清掃員さんとバルガスCAMP!(1/5)
01
「──もう! いい加減にしてください!!」
慌ただしく鳥が羽ばたき、昼寝をしていたルチウスは跳びあがって逃げていった。たまたま居合わせた生徒たちは普段聞くことのない激しい声に、興味深い視線を向けながらもそそくさとその場を去っていく。
昼休み、中庭の片隅で飼い犬の思わぬ反抗に面食らったクルーウェルは、一瞬だけ怯みかけながらもすぐに気を取り直すと「それをお前が言うのか?」と静かにヒトハを問い詰めた。
普段であればそこで矛を収めたかもしれない。けれど今日ばかりは、いや、今日こそは一歩も引き下がらないと今このとき、決めたのだ。
「先生が私のことを心配してくれてるのは分かります! でも、もう我慢の限界です!」
ヒトハはぐっと下唇を噛んでクルーウェルを睨み上げた。
「私にだって事情があるんです! 今回の喧嘩の仲裁だって周りに人がいなかったからだし、危ないの分かってるけど、でもそれは生徒たちだって同じです! それにこの前魔法薬学室の薬品を溢しちゃったのだって結局生徒たちの悪戯にあったからで、私のせいじゃなかったじゃないですか! それなのに毎回毎回頭ごなしに『駄犬』とか『躾のなっていない野良犬』だとか……まずは私の話をちゃんと聞いてください!」
ヒトハは一息に言い切って荒く息を整えると、反撃が来る前に次の言葉を叩きつけた。
「もう、知りません! 先生の馬鹿! 一生従順な犬だけ躾けてればいいんですよ!」
この捨て台詞は完全な腹いせだったが。
ヒトハはクルーウェルの顔を見ることなく踵を返した。鼻の奥がツンとして痛む。もう何も考えられなくて、頭が真っ白だ。
──どうしてこんなことを言わなければならないのだろう。
押し寄せる苛立ちと後悔の波にのまれながら、ヒトハはひたすらに走った。日々誤魔化してきたものが積み重なって、もういっぱいいっぱいだ。溢れた感情が行き場を失い、ついに言葉になってしまった。
ヒトハにとってクルーウェルは恩人で、よく世話を焼いてくれる人だ。尊敬しているし、頼りにしている。困ったことがあればいつだって助けになりたい。だからといって彼の一切を黙って受け入れられるかというと、そうでもない。自分も人間で、心があるから我慢ならないことの一つや二つくらいはある。
(嫌われちゃったかな……)
それでも、あれだけの啖呵を切っておきながら嫌われたいわけではなかった。分かって欲しいのだ。どうにもならないことを理解して欲しい。自分が嫌だと思うことを知って欲しい。我慢ならないことを聴いて欲しい。けれどそれを冷静に主張できるほど器用でもなければ、我慢強いわけでもなかった。
その結果、随分と子供っぽいことをしてしまった。しかもみっともなく声を荒げて。感情の波が引いたとき、取り残されたのはじっとりと後を引く後悔だ。
(言わなきゃよかった……。でも先生、いつも言い方キツいし、私だって、嫌だし……)
優しく伝えようとしたところで一つ打てば百で返してくるような男である。些細な口喧嘩だって結局はいつも言いくるめられてしまうのだから、感情を込めなければ伝えたいこともきっと伝わらない。
ヒトハは急下降を続ける思考を振り払って、さっさと午後の仕事に向かおうと校舎の角を曲がった。
「うっぷ」
「おっと」
すると突然鼻先を何かにぶつけて、ヒトハは後退するように数歩よろけた。足がもつれて体が傾く。それをぶつかった何か──バルガスが慌てて腕を掴んで引き留めた。
「すまない! 大丈夫か?」
「え、ええ。ぼうっとしちゃってて……すみません……」
バルガスはどこか声が気落ちしたままのヒトハを見て、後ろに流した髪を掻いた。
「どうした、そんな顔をして。悲しいことでもあったのか?」
ヒトハは心配そうにするバルガスの顔を仰ぎ見た。普段は「濃すぎる」とすら思う顔つきが、今は誰よりも頼もしく見える。
ヒトハにとってバルガスは話の合う友人で、困った時の相談役だ。解決方法が根性論か筋肉に偏るのはいまだに納得のいかないところだが、それでも頼もしいことに違いない。
「実は、さっきクルーウェル先生と喧嘩をしちゃって」
というよりは一方的に怒って走り去っただけだったりするのだが。もしかしたら今まさにクルーウェルは腹を立てているかもしれないから、喧嘩と言ってもいいのかもしれない。そういうことにして、ヒトハはバルガスに先ほどの出来事を語った。
始まりはこの血の気の多いナイトレイブンカレッジ生のいつもの喧嘩。他の同年代の子供たちに比べてすぐに手が出るのは彼らの特徴で、悪い癖である。もはや校風と言ってもいい。
そしてヒトハは今日、その一触即発の現場を目撃した。時間を問わず校内中を歩き回るせいで、その場面に遭遇する機会が他の職員に比べて格段に多いのだ。
ほとんどの場合、彼らは大人が見ていないところで勝手に戦い勝手に怪我をしてしまうわけだが、見てしまったからには咎めなければならない。それがこの学園に勤める大人の義務で、仕事の一つである。だから今回も咎めたのだ。クルーウェルから言いつけられているように、「先生を呼びますよ」と。
「で、当然ながら生徒たちは聞く耳持たずで周りに大人もいなかったので、仕方なく割り込みました」
「うーむ、お前はたまにとんでもない度胸を発揮するな。で、どうなったんだ?」
「それは、その、いつも通りです」
いつも通り、というのは何かしらの手を使って喧嘩をしている生徒たちを無力化したということである。ときに杖を奪い、ときに浮遊魔法を使って縛り上げ、魔法士養成学校に通った先輩として可能な限り安全で丁寧な魔法を行使する。多少“卑怯”などと謂れのないことを言われることもあるが、それも仕方のないことだ。
しかしこれは魔力量の問題を抱えるヒトハにはリスクの高いことだった。だからクルーウェルはヒトハにそれを「するな」と言う。彼は危ない橋を渡ろうとするのをやめさせたがり、しかし一方でヒトハは生徒たちの安全を守りたかった。攻撃魔法は扱いによっては非常に危険で、半人前の魔法士が無暗に振り翳していいものではないからだ。
バルガスはヒトハの話を聴くと、大口を開けて「クルーウェル先生も苦労するな!」と笑った。
「『生徒の喧嘩に割り込むな』って言われてたのに言いつけを守らなかった私が悪いので、それはいいんですけど……」
いつものことか、と楽観視するバルガスを横目にヒトハは小さく息をついた。
クルーウェルが心配してくれているのは理解している。どこか威圧的で調教じみた物言いをするが、今更言葉の意味を読み間違えることはない。ヒトハにとってどうしても嫌なのは、そこではなかった。
「先生、怒ったら私の話を全然聞いてくれなくて。ちょっとくらい私の状況を聞いて理解してくれたっていいじゃないですか。なのに駄犬駄犬って、人間扱いもしてくれないし」
「クルーウェル先生はいい先生だが、少し威圧的なところがあるからなぁ」
「そうなんですよね。それでつい、怒っちゃったんです」
馬鹿って言っちゃった、と肩を落とすヒトハを見て、バルガスは逞しい眉をひょいと上げた。
「なんだ、その程度ならクルーウェル先生もそんなに気にしてないだろう。どっちもどっちだ。話し合えば解決する! 間違いない!」
「うっ、それは分かるんですけど……なんか、ついさっきのことだし、まだ私の気持ちが整ってないというか、なんというか」
バルガスのアドバイスは至極真っ当なことだった。これからも一緒に居たいと思うなら、やはり話し合いが一番の解決方法なのだろう。しかし喧嘩をしてしまったのはつい先ほどのことで、今すぐにというにはあまりにも抵抗があった。
それにバルガスのアドバイスに筋肉が絡まないというのも、どうにも調子が悪い。彼がいつものように無茶な解決方法で笑い飛ばしてくれることを期待していたからかもしれない。
なおも悩ましげにしているヒトハを見下ろして、バルガスは何か閃いたように顎を摩った。
「そうだ。一ついい解決方法があるぞ」
「解決方法?」
そして両腕を大胸筋の前で組むと、彼は力強く言い放ったのだった。
「──筋肉だ! 筋肉はすべてを解決する!」
心なしか胸の前で上腕二頭筋が存在を主張している気がする。これはいつものナルシストなアシュトン・バルガスだ。けれど、どこかいつもと様子が違う。
ヒトハはバルガスに一抹の不安を覚えた。いつもならもう少しハッキリとした物言いをするものだが、どこか勿体ぶった言い方なのだ。
バルガスは訝しげにしているヒトハの両肩に手を置いて、爛々とコバルトブルーの瞳を輝かせた。
「適度な運動、筋トレ──そして豊かな自然で心を癒してストレス解消! 体を動かしてリフレッシュすれば、もう一度クルーウェル先生と向き合えるようになるはずだな?」
「は? ん? し、自然……?」
ヒトハは胸の前で手のひらをぎゅっと握り締めた。両肩に置かれたバルガスの手はびくともしないし、がっちりと掴まれているせいで逃げられない。背に冷や汗を滲ませて、ヒトハはバルガスを見上げるしかなかった。とても嫌な予感がする。
バルガスはそんなヒトハに言い聞かせるように、ゆっくりと口を開いた。
「つまり、お前に今必要なのは──キャンプだ」
「えっ?」
ヒトハは想定外すぎる単語を聞いた気がして、思わず聞き返した。肩に置かれた手に力が入る。
「キャンプに参加しろ、ヒトハ!!!!」
「え……えぇ──っ!?」
和やかな気候の午後、中庭から逃げ出してきたルチウスが煩そうな目を向けて走り去っていく。再び校内に響いたヒトハの叫びは、隅々まで反響して消えていった。
これがかの運動部参加必須の合宿〈バルガスキャンプ〉が始まる、一週間前の出来事である。
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