魔法学校の清掃員さん

22 清掃員さんとこれからの話

 三列目の棚のあらぬ方向に伸びた薬草が、ついに枠を越えて隣に侵入している。ヒトハはその様子を眺めながら、この魔法薬学室に訪れるのがずいぶんと久しぶりなことに気が付いた。
 毒に侵された体が完治しきれないまま無茶な戦闘を行なった代償は大きく、魔法力を限界以上に振るったことも重なって、保健室と自宅での療養が長引いてしまったのだ。外傷らしきものはあっという間に治ってしまったものの、中身に関しては判断が難しい。ついに魔法石がブロットによって輝きを失ったことも考えれば、保健室の先生が指定する絶対安静の期間を無視するわけにはいかなかった。
 視界の隅で光がちらついて、ヒトハは視線を巡らせた。傾いた陽が窓から射して薬品棚の瓶に反射している。
 放課後の魔法薬学室。いつもの曜日のいつもの時間。窓の外は記憶にあるよりも明るい。この地にも、ついに春が訪れたのだ。例の通路は無茶苦茶にしてしまったせいで改装の手が入り、見違えるほど綺麗になったのだという。あの窓が残っているのなら、今こそあの場所から学園内を見渡したい。それはきっと、ホリデーの雪景色と同じく胸を震わせるほどの光景なのだろう。
 ヒトハがぼんやりと椅子に座って時間を持て余していると、教室の扉が遠慮なく開かれた。クルーウェルは片手に教科書をいくつか抱えて「待たせたか」と口早く言うと、一直線にこちらへ向かって来る。

「いいえ、さっき来たんです。お疲れ様です、先生」

 ヒトハは立ち上がって迎えようとして、「お座り」と肩を抑えられて椅子に戻された。どうやら彼は、もう完治しきってる自分を未だに怪我人扱いしようとしているらしい。

「体の調子はどうだ」
「おかげさまで完治しましたよ。仕事にも復帰しましたし、もういつも通りです」
「それはなにより」

 彼が薬品棚から迷うことなく取り出した瓶には、やはり沼のような色の液体が閉じ込められている。あれだけ飲みたくないと思っていたものを、こうも懐かしく感じる日が来るとは思いもしなかった。

「どうした?」
「へ?」

 頬杖をつきクルーウェルの手元を目で追っていると、不意に言葉をかけられて、ヒトハは慌てて顔を上げた。彼は魔法薬を片手に不思議そうな眼をしていたが、ただぼうっとしていただけだと気がついて、にやりとした。

「やけに大人しいな。いつもなら実のない話を延々としているじゃないか」
「なっ……! 久しぶりだから調子出ないんです! というか、実のない話ってなんですか? 有意義な雑談と言ってください!」
「どうだか」

 クルーウェルはヒトハの抗議を鼻であしらって、魔法薬の瓶を目の前に置いた。どろりとした液体に気泡が浮いていて、今からもう飲みたくない。ヒトハは口を尖らせたまま、隣で机に寄りかかる男を見上げた。

「それだけ煩く吠えられるということは本当に完治したようだな」
「だから、さっきからそう言ってます。もう、先生ってば私のこと信用してないでしょう?」

 クルーウェルはほんの少し目を見開いたかと思えば「信用……信用ね」と次に言う嫌味を考えている。

「嘘をつこうとする、言うことを聞かない、俺を出し抜こうとするとあれば当然だと思うがな」
「ぐっ……」

 こう言われてしまったら返す言葉がない。ヒトハは悔しげに下唇を噛んだ。こと口喧嘩において、ヒトハはクルーウェルに勝てた試しがない。この手の話を持ち出されては、下手をしたら一生勝てないだろう。彼は勝ち誇った顔で「そういえば開けられないんだったな」とわざとらしく気を利かせて魔法薬の瓶をつまみ上げると、栓を抜いた。ポン、と小さな音に続けて、なんとも形容しがたい異臭が漂う。

「ああもう、なんで開けちゃったんですか」
「そう言うな。この俺が手ずから開けてやったんだ。ありがたく飲めよ」

 ヒトハは再び目の前に置かれた瓶をそろそろと手に取った。相変わらず不愉快な見た目をしている。飲まない期間が少しあっただけで、口を付けるのにこんなにも勇気がいるとは。
 ここでごねても仕方がない。ヒトハは思い切って瓶に口をつけると、ぐいと傾けた。
 そしてほんの少し喉に流し込んだその瞬間、ヒトハは素早く瓶を机に叩きつけた。思っていたよりも力が入っていたのか、大きな音が教室中に響く。しかし今はそれすら気にする余裕がなかった。立ち上がり椅子が転がったことすら無視をして、弾かれたように近くの水道へ走る。

「――っ」

 ヒトハはシンクに縋りながら、口に含んだもの全てを吐き出した。一滴たりとも体内に残すことは許されず、激しく咳き込む。それでもなお、魔法薬の独特な味は舌ににこびり付いて離れない。ヒトハはあまりの気持ち悪さと、今の今まで一度もなかった吐き戻すという行為に、ただただ驚いていた。

「大丈夫か」
「え、ええ、ちょっと、咽ちゃったみたいで……」

 クルーウェルの緊張と戸惑いの入り混じる声に、ヒトハは口元を拭いながら答える。まだ混乱したままの頭に、一体なぜと疑問がぐるぐる巡った。クルーウェルは調合を失敗しない。何度飲んでも同じ臭いと味で、正確に調合するはずだ。そうであるならば、原因は自分にある。
 ヒトハは辿り着いた答えに、震える手で口元を覆った。この味とこの臭い、この舌触りが、過剰なまでにあの苦痛を思い起こさせるのだ。

(飲めない……)

 あの出来事が精神に爪痕を残している。これでは治療が進まない。そんな漠然とした恐怖の中で、この日常の一部が切り離されようとしていることが、全く場違いなことに、最も恐ろしく思えたのだった。
 クルーウェルはヒトハが落ち着くまで黙っていたかと思うと、飲みかけの魔法薬を手に取って、ほんの少し口を付けた。途端に険しい顔をして、「なるほど、たしかに酷い味だ」と笑う。

「手の治りも頭打ちなことだし、そろそろ調合を変えてみる頃合いだろう」
「えっ」

 ヒトハは思わず声を上げた。
 魔法薬を吐き出すことが今まで一度もなかったように、彼が調合を変えると言い出すことも、今まで一度もなかった。それはこの方法が最善であると確信していて、これを継続することで効果があると見込んでいたからだ。調合を変えるタイミングだって、今でなくてもいい。
 気遣われているのだ。魔法薬を飲めなくなった理由に気が付かない彼ではない。
 ヒトハはその気遣いを嬉しく思いたくても、素直にそう思えない自分に気が付いて視線を落とした。

「……ごめんなさい」
「どこに謝る必要がある? 俺は調合を変えるべきだと言っているんだ」

 クルーウェルは杖を一振りして教壇に置かれた本を取り寄せるとページを捲った。見当がついているのか、いくつかのページに目を留めながら独りごとのように呟く。

「ホリデー期間中に持ち帰った本の調合を試すか。治癒が駄目なら、変身系の魔法薬でいっそ作り変えてみるのもありだな」
「つ、作り変え!?」
「お前が以前作った髪の色を変える魔法薬のように、体の一部を変容させるものを検討してみてもいいだろう。効果が永続的ではないのが問題だが、まぁ、そこも課題だな。試していない方法はいくらでもある。素材に関してもサムに頼めばある程度は手に入るだろう」

 息つく暇もなくつらつらと今後のことを話し始めるクルーウェルに圧倒されながら、ヒトハは“今すぐに言わなければいけないこと”を言おうとして、何度も口を開きかけた。

「あ、あの」
「どうした?」

 やっと口を挟むことに成功したのに、上手く言葉が出てこない。言わなければと強く思えば思うほど、言いたくない気持ちが重なって蓋をするのだ。

「……いえ、なんでもないです」

 結局、喉元まで出かかった言葉を飲み込んで、ヒトハは力なく肩を落とした。
 クルーウェルは一瞬訝しむような目をしたものの、すぐに次の魔法薬の計画に切り替えて二冊目の本を手に取る。ホリデーに入る前に見た、埃を被った本だ。普段手に取ることのない本なのだろう。これからやろうとしていることは、そうでもしなければ叶わないのだ。

「そういうわけだから次回までは少し期間が空く。用意ができたら声を掛けるから応じるように。いいな」
「はい……」

 気落ちしていくヒトハに対して、クルーウェルはなんともないことかのように「まさか、寂しいんじゃないだろうな?」と軽い口調で冗談を飛ばした。それが普段だったら憎たらしくて仕方がないのに、今はそれがわずかながらの救いだ。

「ち、違います! もう!」

 その答えに満足したのか、クルーウェルは手にした本を閉じて言った。

「俺が見ていない間も、くれぐれも無茶はしないように」
「だからもう完治してますってば。じゃあマジフト中継が始まるので、今日はもう帰りますからね」

 ヒトハはなるべくいつも通りに、声を荒げて出口へ向かった。後ろから笑いながら「またな」と掛けられた声が余計に傷に染みて、何一つ言葉を返すことができない。彼の言葉一つひとつが自分を気遣っているものだと気が付かないほど、鈍感ではないつもりだ。
 魔法薬学室を出て扉を閉めた時、ヒトハはほとんど夜に近づいた暗がりの中で、ひっそりと顔を歪めた。

「うそ……全然治ってないくせに……」

 急に暗闇に放り出されたような気がして、ヒトハは追われるように自室へ走った。

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