでしたか。まったく気がつかなかった」

 バルガスが差し出した手紙を受け取り、それが自分宛であることを確認すると、クルーウェルは安堵の笑みを浮かべた。

「助かりました。ありがとうございます」

 よほど大事なものだったのだろう。胸は痛むが、やはり返すべきものだったのだ。
 そんな友人の気も知らず、ヒトハはクルーウェルの腕にしがみつきながら、彼の手にあるものを覗き込んだ。そこにあるのは真っ赤な革手袋に似つかわしくない、優しいピンク色の封筒。

「なんです? お手紙?」
「あっ! いや、ヒトハ、それは……!」

 バルガスは慌ててヒトハを制止しようとしたが、肝心のクルーウェルはまったくと言っていいほど動じていない。あまつさえ「これか?」と呑気に言いながら、宛名を見せつけようとしているのである。
 せめてやめさせようと腕を伸ばしたが、しかし遅かった。ヒトハはカッと目を見開いて、震える指で封筒を指差し、そして「お母さんの字!!」と声をひっくり返しながら叫んだのだった。

「お、おかあさん……?」

 ヒトハはクルーウェルの手首ごと掴んで、宛名がよく見えるように傾けた。

「なんで先生がこれを!? 先生へ、はーと……って、何!?」
「ビー クワイエット。耳元で騒ぐな」

 クルーウェルはうるさそうに手首を取り返すと、彼女の手が届かないように封筒を高く掲げた。

「これはお前が振袖を受け取った時に一緒に入っていた、俺宛の手紙だ」

 空に掲げられた封筒が、真っ赤な夕日に照らされて輝いている。それは確かに女性からの手紙ではあったが、色恋とはまったく無縁のものだった。

「つ、つまりそれは……ヒトハのお母さんの……」
「はい。俺のことが耳に入ったようで。これは彼女の母親からのお礼の手紙です」
「そうだったのか……」

 ではなぜハートなんて記号を付けたのか──というのは置いておいて、クルーウェルへのお礼の手紙なら、誰を傷つけるものでもない。むしろ誰にとっても良い手紙で、失くしてはならないものだったのだ。

「よかった……」

 はぁ~と長く息を吐きながら安堵するバルガスを前に、ヒトハとクルーウェルは顔を見合わせた。

「よくわかりませんが、バルガス先生に拾ってもらえてよかったです。仔犬どもではどうなっていたか分かったものではない」
「ええ、本当に」

 ヒトハは深く頷いた。

「バルガス先生、ありがとうございます」
「いや、いいんだ」

 たった一日のことだ。たった一日悩んだだけ。結果友人のためになったのなら、バルガスにとっては安いものだった。

「本当によかった」

***

「先生。その手紙、見せてください」

 夕暮れのグラウンドをとぼとぼとおぼつかない足取りで歩きながら、ヒトハはクルーウェルに手を差し出した。しかし彼は片眉を上げ、検討する間もなく「断る」ときっぱりと答えた。

「女性から貰った手紙をわざわざ他人に見せる男がいるか」
「じょ、女性……なんか複雑……」

 相手は自分の母親である。それを急に女性扱いされると、娘としては少し複雑だ。いや、女性ではあるので、当然の扱いなのだけれど。

「じゃあ、どんなことが書いてあったんです?」

 手紙を見せてもらえないなら、代わりに概要だけでも。食い下がるヒトハに、クルーウェルはにやりとした。

「頑固で生意気で融通のきかない子だが、これからもよろしくと書かれていた」
「はぁ!? 悪口じゃないですか!?」
「それからマジカメのアカウントも書いてあった」
「マジカメ!? 私ですら知らないのに!? というか、お母さんマジカメやってたの!?」
「いつでも連絡ください、と書いてあったぞ」
「れっ、連絡!? 絶対しないでください! 絶対!」
「もう連絡した」
「イ゛ヤ゛──ッ!!!!」

 グラウンドにヒトハの絶叫が響く。かくしてナガツキ一家の正月は、今度こそ終わりを迎えたのだった。

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