清掃員さんとハロウィーン(4/5)
パーティーの失敗
嫌なものを見てしまった。
クルーウェルはその惨状に目を覆った。
それはハロウィーンウィークの最終日、このイベントの最後の夜に催されるパーティーで起きた。
今年は例年と違いトラブルが多く、開催すら危ぶまれていたパーティーである。生徒たちの奮闘の甲斐あって、今日になってやっと開催が決まり、全員で喜んでいたというのに。
クルーウェルだけは鉛を飲んだかのような重く、憂鬱な気持ちになっていた。この盛大なパーティーには、ささやかながらもアルコールの類が振る舞われることを、不覚にも忘れていたのだ。
「誰だ、こいつに酒を与えた愚かな駄犬は」
まるで貴重な薬品をぶちまけた駄犬を見咎めたときのような、そんな低く恐ろしい声に生徒たちは震え上がった。そして素早く首を横に振る。なぜなら彼女は、気がついたらこうなっていた。
問題の彼女ことヒトハ・ナガツキという清掃員は、会場の隅のテーブルで「やだぁ~」と何かを嫌がっていた。あまりに奇妙で面白い行動だったので野次馬が集まったが、さすがに見かねて「先生を呼ぼう」となったのだという。人選は間違えてはいないが、選ばれた意味を考えると気が重い。
「レオナくぅん、卒業しないでくださぁい……私を置いていかないでぇ……」
「お前が早く卒業しろって言ったんだろうが。めんどくせぇな」
「そんなぁ~!」
ヒトハはめんどくさそうにしているレオナに縋って、ぐずぐずと泣いていた。耳まで真っ赤に染まっているあたり、これは相当な量を飲んでいる。
被害者であるレオナは掴まれた腕を振り解くこともできただろうに、それをせずに律儀に隣に座っていた。尻尾が力なく垂れ下がっているので、うんざりしていることに違いはないのだろうが。
この質の悪い酔っ払いが無事かつ無害にこのテーブルに留められているのは、レオナの我慢によるものだろう。彼の国は女性を非常に尊重しているというが、まさか酔っ払いにまで適用されるとは思わなかった。クルーウェルは内心、「頼むからそのまま面倒を見てくれ」と、人生で初めてレオナに懇願した。
そんな願いも虚しく、ヒトハはクルーウェルの存在に気がつくと、パッと顔を明るくして席から立ち上がる。
「あっ、せんせぇ! こんばんは! レオナくんってば酷いんです! 私を置いて卒業しちゃうんですよ!?」
「キングスカラーは卒業させてやれ……」
レオナはげんなりとした顔のままクルーウェルが来たことを確認すると、悟られないように席を離れる。
何でよりによってレオナに卒業するなと縋るのか。素面であれば、彼の卒業を心配して授業に引っ張り出そうと躍起になっているというのに。
他人の話を聞いているのかいないのか、ヒトハは再び涙ぐみ始める。
「みんな、いつかいなくなっちゃうんだ……うっ、ううっ……いやだ……みんなでまた、ハロウィーンする……」
クルーウェルは深く息を吐きながら額を抑えた。物分かり悪い駄犬どもを躾けているほうが幾分かましというものである。
この面倒な酔っ払いは、酒をある程度飲むと饒舌になり、情緒がめちゃくちゃになった末に寝る。感情や欲求が表に出て素直になる、と言えば聞こえはいいが、彼女の場合は元々の素直な性格が加速するだけなので、ただひたすらめんどくさい。しかも、その間の行いを目が覚めたときには綺麗さっぱり忘れているのだ。苦労して介抱しても一マドルの得にもならない。
ヒトハはよたよたと歩み寄って来たかと思うと、おもむろにクルーウェルのコートを掴んだ。
「先生は私を置いていなくならないですよね? ね?」
「ならないならない」
「そんな適当な……私の目を見て言ってください!」
「お前が明後日を向いてるんだろうが! 一体どれだけ飲んだ!?」
ヒトハは険しい顔をして宙を睨み、考え込んだ時間の割に、呆気なく首を傾げた。
「…………いっぱい?」
「忘れるくらい飲んだわけか」
ふとヒトハの向こう側で様子を見ていたエースとデュース、オンボロ寮の監督生が目に入る。彼らは彼女から取り上げたらしいシャンパンボトルとグラスを手にしていた。それをクルーウェルに見せつけるように、くるりとひっくり返す。
(一本……)
グラスを取り上げたのは褒めてやりたいところだが、飲み終わっていては意味がない。
「悪夢だ……」
そう、これは悪夢である。誰が好き好んでこの盛大なパーティーで酔っ払いの介抱なんてするだろうか。そうは思いながらも、結局は放っておけない自分が憎い。
クルーウェルはこれ以上衆目を集める前に、ヒトハを会場から連れ出してやろうと考えた。
彼女も、みっともない姿を見られるのは不本意だろう。クルーウェルはひとまず体勢を変えてやろうとコートを握りしめている手を掴もうとして──失敗した。
「うっ」
ズンと腹に重い衝撃が走る。あろうことか、ヒトハは正面からタックルをかましてクルーウェルに抱き着くと、「先生、好きです……」と世迷い言を口にし始めたのだった。
チョコレートを溶かしたかのような甘い囁き声なだけに、憎らしさが二倍にも三倍にも膨れ上がる。
遠巻きに見ている生徒たちはその光景を見て、マジフト観戦でもしているのかと思うほど沸き立っていた。これだから思春期の仔犬は、とクルーウェルは額に青筋を浮かび上がらせる。
お互いに素面で、かつプライベートでこの光景を見られたならば最悪の気分になっただろう。
しかし、彼女の行動はそういうものではない。
「この、ふわふわ! 好きです! 私も欲しいっ!」
「欲しがるな、撫で回すな、手垢がつくだろうが。今すぐ離せ。今、すぐだ」
ヒトハはクルーウェルの背に回した手をさわさわと動かしながら、コートの毛を撫でまわしていた。いつも通り手袋をした手である。感触など分からないだろうに。
「本当にお前の酒癖の悪さはバッドガールどころでは済まないな」
「そんな、私は先生の忠犬なのに……」
「忠犬だと主張するなら言うことを聞け、この駄犬が」
彼女はこの毛皮のコートをやたら気に入っていて、酔うと決まって触りたがった。曰く、子どもの頃に隣の家で飼っていた犬に似てるとのことだが、そんな大層な毛並みの犬がいるなら一度お目にかかってみたいものである。
クルーウェルがやって来てから暴走が加速していくヒトハを、エースは指をさして笑った。
「やっぱヒトハさん、おもしれー」
「何も面白くないが? 貴様にくれてやろうか、トラッポラ」
エースは「いりませーん!」と元気よく答えた。
「オレたちも何とか部屋に連れて行こうとしたんですけど、触ると『触らないでください!』って怒るんすよ」
エースはヒトハの声真似をしながら、クルーウェルに自分たちの苦労を説明してみせた。その声真似が似てなさそうで絶妙に似ているので、隣のオンボロ寮の監督生が小刻みに肩を震わせる。どうやら泥酔中にも身を守ろうとはしているようだが、見境がなく、余計にややこしいことになっているらしい。
「酒を飲むと人ってこんなにめんどくさくなるんですね。勉強になります!」
「いや、普通はここまではならない」
デュースはデュースで何かを学び取ろうとしているようだが、彼女から得られるものは何一つない。あるとするなら、“酒は飲んでも飲まれるな”くらいのものだ。
クルーウェルは今度こそヒトハを首根っこから掴み、体から引き剥がした。彼女は意外にも一切の抵抗もなく離れ、眠たそうに目をシパシパとしている。
「俺はこの酔っ払いを部屋に捨て…………連れて行く。仔犬ども、絶対に羽目を外すなよ。お利口にできなかったら、分かっているだろうな?」
「はぁーい」
生徒たちの返事は心許なかったが、とにもかくにも、今にも寝てしまいそうな彼女を部屋に連れて行くことが最優先である。
クルーウェルはヒトハの手首を掴んで引っ張った。眠気のせいで足元が覚束ないが、ついて行こうとする意思だけはあるらしい。よたよたと足を動かすヒトハを連れて、クルーウェルは会場の外を目指した。
やがて会場の騒がしさと眩しさを抜け、誰もいない学園の敷地内を歩く。学園内にはハロウィーンの飾り付けがまだ残っていて、通り道はランタンの灯りで静かに照らされていた。
ヒトハは歩いている間に目が覚めてきたのか、ようやく会場の外に連れ出されたことに気がついた。
「あれ? 先生、もう帰るんですか?」
「帰るのはお前だ、駄犬」
ヒトハは「ええ? 残念……」と、これっぽっちも残念な様子を見せずに言った。
クルーウェルはヒトハを再び眠らせないように、引っ張りながら声を掛ける。
「部屋の鍵はどこだ?」
「鍵……? んん、どこやったっ……け……」
制服のポケットを弄りながら、ガクガクと頭が揺れる。
「待て、寝るな。起きろ」
慌てて肩を揺らしてやると、ヒトハは「すみませぇん」と言いながらぼんやりと目を覚ました。この状態で立っていられるのが不思議なくらいである。
クルーウェルは鍵を探させるのを諦めて、再び歩き始めた。しかし時たま小石に足を引っ掛ける酔っ払いを連れていては、上手くは進まない。苛立ち始めたクルーウェルをよそに、ヒトハはのんびりとした口調で、「そうだ」と何かを思い出した。
「いっぱい写真を撮ったんです。先生にも後で送りますね」
「そうか。しかし不要だ」
「ええ? でも、仔犬どもが可愛いかったので、やっぱり送りますね」
何と言っても絶対に写真を送りつけるつもりらしい。
どうせ起きたら忘れている。クルーウェルはため息をついた。
「楽しみにしておこう」
そのうんざりとした声が面白かったのか、ヒトハはクスクスと笑った。生徒たちと一緒にいるときに聞く、無邪気な声だった。
「それからあの、先生の面白い写真も」
「なんだそれは。消せ」
「ふふ、嫌です。私、あれが一番好きなんです」
面白い写真とは、あのマジカメモンスターから逃げたときに「送る」と言っていた写真のことだろう。正直、面白いとまで言われた写真が残っているのは不服だが、一番好きだと言われてしまったからには仕方がない。
「先生、来年は一緒に仮装しましょうね」
「ひとりでやれ」
「えー! 先生がやらないならやりません! ね、ね、いいでしょう?」
ヒトハはクルーウェルの腕に縋り、袖を引っ張った。何度コートを引っ張るのを止めろと言っても、もう止めることはなさそうだ。
「……考えておこう」
「やった」
「お前、本当にめんどくさいな」
クルーウェルは改めて、深い深いため息をついた。
ああ、めんどくさい。
けれど後ろで幸せそうにしている彼女の声を聞いていたら、この苦労も多少は報われる気がした。今夜は彼女にとって初めての、ナイトレイブンカレッジでのハロウィーンなのである。
「楽しかったか?」
クルーウェルは首だけ振り返って、後ろをついて歩くヒトハを見下ろした。すると、ずっとこちらを見上げていたらしい彼女は二、三度目をまばたく。
「ええ、とっても!」
それはジャック・オ・ランタンの灯りで賑わうハロウィーンの夜に、ひときわ輝く笑顔だった。
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