魔法学校の清掃員さん

エピローグ

 遠くに自分の名前を呼ぶ声を聞いて、ヒトハはゆっくりと瞼を押し上げた。
 ぼやけた視界に映るのは頭の下に敷いた自分の腕と、深い色の木材。のっそりと顔を上げ、それが自宅にある低い丸テーブルだったことに気が付く。
 ヒトハは頬に張り付く髪を指で払いながら、いつの間にか傍に立っていた男を見上げた。

「私、どれくらい寝てました?」
「さぁ? 三十分くらいじゃないか?」

 男はまだ眠気眼のヒトハを見下ろし、困ったように笑う。彼はおもむろに指を伸ばして、ヒトハの頬にかかった髪をひと房耳にかけてやった。

「いい夢は見れたか?」

 からかう声に、ヒトハは「ええ」とツンとしながら言い返す。まさか居眠りをしてしまうなんて思っていなかったのだ。

「とってもいい夢でした」

 優しくて楽しくて、時々胸が苦しくなる、そんな夢だ。かつての日々はいつも新鮮で、虹色の輝きに満ちていた。
 ヒトハは腰掛けていたソファから立ち上がろうと腰を上げた。支えるように、背にそっと腕が回される。

「それで、どんな夢だったんだ?」

 男は優しく問いかけた。低く掠れかかったような声で、ゆっくりと。ヒトハはそれが少しくすぐったくて、小さく笑った。

「昔の先生に初めて会った時の夢でしたよ。先生は少し意地悪で、私は先生のことを怖がっていました」

 ずっと昔のことのようにも思えるし、つい最近のことのようにも思える彼との出会いは、とにかく劇的だった。大怪我の現場に鉢合わせるというロマンスの欠片もないものだったけれど、間違いなく人生で一番衝撃的な出会いだ。それがどうしてここまで続く縁になったのだろう。

「先生ってばいつもこうやって眉を吊り上げていて――今考えたら、そういう眉なんですけど……」

 彼はヒトハが面白そうに過去の自分のことを話しているのを聞くと、上向きに整えた眉を寄せて「そんなに怖かったか?」と不貞腐れた。
 まさか無自覚だったのだろうか。それとも、もうあの頃の感覚を忘れてしまったのだろうか。ヒトハは自分を支える腕に縋りながらプッと噴き出し、声を上げて笑った。

「ええ、とても! いつ泣きながら伏せをさせられるのかと思ってハラハラしてましたよ!」
「それは悪かったな」
「最初に魔法薬を飲んだ時なんて、もう――」
「おい、その騒がしい口を塞がれたいのか?」
「ひゃあ!」

 ヒトハは不意に近づいた鼻先に驚いて、慌てて胸を押しやった。男は襟を正しながら「ふん」と鼻で笑って勝ち誇る。

「すぐ顔が赤くなるのは昔から変わらないな?」
「だっ、だって、いきなり近づくから! 先生は強引なところとか変わってないですね!」
「なんだと? 俺ほど紳士な男はいないはずだが?」
「紳士? さぁ、それはどうでしょう?」

 “待て”がお上手なのは確かですけど、と笑えば、彼の機嫌はたちまち降下していく。追いかけてくる指先をするりと抜けて、ヒトハは数歩ステップを踏むと出窓に片腕をついた。こうして逃げるのも、もうお手のものだ。
 格子窓の先では今日も雪が降り続け、麓の街を白く染め上げている。ひょっとすると、今日は予定していたコートよりも一段厚いものに変えたほうがいいかもしれない。
 空を見上げていた視線を落とした時、ヒトハは手元に枯れた根を見つけた。自分がナイトレイブンカレッジで働き始めてからずっと傍にいてくれたマンドラゴラだ。もうとっくに死んでいるけれど、楽しい時も悲しい時も一緒にいた戦友のようなもの。

「ねぇ、先生――」

 あの頃は楽しかったですね、と口にするより早く、「ヒトハ」と名を呼ばれる。呆れたような声に振り返ると、彼は相変わらず不服そうな顔をしていた。

「まだ寝惚けているのか? ここは学園じゃない」

 ヒトハは何度か瞬きをして、やっと思い出した。そう、彼は学園の外では「先生」と呼ばれるのを嫌うのだ。

「ごめんなさい、デイヴィス。まだ寝惚けていたみたいです。夢がとても楽しかったものだから、つい」

 窓から離れて歩み寄り、首を傾げて見上げる。昔から変わらないシルバーグレーの瞳に、ほんの少しの子供っぽさを探り当てて苦笑した。この姿を見れるのは世界で自分ひとりだけなのかもしれないと思うと、どうしようもなく愛しさが溢れてくるのだ。
 ヒトハは彼の大きな手を両手で掬い上げた。
 あの頃にもよくこうしていた。思えばあれは、自分と彼を繋ぐ大切な儀式のようなものだったのかもしれない。この手は出会ったきっかけで、こうして縁が続いた理由でもある。

「あの頃はあなたみたいな派手な男の人に出会うなんて思っていなかったから、毎日が新鮮でした」
「俺はお前みたいなお転婆に振り回されるとは思ってなかった。だがまぁ、楽しかったのは確かだ」

 握り返された手を見下ろして懐かしさに浸る。それは目の前にいる彼も同じで、優しく細めた目に遠い過去の思い出を見ているようだった。

「それで、そろそろ家を出る時間だが、準備はできたか? 今日のディナーは特別だとか言っていたのに、早く出ないと帰りが遅くなるだろう? コートは選んだか? 手袋は?」
「む、ほんと細かいんだから……。そういうあなたは終わったんですか、支度。『今日は俺が選ぶ』って意気込んでたじゃないですか」

 デイヴィスは眉を上げ肩をすくめ、ふた呼吸ほど考え込んだ。かと思えば唐突に両腕を腰に絡めてくるのだから、ヒトハはもうほとんどのことを察した。

「うちの天使は何を着ても可愛いからな。……靴がまだ決まっていない」
「またですか? まったくもう……」

 彼の相変わらずのこだわりは、ここ数年激化していた。それは構わないが、自分を棚に上げるとなると話が違う。とはいえ、こうやって誤魔化されて毎回毎回つい許してしまう自分も自分だが。

「ママー!」

 バタバタと走り回る足音と共に甲高い声が響く。幼いなりに言い争う声と、今にも泣き出しそうなくぐもった声。
 ヒトハとデイヴィスは突き合わせていた顔をパッと離して扉を見やった。どうやら別の部屋では、わんぱくな仔犬たちが暴れ回っているらしい。

「お前に似て元気がいいな」
「いいえ、あなたに似て勝気なんです」

 二人はこれ以上家が荒れてしまわないように慌てて部屋を飛び出した。これから出かける予定だというのに、これではいつになるか分かったものではない。
 マンドラゴラだけが取り残された静かな部屋にヒトハの怒った声が届く。

「もう! 喧嘩しないの! お利口にしてないとホリデーマーケットに連れて行ってあげませんからね!」

 一生懸命堪えていた泣き声がわんわんと響き、家中が賑やかになっていく。そんな中、チャカチャカと硬いものを床で擦るような音が鳴って、デイヴィスは「ん?」と訝しむような声を上げた。

「お前は何を咥えて……なっ! 俺のマフラーをおもちゃにするんじゃない! ステイ!  ステイ!」

 チャッチャッチャッと素早く爪の音を立てて逃げ回るのは彼らの愛犬で、それを追いかけ回す靴音は慌ただしくも愉快だ。

 ――賢者の島にある麓の街。その一角に、魔法学校に勤める夫婦が住んでいました。夫は教師、妻は清掃員です。二人は手を取り合ったその日から、離れることなく共に歩んできました。今では可愛らしい仔犬たちに囲まれて、賑やかに、騒がしく暮らしています。
 そんな彼らの幸せは、ずっとずっと、永遠に続きましたとさ。

おしまい

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