魔法学校の清掃員さん

25 清掃員さんと先生

「次回からは申請通りにお願いしますよ! いつでも対応できるわけじゃあないんですからね!」
「はい!」

 学園長はそう言って腹を立てていたかと思うと「あれ? 荷物はどうしたんです?」と疑問を口にした。ヒトハはいつもの清掃員服を纏って、ほとんど手ぶらである。出て行く時は大きな鞄をひとつ持っていたはずだったが。

「とっても急いでいたので置いてきました! 後ほど送られてくると思います!」

 では私、急ぐので! と溌剌とした声で言って慌ただしく鏡の間を去っていく姿は到底生徒の模範ではなく、決して褒められたものではない。しかしあまりにも軽やかで、爽快だった。

「はぁ、まさかあんなお転婆だったとは……」

 初めて面接をした時は真面目で物静かな印象だったものだから「彼女であれば変な問題も起こさず、真面目に仕事をこなすだろう」と期待していたのに、蓋を開ければこれである。彼女の関わった事件は数知れず、物静かとは縁遠い。しかしながら、確かに彼女の在り方はこのナイトレイブンカレッジに相応しかった。彼女もきっと、多くの選ばれた生徒たちのようにここへ導かれたのだろう。そうであるならば、学園長である自分はやはり見守るしかない。この学園を形作る多くの生徒たちのように、その役割に期待して。

「広い……!」

 鏡の間は校舎の中では上部の中心に位置する。部屋を飛び出し目的の場所へ向かうにはひたすら駆け下りるしかない。ヒトハは人けの少ない廊下を駆け抜けながら、そう呟いた。
 壁にかかった絵画たちが物珍しそうに目で追ってくるのを感じながら、階段を駆け下りる。突き当りの小窓から一瞬だけ外の景色が目に入り、ヒトハは眩しく目を細めた。澄んだ空に薄い雲がなだらかな曲線を描き、植物園の周辺は鮮やかに彩られて春も真っ盛りである。心地よい風を頬に感じながら下へ、下へ。
 軽快に駆け下りる先で明るい声に呼び止められて振り返ると、スカラビア寮長のカリムがにこにこと笑って手を振っていた。

「ヒトハ、今週うちの寮で宴をするんだ! 来るだろ?」
「ええ、もちろん!」

 傍にいるジャミルが「聞いてないぞ」と小言を言いながらも困ったような笑いをヒトハに向けた。それに苦笑いを返して、二人に大きく手を振り再び走る。下りれば下りるほど行き交う生徒は増えていき、知り合いの生徒たちは通りかかるたびに「おかえり」と言うので、ヒトハは都度「ただいま」と返した。
 長い廊下を渡る最中、鉢合わせたバルガスは「廊下を走るんじゃない」と呆れた顔で言い、「早歩きにしろ、早歩き」と意味のあるようなないようなことを言う。ヒトハは言われた通りに速度を落としながらも、足を止めることはなかった。
 教室の近くではエースとデュース、オンボロ寮の監督生たちに出会ってゲームの約束をし、階段ではオクタヴィネルのバイト仲間たちとすれ違い、その先でリーチ兄弟とアズールにバイトのヘルプで引き留められる。今日はもう予定がいっぱいで、明日以降の約束だ。廊下の曲がり角ではレオナにぶつかりかけて舌打ちを貰い、良い箒が入ったからとラギーとジャックにお誘いを受けて、錬金術の教室を越えた先で先輩に出会った。
 先輩は丸々とした頬を穏やかに膨らませて「もう帰ってきたの?」と言った。

「先輩! 明日から仕事復帰します!」
「ええ? そうなの?」

 と驚きながらも「分かったよ」と快く了承してくれる。ナイトレイブンカレッジの清掃員の仕事はとても柔軟で、緩くて、大変だけど愉快な仕事だ。
 やっとのことで一階に下り立つと、いつもの組み合わせのディアソムニア寮一行に鉢合わせて、ヒトハは慌てて足を止めた。

「ごめんなさい! リリアくん!」
「不敬だぞ! リリア様と呼べ!!」

 ぶつかりかけたリリアは余裕の様子でけらけらと面白そうに笑い、セベクはいつも通りの大声でヒトハを叱った。室内に反響する声量に耳を痛めつつ「声が大きいんですよ!」と文句を言うと、不満の大声が返ってくる。頭を抱えるシルバーと、少しばかり面白そうにしているマレウスはもはや見慣れた光景だ。

「まぁまぁ、どうやら急いでいる様子じゃぞ」

 リリアは息を上げているヒトハを見てセベクをたしなめた。
 セベクはそこでやっとヒトハの様子に気が付いたのか、一瞬考え込んで、すっと外へ向けて指を差す。

「先生なら魔法薬学室だ。まだいると思うぞ」
「ありがとうございます! 本は今度返しますね」

 友人の導きに従って校舎を飛び出し、坂を下り、購買部を通り過ぎ、植物園の隣を抜け、そして辿りついたのは学園中のどの教室よりも馴染みのある魔法薬学室。
 その教室の前に立ったヒトハは、額に滲んだ汗を拭った。教室からは灯りが漏れていて、目的の人物はセベクの言った通り、まだ室内にいるようである。走ったせいか、はたまた緊張しているせいか、やたら煩い心臓の音を聞きながら扉を開き、呟く。

「着いた……」

 そして部屋の奥でおびただしい数の瓶や薬草を前に教本を読んでいるクルーウェルを見つけて、ヒトハは大きく息を吐いた。彼はコートスタンドにいつものコートを掛けて、ずいぶんとラフな格好である。

「……ナガツキ? 大丈夫か?」

 クルーウェルが驚いてこちらへ向かって来るのを感じながら、ヒトハはたまらず膝を折った。さすがにあの巨大な校舎から魔法薬学室まで駆け抜けるのは堪える。

「いえ、お気になさらず……」

 そうは言いつつも差し出された手を取って再び立ち上がると、とてつもない疲労感と同時に達成感が溢れてきた。
 ――彼に会いに来たのだ。極東の小さな島から、ここへ。

「まだ休暇中ではなかったか?」
「はい。でも私、どうしても、先生に会いたくなったんです」

 勢い余って前のめりになると、クルーウェルは面食らって何度か言葉に迷った。ややあって考えるのを諦めたのか、ため息交じりに「お前な、」とこぼす。

「それでここまで走ってきたのか?」
「そうですが?」
「はぁ、お前はまた……まぁいい。で、会いに来ただけではあるまい?」

 そう言って言葉を待ってくれるシルバーグレーの瞳を見つめ返して、ヒトハはゆっくりと、深く息を吐いた。

「先生はあの日の夜に、これからどうしたいか聞いてくれましたよね? 私、答えを見つけたんです」

 重ねた手に少しだけ力を込める。手袋越しの体温のように、仄かに、ゆっくりでもいい。どうかこの思いが伝わりますように。

「私、やっぱり今まで通りがいいです。だって私はこの学園でたくさんのものを手に入れたんです。この怪我も、この出会いも、きっとその一つで、私は何一つ手放したくない」

 かつては特に変化のない単調な毎日を当たり前のように送ると信じていた。振り返ってみれば、そうしてそれなりに生活はできていたけれど、決して幸福ではなかったと思う。始まりは一つのミスと大きな怪我。重なる不幸を嘆いたこともあったけれど、それでも今では余りあるほどの幸福を得た。
 もしも許されるのなら、この手を放したくない。きっとこれも手に入れた幸福の一つだから。

「だから先生、私を助けてください。我儘を言っているのは分かっています。今の状況を学園長に知られたなら、きっと別の方法を探すことになるでしょう。でも、私は先生がいいんです。先生じゃなきゃ嫌だ。私は、先生に助けてもらいたい。……駄目でしょうか?」

 ヒトハは話しながら急に不安になって、つい声を窄めた。面倒だとか迷惑とか、そんなことは一度だって言われたことはない。けれど心の内を吐露して、我儘を言って、それを確実に受け入れてもらえる保障もなかった。
 クルーウェルは黙って聞いていたかと思うと、片手で顔を覆って静かに俯いた。

(あれ……?)

 心なしか髪の隙間から覗く耳が赤いような気がして、ヒトハは下から覗き込むように半歩近づいた。しかし鋭く「ステイ!」と制止され、半歩退く。それがあまりに頑なな声だったので、これ以上は近づけそうにない。
 クルーウェルはしばらくそうしていたかと思うと、手を下ろして深々とため息をついた。どうしようもない子供を前にしたかのような疲れた様子で、けれどそうやって困ったように笑う姿は、どこかほっとしているようでもある。

「駄目もなにも、最初からそのつもりだ」
「え?」
「最初から俺は、最後までお前の望むようにするつもりだった」
「え?」
「……まだ分からんか」

 などと呆れたように言われると、なんだか悪いことをしているような気分になる。ヒトハは気まずく視線をうろうろとさせた。「こっちを見ろ」と鋭く咎められて渋々視線を戻すと、彼は険しい顔をしてヒトハを見下ろしている。

「俺は一度面倒を見ると決めたら途中で投げ出したりはしない。治療も、この俺ができると言ったら“できる”。信じろと何度も言っているだろうが。それとも、俺を疑うのか?」
「い、いいえ……」

 相変わらず驚くほどの自信で、ヒトハは思わずたじろいだ。彼が言えば白も黒になる勢いで、その言葉には何一つ根拠なんてない。それでも不思議と信じられるのは、今まで見てきた彼の姿が、自分にとって信用に足るものだったからだ。
 クルーウェルはヒトハの手を離すなり、いつの間にか手にしていた指揮棒をピシャリと片手に叩きつけた。

「勝手に余所見をして迷い犬になるなど始末に負えん。これに懲りたなら、他のやつの言うことには耳を貸すな。俺だけを信用し、俺だけを見ていろ」
「は、はぁ……」
「それから、誰それと構わず尻尾を振って回るな。お前の飼い主はただひとりだと自覚しろ。いいな」
「はい。……ん? 尻尾?」

 顎に人差し指を当てて首を捻るヒトハの前で指揮棒が唸った。赤い先端が鼻先に突き付けられる。

「分かったなら毎週この時間に、この教室だ。忘れずに来い。いいな」

 それは彼と初めてした、基本的で、一番大切な約束。特別な理由もなしに破られたことは一度としてなく、そしてそれは恐らく、これからも続くのだ。
 ヒトハは二、三度瞬くと、弾かれたように顔を上げた。

「はい! よろしくお願いしますね、先生!」

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