魔法学校の清掃員さん
01 会社員さん、無職になる
極東の小さな島国の片隅に、
平凡な会社員さんが住んでいました。
***
ヒトハ・ナガツキはまだ茹だる暑さの残る晩夏の今日、職を失った。あまりにも唐突だった。
急に社長が招集をかけたから、なんだか嫌な予感はしていたのだ。だが、まさかいきなり倒産だなんて、末端の事務員であるヒトハには想像もつかないことだった。
ツイステッドワンダーランドの隅っこにある極東の小さな島国で、平々凡々な魔法士養成学校を卒業してから早数年。魔法の才能には恵まれなかったが、安定した職に就くことができたと思っていたのに。
頭のてっぺんから冷えていく感覚を味わいながらも取り乱すことがなかったのは、目の前でピンと背を張っていた同僚が卒倒したからだろうか。ヒトハが事の重大さを理解したのは、結局、デスク周りの何もかもを抱えて帰路に就いた時だった。
「無職になっちゃった……」
人けのない夜道で街灯の下を渡り歩きながら、呆然と呟く。上司から事細かに今後のことを説明されたが、それももう忘れてしまった。無職。無職なのだ。何をどう説明されたって、慰められたって、その事実に変わりはない。
(仕事、探さなきゃ)
差し当たっては収入。田舎にある実家から出て独りで暮らす身では、なにかと金がかかる。収入が途絶えるのは大きな痛手で、一刻も早く次の仕事を見つけなければならない。しかしヒトハの心に最も暗い影を落とすのは、たまの贅沢ができる程度のはした金のことではなかった。
この長いとも短いとも言えない人生で、やっと腰を据えることができた場所から追い出されることが、なによりも辛い。
魔法の才能を持たないヒトハには魔法士としての居場所はなかった。今の仕事だって魔法が必要なものではない。それでも自分を受け入れてくれる場所だったし、この素朴で慎ましい生活にも満足していたのに。
(これからどこに行けばいいの……)
行き場を失ったヒトハの頭にはそればかりがぐるぐると巡って、とてもではないが、これからのことを考える余裕なんてなかった。
住み慣れたマンションは七畳そこそこのワンルームで、広くはないが、この世で一番安心する場所だ。
ヒトハは帰り着くなり窮屈なパンプスを適当に脱ぎ散らかし、安物の鞄を放ると、起き抜けのままのベッドに倒れ込んだ。
「どうしよう……」
ぽつりと不安を零すと止めどなく悪い感情が溢れてくる。
このまま転々と彷徨いながら生きていかなければならないのだろうか。次に就職ができたとしても、自分にとっていい場所になるとは限らない。そしてそこはやはり、魔法士としての居場所ではないのだ。
「はぁ」
ころりと体を転がすと、腰に硬いものが当たる。ヒトハはそれを手に取って、青白い蛍光灯の下に晒した。
小ぶりで華奢な棒だ。真鍮のような素材で、シンプルな形に魔法石が一つあしらわれている。それは魔法士養成学校に通っていた時から大切にしている杖だった。この携帯用に形状変化させた杖は、魔法を使わなくとも必ず身につけている。
なぜなら自分は本来、魔法士だから。
魔法士は杖を手放さない。杖にあしらわれた魔法石は、魔法を行使すると発生する老廃物、〈ブロット〉を肩代わりさせるのに必要で、なければ最悪命に関わる。
どうせ魔法なんか使わないのに。そう思いながらも手放すことができないのは、未練があるからだ。
(もしも、できるなら……)
また、魔法士としての自分に戻りたい。杖を振り、空を飛び、誰かのために、そして自分のために魔法を使いたい。
いつか捨て去った夢が洪水の如く押し寄せてくる。こんな筈ではなかった。こんな苦しい感情を思い出す筈ではなかったのだ。向いていなかったのだと蓋をして奥底に仕舞っていたのに、この期に及んで溢れ出してしまうなんて。
それを止める術などなく、ヒトハは片腕を目元に押し当てて、堪えるようにそっと目を閉じた。
気が付けば、時計の針は一時間後を指している。
少しずつ靄がかかった頭が晴れて、いつもの調子が戻ってきた頃、ヒトハはむくりと起き上がった。ぐう、と情けない音が鳴る。思えば、帰宅してから何も食べていない。
とぼとぼと冷蔵庫に歩み寄って開いたが、料理不精な性格が祟って中は空っぽだ。元気があれば買い出しにでも行くところだが、今日ばかりはそんな気も起きない。
ヒトハは仕方なく冷蔵庫の隅から缶を取り出した。どこにでもある安酒は冷蔵庫の隅っこにいつも買い溜めてある。
それを片手にとぼとぼと戻り、テレビを点ける。スピーカーから前触れもなくワッと歓声が飛び出してきて、ヒトハはびくりと肩を跳ねさせた。
マジフトの試合だ。魔法士養成学校の名門、ナイトレイブンカレッジ出身の選手が点を決めて、陽気な解説者が称賛の言葉を捲し立てている。そういえば今日は帰ったらこの試合を観るつもりだったのだ。それを思い出して、ヒトハはそのまま腰を下ろした。到底楽しめる気はしなかったが、無音の空間よりはずっといい。
(報告、しなきゃかなぁ)
そしてヒトハは離れて暮らす両親の顔を思い浮かべながら、スマホを手に取った。
全寮制の魔法士養成学校を出た後も親元を離れていたせいか、両親はよくヒトハのことを気にかけた。だからこそ突然「無職になった」なんて言い出して、心配をかけるのは憚られる。せめて次の仕事を決めてからがいい。
画面の上を彷徨った親指は、結局通話のボタンを押す寸前で踏み留まった。
「……仕事、探そ」
収入が変わらず、休みがちゃんとあって、環境が良くて、そこそこ納得できる仕事内容で、できれば勤務地は引っ越さずに済む場所がいい。
そんなことを考えながら黙々と缶を開けていったのが、これから起こる全てのことの始まりだった。
***
「あれ……?」
ヒトハはテーブルに伏した両腕をのろのろと動かした。肘がぶつかって何かを吹っ飛ばし、寝起きの頭に軽い缶が弾む音が響く。眉をひそめながら周囲を見渡すと、テーブルにスマホといくつかの空き缶が散らかっていた。いつのまにかマジフトの試合は朝の天気予報に代わっていて、「今日はお出かけ日和の晴天です」と綺麗なお天気お姉さんが声を弾ませている。
ヒトハはというと、強烈な頭痛を抱えた最悪の寝覚めである。スマホのホーム画面で時間を確認して、深々とため息をついたのだった。
「やっちゃったぁ……」
何かに疲れて酒に逃げるといつもこれだ。前後不覚になり、そのくせ大胆になる。
水でも飲もうか、と重い腰を上げようとしたところで、急にスマホの着信音が鳴った。覚め切っていない頭にけたたましい電子音は耐えがたく、気怠くスマホを拾い上げ、通知を確認しないまま通話ボタンを押す。
「もしもし、ナガツキです。――――はい?」
そして、ヒトハは昨日の自分に驚愕した。
思考が追い付かないまま相手の言うことを聞いては「はぁ、はい」とだけ相槌を繰り返す。
詐欺だろうか。それにしてはあまりに話がよく出来過ぎている。しかし事務的で丁寧な口調は信頼のおけるものだった。それが逆に疑わしいとも言えるのだが。
ヒトハは再三内容を確認してようやく通話を切ると、スマホの画面を見ながら声を絞り出したのだった。
「やっ……やっちゃった……!」
生まれてこのかた二十数年、酒で失敗は多々あれど、これほどまでの酷い失敗はなかった。いや、これは成功とも言えるのだろうか。
まさか――まさか泥酔中、かの名門魔法士養成学校ナイトレイブンカレッジの事務員に応募した上に面接に呼ばれるなど、誰が予想できただろうか。真相を知るのは酔いに酔った昨日の自分だけである。
昨晩のマジフトでナイトレイブンカレッジ出身の選手が出ていたせいかもしれない。そうでなければ、たとえ思い立って求人に応募したとしても、無難に地元の企業を選んでいたはずだ。
なにせヒトハは、ナイトレイブンカレッジがどこにあるのかすら知らなかった。
それから数日後、ヒトハは履歴書を握りしめて一生に一度も関わることがないはずだった学園に来ていた。
ここはナイトレイブンカレッジの鏡の間。その名の通り、薄暗い室内には古めかしい装飾で縁取られた大きな魔法の鏡が一枚据えられている。そして周囲には人ひとりがすっぽり入るほどの大きな箱、棺桶が浮かんでいた。
魔法士でなければ、その怪しげな光景に一瞬でも恐れを抱いたことだろう。しかしヒトハはこの学園に来た瞬間、言葉にしようのない安堵を覚えた。そもそも魔法というのは神秘の力であり、一方で怪しさを孕んでいる力でもある。この部屋の空気は魔法士であるヒトハには馴染み深く、そして懐かしさすら感じるものだった。
「最初はみんな驚くんです」
呆然と鏡を見上げるヒトハに、案内役だという職員は小さく笑った。
「ええ、とても驚きました。――こんなに簡単に来れるなんて」
ヒトハはその職員に振り返りながら、興奮気味に答えた。
ヒトハの住む極東の国から、このナイトレイブンカレッジへの道のりは決して近くはない。学園のある賢者の島は、公共交通機関の乗り継ぎを繰り返してやっとたどり着く島である。
しかし今回は仕事の面接ということもあり、移動はこの魔法の鏡を使ったものだった。遠く離れた地に一瞬で移動できる魔法の鏡は、同じ魔法士養成学校である母校でも見たことがない。恐らく、とても貴重な物なのだろう。
さすがは名門校。噂では優秀な魔法士の資質を持つ男子のみに馬車で迎えが来るのだというが、それもまた夢のような話である。そんな一握りの魔法士のためだけに存在しているような場所に来ることになるなんて、極東の平凡な田舎者には身に余ることだった。
「こちらでお待ちください」
職員に案内された応接室は、鏡の間ほどではないにしても重厚感のある内装に統一されている部屋だった。移動中もつくづく感じたことだが、どうやらこの学園の校舎はずいぶんと歴史のある建物らしい。壁や天井、燭台や扉に至るまで所どころに見られる意匠は、古いながらも丁寧な手入れが施されている。もはや観光地にでも来た気分だ。
――ええ!? なんですって!?
ヒトハが応接室にある高級そうな皮張りのソファの前で、座るべきか座らないべきかで頭を悩ませていると、突然そんな騒がしい声が扉の向こうから聞こえてきた。続けて勢いのあるノック音が響く。ヒトハは慌てて爪先を揃え、ジャケットの裾を落ち着きなく撫でながら、その人を迎え入れた。
「どうも、はじめまして。学園長のディア・クロウリーです」
「ヒトハ・ナガツキです。本日はよろしくお願いします」
学園長と名乗った仮面の男性は、カラスのような羽をあしらったマントをはためかせて足早にやって来ると、片手を差し出した。
慌てて握った手に、彼のかぎ爪のような硬い指先が触る。襟元まで黒と深い青を基調にしている服装といい、なんだかとてもミステリアスな人だ。このナイトレイブンカレッジの学園長を名乗っているからには、相当な実力者には違いないだろうけれど。
ヒトハの緊張を悟ったのか、彼はパッと手を離すと砕けた口調で言った。
「なにも取って食おうってわけじゃあないんですから、そんなに緊張しなくても。どうぞこちらへ」
「は、はぁ……」
ヒトハは途中ちょっとテーブルに足を引っ掛けながらも、先ほどのソファに身を沈めた。これは想像以上の柔らかさである。
学園長は早速といった様子で履歴書を一通り眺め、「ふむ」と一言だけ漏らした。
「いやぁ、実は残念なことにちょうど昨日、事務員の枠が埋まってしまいまして……」
「え!?」
ヒトハは面接中であることも忘れて大声で聞き返した。
きっかけは口が裂けても言えない最低なものだが、こっちだってそれなりの期待をして来たのだ。面接の結果として選ばれなかったならまだしも、それ以前の問題ではあまりにも悔しい。
ヒトハは目に見えて萎れていったが、学園長は「ですが!」と明るく声を弾ませる。
「ひとついい枠があるので、ぜひ検討していただけないかと!」
「……いい枠、ですか」
彼はテーブルに手を突いて、グッと身を乗り出した。仮面の先が目の前に迫って、ヒトハは思わず顎を引く。
「ええ、それはもう! 休暇も事務員より柔軟に取れますし、給与も同等を保証しましょう。学園内に住む場所もご用意できますし、学食を利用すれば食費はほとんどかかりません! どうです? いい条件でしょう?」
「え、ええ……とても……」
ヒトハは気圧されながら、ぎこちなく頷いた。
胡散臭い営業の売り文句のように話すが、よくよく聞くと悪い話でもない。食と住が保証されていて休暇も取りやすく、給与も希望通りとなるならば、願ってもない条件だ。それにここは由緒正しい魔法士養成学校、ナイトレイブンカレッジ。まさか詐欺を働こうなんてこともないだろうし、突然首を切られて露頭に迷うこともないだろう。
「そうでしょう、そうでしょう。ではこちらの雇用契約書にサインを」
「はぁ」
まだ働くとも言っていないのに、とヒトハはぼんやりと思いながらも頷いた。これは魔法に関わる仕事に就く千載一遇のチャンスである。たしかに身に余る職場ではあるが、結局選んだのは学園で、気負う必要だってないのだ。
学園長がパチン、と指を鳴らしたかと思うと、ヒトハの前に契約書と羽ペンが滑り込んでくる。細かな字で色々と書かれているが、内容はよくある雇用契約書とほとんど同じで際立ったことはない。
とにかく、彼は好条件のポジションを用意すると言うのだ。先の予定もないし、この職場なら両親への報告も気持ちよく行えるだろう。なにより、世界屈指の魔法士養成学校で働くことができる。ヒトハには、それが一番重要なことに思えた。
覚束ない手つきで羽ペンを手に取り、名前を書き終えると、確認する間もなくサッと取り上げられる。
学園長はサインを確認して満足そうに頷いてから、契約書に魔法をかけた。契約の魔法か何かだろうか。いずれにせよ、これで後戻りはできない。
「細かい規則などは後ほどお話しするとして、希望であれば明日から働けるように手配しますが、どうします?」
「えーっと、それはありがたいんですが、引っ越しとかもあるので……」
散らかしたままの自宅を思い出しながら、ヒトハは言葉を濁した。これから荷造りをして、業者を呼んでとやる事は山積みだ。憂鬱な気分で答えたが、学園長から返ってきたのは意外な言葉だった。
「ええ、ええ、分かります。それならお気になさらず。最低限の必要な物は全部備わっていますから」
「えっ、全部ですか?」
「もちろんです。まぁ、住み込み用の設備は最初からあるので、大したことではないんですがね」
「は、はぁ……」
ヒトハは呆然としたまま答えた。突然のことに頭が追い付かない。今日はこんなことばかりだ。学園長といえば「では決まりですね」と人の話を聞いてるのか聞いていないのか、嬉々とした様子である。
「いやぁ、助かりました。ではこれ、あなたの制服です」
「制服?」
視線を落とすと、いつの間にか真新しい服が差し出されている。あまりの手際の良さに驚いて、ヒトハは弾かれたように顔を上げた。まるで最初からこうするつもりで用意していたみたいではないか。
「明日から清掃員として、よろしくお願いしますね」
「せ、清掃?」
そこでようやくヒトハは正気に戻って、握りしめたままだった羽ペンをぽろりと落としたのだった。
(清掃……清掃……掃除係ってこと!?)
清掃員。学園のお掃除係。まったく経験したことがない上に、体力勝負でもある職業だ。デスクワーク中心の社会人生活で体力などとうの昔に捨て去ってしまったし、それに掃除を得意だと思ったことは人生で一度もない。とっ散らかったままの自室を見れば、誰だって納得するだろう。明らかに人選ミスだ。
しかし契約は結ばれていて、契約書は学園長の手の内にある。
額にじわりと冷たい汗が滲む。
(やっ……やってしまった…………!)
こうしてヒトハ・ナガツキは、極東の平凡な会社から、賢者の島にある名門魔法士養成学校ナイトレイブンカレッジに、うっかり就職を果たしたのだった。
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