魔法学校の清掃員さん

26 魔法学校の清掃員さん

 この学園にはちょっと変わった清掃員さんがいる。
 聞くところによるとその人は、この学園で働き始めた初日に事故で手のひらをうっかり溶かしてしまったのだという。まだ若い女性だというのに、とんでもない災難である。そんなことがあったのでもう仕事を辞めてしまうかと思えば、そんなことはない。毎日学園中の掃除をしながら、手に残った怪我の痕を消すために週に一度(あの恐ろしく不味い)魔法薬を飲むべく、ひとたび怒らせたら泣いて伏せするまで躾けると有名な鬼教師、デイヴィス・クルーウェルの元に通っているのだ。
 それから彼女は見た目の割に根性があり、多くの男子生徒に紛れても物怖じしないほどには肝が据わっている。そのせいか、あのバルガスとも仲がよく、個性派ぞろいの寮長たちにも顔が利く。あのゴーストたちとも一人ひとりの見分けが付くほど仲がいいらしい。唯一、絵画とは仲が悪いようだが。たまに喧嘩をして額縁をひっくり返す様子が目撃されているのだ。
 噂によると、彼女を本気で怒らせると百倍はくだらないしっぺ返しがあるのだという。もしかしたら、オクタヴィネル寮に強い繋がりがあるのかもしれない。あそこの寮長と副寮長はとても恐ろしいものだから。
 けれど普段は気の良い人で、頼めばよほどのことがなければノーとは言わないし、運が良ければ昼食も奢ってもらえる。
 ただひとつ、彼女に関して生徒たちの間で暗黙の了解が存在した。
 彼女には、あまりちょっかいをかけすぎてはいけない。なぜなら恐ろしい飼い主が出てきて、大変なことになるから。

***

 目が覚めるような新緑の季節。
 生徒は授業の合間に一足早く魔法薬学室へやって来た。前回の授業の内容で、どうしても分からないことがあってクルーウェルに質問をしに来たのだ。
 こうしてここへやってくると、友人の言っていた清掃員さんの話が頭をよぎる。実はまだ、彼女には出会ったことがないのだ。友人は「見れば分かる」とは言うけれど、そんなことってあるのだろうか。
 大きな扉の前に立ち、生徒は扉を静かに押し開ける。
 風が吹き込み草葉がそよぐ爽やかな音、薬草の独特な匂いに乗せて、いつもの低い声と軽い女性の声が生徒の耳に届いた。

「それで、この前言ってた夏の長期休暇はどこに行きたいか決めましたか?」
「ああ、南に行こうと思うんだが」
「え? 暑いから北がいいです」
「な……わがままだな、お前……」

 ギッ、と扉が軋む音がして、生徒はびくりと肩を震わせた。
 生徒の存在に気が付いた二人が出口に視線を寄越し、クルーウェルは「どうした」といつもの調子で問い掛ける。女性は薄い水色の制服を揺らして立てかけていた箒を手にすると「じゃあ先生、その話はまた今度」と言って薬品庫の方へ引っ込んでいった。
 生徒は二人の会話を邪魔してしまったことに気まずさを覚えながら、おずおずと魔法薬学室の奥へ進んだ。手にした教科書を広げ、分からなかったところを問うと、淀みない解説が返ってくる。クルーウェルの説明は丁寧で分かりやすい。数回のやりとりですっかり疑問を解消した生徒は、どうしても気になることがあって薬品庫の方に目をやった。
 恐らく、彼女が友人の言っていた清掃員さんである。両手を怪我して毎週クルーウェルの世話になっているという女性。そして、ちょっかいをかけると怖い飼い主が出てくるという暗黙の了解を持つ女性。
 ナイトレイブンカレッジは男子校だ。女性の少ないこの学園で、自分の世話になっている教師と親しいというのだから、気にならないわけがなかった。

「あの、先生」
「なんだ」

 クルーウェルは教科書に顔を向けたまま、垂れる白い前髪の隙間から生徒を見た。

「その、先生って、清掃員さんと一体……」

 恐る恐る口にした言葉に、彼はふっと顔を上げた。薄く形の良い唇は緩く弧を描き、シルバーグレーの瞳が悪戯っぽく細められる。赤い人差し指を口元に当て、クルーウェルは囁くように答えた。

「余計な詮索はしないことだ、仔犬」

 その姿があまりにも授業で見る姿とはかけ離れていて、生徒は何も言葉を発せないまま、何度もコクコクと頷いた。なぜか顔が急に熱くなり、外の心地よい風で揺れる木々の音が、いつのまにか心臓の音に支配されている。

(この人、教師だったよな?)

 生徒は思わず頭の中で何度も自分自身に問いかけた。毎日のように教壇に立つ姿を見ているはずの先生が別人のように思えて、気が気ではない。
 あと何年経てばこんな大人になれるんだろう。
 混乱が収まってくると、生徒はそんな漠然としたことを考えた。そしてこんな目を向けられ続ける生活とは一体どんなものなのだと、俄然清掃員さんに興味が湧いたのだった。

 ――たしかに、この学園にはちょっと変わった清掃員さんがいる。明るく元気で、学園随一の鬼教師であるデイヴィス・クルーウェルを手懐けてしまった、不思議な清掃員さんだ。

送信中です

×

※コメントは最大10000文字、5回まで送信できます

送信中です送信しました!