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朝の習慣
「右上の棚の左上」
彼がカウンターキッチンの向こうでネクタイを締めながら急に呪文のようなことを言うので、ヒトハは思わず手にしたドリップポットの口を上に傾けた。フィルターの中で膨らんだ泡がじわりと萎み、芳ばしい香りがいっそう強くなる。
どういうことか聞き出そうにも、彼はベストを椅子の背凭れから取り上げ、袖を通す最中だ。赤いボタンが革手袋だとうまく留められなかったのか、小さく舌打ちが聞こえてくる。
ヒトハは仕方なく後ろにある棚の右上を仰ぎ見た。ポットを置き、両開きの戸に指をかけ、外に開く。生活感のある雑貨が並ぶ中、左上の隅の隅に琥珀色の小瓶を見つけた。もしかして、あれだろうか。
うんと爪先に力を入れて背を伸ばす。どうしてこんな高いところに置いた物を取らせようとするのだろう。彼は少し意地悪ではないだろうか。
ちょっと息をついてもう一度背伸びをしたとき、頭の後ろからぬっと黒い腕が伸びてきた。野ざらしの筋張った手が、ひょいと小瓶を取り上げる。そのとき、ヒトハは視界の脇で真っ赤なネクタイが少しだけ歪んでいるのに気がついた。くるりと棚と胴の間で体を反転させて親切にネクタイを絞ってやると、「締めすぎだ」と苛立った声が降ってくる。でも、こっちのほうがすっきりと見えるはずなのだ。きっと。
ほどなくして目の前にぶら下げられた琥珀色の瓶を受け取って、ヒトハは首を傾げた。
「あら先生、蜂蜜を入れるのが好きってご存じで?」
「お前のことはなんでもお見通しだ」
と、彼は得意げに言った。そしてテーブルに放った手袋を取りに、さっさと戻ってしまう。
「先生も蜂蜜入れますか?」
「いらん」
なんともすげない答えだ。美味しいのに、とこぼしている間に、放置していた珈琲の存在を思い出した。寂しく取り残されたサーバーには、目盛りぴったりに雫が落ちきっている。今日も今日とて完璧だ。
彼は「お前は俺の家を都合のいいカフェ代わりにしている」と言うが、それは半分当たりだった。この家に来ると、特別美味しい珈琲が飲める。
それを二つのカップに注ぎ、片方に蜂蜜をひと匙垂らす。ほんの一瞬強く香った甘さは、すぐに苦さに掻き消されてしまう。
ヒトハはテーブルにひとつカップを置いて、向かいに腰を下ろした。丸い持ち手に赤い指先が引っかかるのを眺めながら、手元のカップをゆっくり持ち上げる。ほろ苦さに溶け込む、ほんの少しの甘味が優しい。
先ほど彼は「なんでもお見通し」と言っていたが、恐らくそれは間違いである。こうして出勤前にわざわざ家に押し掛けて一杯淹れる本当の理由を、きっと、ご存じではないのだ。
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