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くだらない噂の話

「ヒトハさん、実家に帰っちゃうんだって」
「そういえばこの前、結婚がどうのって言ってたな」

 そんな風には見えなかったけどなぁ。
 人生何があるかわかんないなぁ。
 などという話を小耳に挟みながら、クルーウェルは次の教室へ向かっていた。
 くだらない噂だ。根も葉もなく、あまりに突拍子もない。
 彼女は生徒と距離が近すぎるせいで変なことに巻き込まれやすい。前回など本人の知らぬところで賭け事の対象になっていたし、いつかは悪戯を仕掛けられて腹を立てていた。
 今回の件も突き詰めてしまえば自業自得ではあるが──しかし、さすがにこの噂は不憫に思えた。学園を去るなどという話は、一歩間違えたら冗談では済まされない。
 今更訂正するのも難しいだろうが、見かけたら伝えておいてやるか。と思いながら、クルーウェルは教室の扉に手をかけた。

「仔犬ども、躾の時間だ」

 教室中が静まり返り、ひとりの真面目な生徒が手を挙げる。

「……先生、次は魔法史の授業なんですけど」
 

 “火の無い所に煙は立たぬ”という。
 その言葉の通り、噂が立つには何か原因となることがあるはずだ。それは噂のままの事実であったり、噂として誇張される前の些細なことだったり、噂とはまったく異なる事実だったということもあるだろう。

(まさかな)

 よりによって、あの女が自分に断りもなくいなくなろうなどと、あっていいはずがない。クルーウェルは魔力を込めすぎたマンドラゴラを縊りながら、今朝の噂を思い出していた。
 考えれば考えるほどあり得ない話だ。大体、彼女の結婚との縁遠さといったら、この賢者の島から極東の島への道のりより遥かに遠い。あの初心の塊のような顔をした酒好きの面倒臭い女に、男の影が一度だってあっただろうか。いや、ない。

「先生、さっきの授業で分からないところが……」
「どこだ?」

 振り返ると生徒は手元のマンドラゴラに視線を落とし、教科書をきゅっと握って「いえ、なんでもないです……」と口走った。 

(まったく忌々しい)

 クルーウェルはこの噂に対して、どちらかといえば否定的だった。
 そもそも根拠もなければ信憑性もなく、なにより彼女はこの手の大事な話で自分を欺くはずがない。
 ただ少し、ほんの少し服に付いてしまった染みのように、一度小さな疑いが胸に巣食ってしまったら、どうしても気になってしまうのだ。

(…………探すか)

 ようやく自分が酷く動揺しているのだと認めたのは昼休みの後半で、クルーウェルは渋々冷め切ったコーヒーを片付けて、席を立った。

 この時間帯、彼女は食堂もしくは中庭で過ごしていることを知っている。昼食を共にすることはないが、見かければ自然と覚えているものだ。
 しかし今日に限っては、その姿が見当たらなかった。このところ気に入っているらしい中庭のベンチは空っぽで、親しい生徒たちの姿もない。普段なら気にも留めないくせに、肝心なときに姿が見えないというのは、酷くもどかしい。
 クルーウェルは難しい顔をしたまま踵を返し、生徒たちが行き交う廊下を突き進んだ。心なしか速い歩調に、生徒は自然と道を空けては追うような視線を寄越す。
 今日は調子が悪い。それは自分でもよく分かっていることだった。根も葉もない噂に振り回されるのは自分らしくなく、できることなら忘れてしまいたい。
 ただ、気がついてしまったのだ。当たり前にそこにいることを当たり前に思いすぎて忘れていた。彼女がその気になれば、どこへでも去って行けるということを。

(『明日帰る』とか急に言い出しそうだからな……)

 やると決めたときの覚悟と行動力は目を見張るものがあるが、こういうときばかりは、余計な長所だった。

***

「今日のクルーウェル先生、かなり機嫌が悪いらしい」
「近づいたら課題を増やされるぞ」

 ヒトハはそんな噂話を聞きながら、黙々と窓を磨いていた。ナイトレイブンカレッジの窓は造りが古いせいか、縁の隙間まで丁寧に拭わなければならない。それでも充分過ぎるほどに綺麗に保たれているのだから、やはり先輩たちの仕事は見事なものである。
 それにしても、だ。
 ヒトハは先ほど聞いた生徒たちの噂を思い出しながら、額に張り付いた髪を手の甲で拭った。

(さすがに近づいただけで課題を増やしたりはしないと思うけど……)

 生徒たちの噂話程度では、それが真実かどうかは分からない。デイヴィス・クルーウェルという男は確かに言い方に嫌味なところがあるし、生徒に無理難題を課すような厳しい教師だが、誰それ構わず嫌がらせをするようなことはしない。何か原因があって、きっとそれが誇張されているだけなのだろう。教師というのは、いつの時代も生徒の格好の餌食になるものだ。

(大丈夫かな、先生)

 そんなことを考えていると制服のポケットから振動を感じて、ヒトハはスマホを取り出した。
 通知の内容にさっと目を落とし、小さくため息をつく。そして雑巾をバケツに放り込んで、次の掃除場所へ向かったのだった。
 

 清掃員の仕事は、最終授業の後もしばらく続く。次の日の授業を清潔で整った環境の中で受けられるように、全室見て回るのだ。
 今日の当番は錬金術の実験室で、ヒトハは清掃用の箒を手に重い扉を押し開けた。

「あら、先生?」

 思わぬ先客に、ヒトハは目をまばたいた。そしてクルーウェルもまた、ヒトハが現れたことに驚いて教本から顔を上げた。しかも、いつもであれば「勝手に掃除して良い」とでも言って放置を決め込むのに、今日に限っては「どうした?」と問いかけてくる。なんだかよそよそしさすら感じて、ヒトハは首を傾げた。

「えっと、仕事で……。掃除、してもいいですか?」
「あ、ああ。構わない」

 ヒトハの問いに、クルーウェルはぎこちなく頷いた。やはり今日は少し様子がおかしいようだ。
 床に箒を滑らせ埃を魔法で掻き集めながら、ヒトハは今日聞いた噂話を思い出して、そのことを思い切って聞いてみることにした。

「そういえば、生徒たちが『今日のクルーウェル先生は機嫌が悪い』『近づいたら課題を増やされる』って言ってましたよ。先生、一体何があったんです?」

 はたと顔を上げて眉をひそめると、彼は「なんだそれは」と不機嫌に言った。

「さすがに近寄っただけで課題を増やしたりはしない」
「ですよね。でもほら、“火の無いところに煙は立たぬ”と言いますし。何か嫌なことでもあったんじゃないかと……」

 ヒトハはそれを純粋に心配して言ったのだが、言い方が悪かったからか何なのか、彼の眉間に寄った皺は、さらに深く刻み込まれることになったのだった。

(あれ?)

 クルーウェルは重く長い沈黙の間、珍しく深刻そうな顔をしていた。酷い回答用紙を見ているときだって、こんな顔はしない。

(これはそっとしておいたほうがいいかも)

 つつけば不満の一つや二つはこぼしてもらえる関係になったとはいえ、未だにどれだけ踏み込んでいいかは手探りだ。それに教師という仕事の苦労を、ヒトハは知らない。自分には理解できない悩みがあるのも当然のことだろう。

「えっと、余計なことを言ってごめんなさい。また後で来るので、お仕事頑張ってくださいね」

 ヒトハはしゅんと肩を落として箒を抱え直すと、逃げるように教室の扉へ向かった。やはり他人の悩みを聴こうだなんて、無理をするものではなかったのだ。

「ナガツキ」

 すると突然、呼び声と共にぐっと片腕を引っ張られ、踏み出した足が床を滑った。
 半ば無理やり引き止められ、訝しみながらも見上げた先に、普段なら絶対に見ない表情を見て固まる。

「は……」

 彼の整った眉は下がり、口元は何か言いたげにしながら躊躇っていた。いつも他人を犬呼ばわりするくせに、今日ほど“濡れそぼった仔犬”を連想させる姿は見たことがない。
 あの向かうところ敵なし、敵がいても躾ける、この俺に躾けられない犬などいない男が一体全体どうしてしまったのだろう。
 ヒトハはクルーウェルの珍しくしおらしい姿に、ほんの一瞬「かわいい」と感じて、その思考を慌てて振り払った。どうして自分より頭ひとつ分大きく、他人を服従させることにやり甲斐を感じているような男のことを可愛いなどと思うだろうか。顔のいい男は何をしても様になるからずるい。

「そんなに酷い目にあったんですか……?」
「違う」

 ヒトハの問いにクルーウェルはきっぱりと答えると、ややあって「なにか俺に隠していることはないか」と絞り出すように問い返したのだった。

「隠してること?」

 ヒトハはハッとした。
 まさか授業の合間に掃除に入ったとき、ハンガーラックにあった彼のコートをうっかり落としてしまったことがバレてしまったのだろうか。やっぱり手で叩くには限界が──と、ハラハラとしながらやらかした事を一つ二つと言わず三つほど思い浮かべていると、クルーウェルは次第に苛立ってきたのか、コツコツと靴先で床を叩き始めた。

「例えば、故郷に戻る予定とか」
「……へ?」

 ヒトハはその例えに、間抜けな声を上げて目をまばたいた。

「故郷? 極東ですか? 今のところ連休にも帰る予定はないですけど……」

 どこから出た話かは分からないが、どうやら真剣だったらしい。眉間の力がふっと抜けていくのを見て、ヒトハはさらに念を押した。

「それにそんな大事なこと、決まったら一番に先生に言いますよ」

 こればかりは断言できた。わざわざ週に一度、時間と労力を割いてくれる恩人を置いて勝手に出て行く真似はしない。
 そこまで言ってやっといつもの調子を取り戻したのか、クルーウェルは長いため息を吐くと、強張った眉間を指でほぐした。

「ということは結婚の噂も嘘か……」
「けっ……!? なんですって!?」
「お前、変な噂が流れてるぞ」

 そしてクルーウェルから伝えられた衝撃的な噂に、ヒトハは頭を抱えた。

「何でそんな変な話を信じちゃったんですか!? あっ、あり得ないでしょう!?」
「それならお前は、俺が結婚して薔薇の王国に帰ると言ったら信じないのか?」

 ヒトハはじっと目を細めてクルーウェルを見ながら、そのシチュエーションを想像した。
 神妙な面持ちで持ちかけられる衝撃的な話。この性格についていける女性がいるという事実と、両手の治療はこれで終わりと宣告される瞬間。それらを全部ひっくるめて「なくはない」という結論に至った。なぜなら彼は、それなりに、きっとモテる。認めたくないことに。
 ヒトハは口を尖らせた。

「……ま、まぁ、それは先生のご年齢的に?」

 クルーウェルは年齢をつつかれたのがよほど嫌だったのか、ヒトハの耳をぐいと引っ張ると、心底忌々しく言った。

「お前もそうだろうが」
「いたたたたた」

 耳が千切れるんじゃないかと思うほどグイグイと引っ張られる。ヒトハは半泣きで叫んだ。

「今のところ“可能性ゼロ”なので安心してください! まだまだこの学園でやることはたくさんあるのでっ!」

 彼は耳をパッと離し、

「ふん。些細なことでも報告をするのが飼い犬の義務だ。肝に銘じておけ。いいな」

 と言い捨てると、大股で扉へ向かって行った。会ったときとは打って変わって憤った様子で、これでは元気を出して欲しかったのに逆効果になったような気がしないでもない。
 ヒトハは激しめに扉が閉まる音を聞きながら、重いため息を吐いた。

「酷い目にあった……」 

 とはいえ。
 ヒトハがこの件で一方的に彼を責められるかというと、そうでもない。実は、ちょっとだけ嘘をついたのだ。
 つい最近、故郷にいる友人から地元の男性を紹介したいと言われていて、どうしたものかと悩んでいた。まるで乗り気ではなかったが、しかし数少ない友人の頼みである。「連絡を取ってみるくらいならいいか」とバルガスに相談していたのが、どこからか漏れたのかもしれない。彼は「やめておけ!」の一点張りだったが、万が一のことがあれば噂通りになることもあったのだろう。
 まさしく“火の無い所に煙は立たぬ”というやつである。 

(それにしても……) 

 ヒトハは先ほどのクルーウェルの様子を思い出した。
 あれだけ動揺しているのもなかなか珍しく、貴重な姿を見れた気がする。

(そんなに先を越されるのが嫌だったのかな……?)

 ヒトハはやっと決心したように制服のポケットからスマホを取り出すと、画面に指を滑らせた。
 嘘は得意でもなければ好きでもないが、“嘘も方便”とはよく言ったもので、ことを荒立てないためには必要なときもある。

「『やっぱりやめとくね』……っと」

 こうしてヒトハは、こっそり人知れず火種を消した。
 それでこのくだらない噂の話はおしまい。

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