short
雨の日の話
「なんだ、それは」
ヒトハは片手に持った──正確に言うと、両手に持った傘のうち閉じられた方を少しだけ持ち上げて「傘ですが」と答えた。
「〈雨除けの魔法〉があるだろう」
クルーウェルはそう言って呆れた。
しとしとと雨の降る放課後に泥の水たまりを越え、滑る石畳を越えてわざわざ魔法薬学室にやって来たのに、彼は魔法があるから傘はいらないと言う。雨が降る前に見かけた姿は手ぶらだったから、これが必要だと思っていたのだが。それもどうやら杞憂だったらしい。
魔法というのは本当に便利で、魔法士は生活で不便なことの大半を魔法で何とかしてしまう。この雨だって魔法さえあれば何ということもない。
──ただし、ヒトハのような魔力の乏しい者を除いて。
「知らないのか?」
「いえ、私はその魔法は使わないので。余計なお世話でしたね」
ヒトハは肩をすくめた。
長時間魔力を使う魔法はヒトハにとって実用性に欠ける。あれが使えれば横から吹き込む雨で肩を濡らすことも、制服の裾を濡らすこともないのだが、使わないのだから忘れてしまっても仕方がない。
クルーウェルは「たまにはいいか」と呟くと、傘を渡すように手を差し出した。
「傘の使い方、分かるんですね」
「……それは嫌味か?」
そして黒の味気ない傘を受け取って、柄を両手に持ちグッと力を込める。
「ん?」
傘は勢いよく開くかと思われたが、何かが引っかかったように五分程度から先に開かない。クルーウェルは眉を顰めて「壊れた物を持ってくるな」と更に呆れた。傘の骨が一本曲がっていて開き切れないのだ。
ヒトハはとんだ不良品を掴まされた、とニコニコ顔の先輩を思い出した。思えばゴーストの彼も傘を使うことがないのだから、それも仕方のないことなのだろう。もしかしたら、この学園に傘は不要なのかもしれない。
「踏んだり蹴ったりですね」
雨脚は次第に強まっていて、せっかく労力を使ってここまで来たのに持って来た傘も使わないのでは大損だ。まさに踏んだり蹴ったりである。
クルーウェルはため息をついて壊れた傘を入口に立てかけ、突然上着を脱いだかと思うと、それをヒトハに押し付けた。
「〈雨除けの魔法〉はなにも頭のてっぺんからかける必要はない。丁度いい。やり方を見せてやろう」
そう言ってヒトハが差している方の傘をやんわりと奪い取り、指揮棒を手に取る。
「傘があるのなら、体の外に面している部分だけ効くようにしてやれば魔力消費は最小限で済む。お前の肩も裾も余計に濡れずに済むというわけだ。分かるな?」
「はい」
「お前なら影響範囲の調節くらいは容易だろう。そのコートはしっかり持ってろよ。クリーニング代が高くつく」
クルーウェルは〈雨除けの魔法〉の簡単な呪文と杖の一振りで自分とヒトハに魔法をかけると雨の中に一歩踏み出した。
(傘の端、少し内側から体に沿う形で膜を張るように……)
少し気を遣うけど無理ではないな、と思いながら観察をしていると「カム」と命令が飛んでくる。気が付けば二歩ほど遅れていて、これでは魔法の意味がない。大事なコートも雨に濡れてしまう。
ヒトハは慌てて傘の空いた片側に飛び込んで、ぎゅうと内側に寄った。片側の肩が触れてじんわりと温かい。
これは何だったか。よく少女漫画とかで読んだものだけれど。
「ああ、これ、相合傘ってやつですね」
クルーウェルが「なんだそれは」と訝しげに問う。
「えっと、好きな子と一緒に一本の傘に入ってドキドキ? みたいな感じです」
「なんだそれは……」
極東文化はよく分からんな、とぼやくクルーウェルの顔を見上げ、その近さに慌てて視線を落とす。急に黙り込んだヒトハを、彼は鼻で笑った。
「浮かれるのは良いが、せっかく教えてやってるんだからしっかり覚えて帰れよ」
「うっ、浮かれてないです。もう──くしゅっ」
ヒトハはくしゃみをして体を小さく震わせた。
雨が降り始めて時間が経ったせいか空気が冷えて、行きがけに濡らした足元から寒さを感じ始めている。
もう春になってしばらく経つが、気候はまだ冬と行き来するように切り替わる。季節の変わり目は風邪をひきやすいから気を付けなければならない。
「戻ったら温かい物でも入れるか」
「ですねぇ」
ヒトハはしみじみ答えながら、暖を取るように身を寄せた。
歩きにくい、と文句を言われるのを聞き流し、泥の水たまりを越え、滑る石畳を越える。雨除けの魔法は便利で、もう体を濡らすことはない。
冷える体に少しばかりの温かさを感じながら、ヒトハは戻ったら砂糖をうんと入れたホットミルクでも作ろうかと一つ楽しみを見つけて微笑んだ。
しとしとと雨の降る放課後に、案外あのいらない傘も役に立ったものである。
※コメントは最大10000文字、5回まで送信できます