魔法学校の清掃員さん

21-13 清掃員さんの願い

 ヒトハは保健室から解放された翌日、対価を払いにモストロ・ラウンジのVIPルームに来ていた。
 前金としていくらかは支払い済みだが、残りは後でいいとのことだったので、全てが終わった今、残りのマドル束をテーブルに積んでいる。
 対価として要求されたのは能力でもなんでもなく、純粋なマドル。相当な額だったが、この店で働いた時の報酬と貯蓄のほぼ全てを注ぎ込めば支払いは不可能ではなかった。懐は極寒の域に達しているものの、食と住が保証されたナイトレイブンカレッジに勤めている間は、少なくとも死ぬことはない。
 そして支払いついでに先日の一件について、「他に安全な策があったのに何であの策を選んだのか」という質問を受けたヒトハは、それに真摯に答えた。

「そこは真剣勝負なので、タイマンがいいかと思って」
「貴女の口から『タイマン』なんて言葉が飛び出すとは思ってもみませんでしたよ」

 そのあまりに清々しい笑顔に、アズールは顔を引きつらせた。
 そうですか? と言いながらコーヒーカップに口を付ける姿は、つい先日死闘を繰り広げた人物には到底見えない。

「でも殴ったら痛いし、殴られても痛いし、ああいうのはやっぱり好きではないですね」

 ヒトハはそう嘆きながら、ほんの数日前の出来事をしみじみと思い出していた。
 あれはすでに体力を消耗していたうえにドーピングでさらに身体を酷使した酷い戦いだった。思い返しても、あれだけ壮絶なものは初めてだろう。魔法薬の副作用も、あの毒ほどではないにしても酷い苦しみだったので、もう二度と使わないつもりだ。
 あんなものを使って大学入試に合格させようとしていた学生時代の魔法薬学の教師は、やはりとことん捻くれているに違いなかった。「占いが得意」と豪語し、あの魔法薬の存在を知らせてきたことだけは感謝し尽くしてもしきれないが。

「それに私が勝つと大体みんな『卑怯』とか『人の心がない』とか言うんですよ。だからこういうの向いてないんですよねぇ、きっと」
「いえ、かなり向いていると思いますが」

 アズールが眼鏡を押し上げながら早口に言う。ヒトハは「えぇ……?」と不服そうな声を漏らした。

「大体、向いてないと言うくらいなら僕の作戦に乗れば良かったんです。もっと安全かつスムーズでしたよ」
「まぁ、そうなんですけどね。でもそれだと自分が納得いかないから」

 アズールにしてみれば今回の策は効率が悪く、リスクが高いものだった。しかしヒトハはそれらを犠牲にしてでも自分の策の方がいいと思ったのだ。そうしなければ、たとえこの学園に残れるようになったとしても、後悔が残る。それはヒトハにとって本意ではない。

「まぁ、いいでしょう。雑談はほどほどにして、今回は支払いの件でしたね」

 アズールがそう言うと、ジェイドがどこからか契約書を取り出して、さっと広げた。

「いただいた依頼は三件。一つは『犯人を探しているという噂を流すこと』、もう一つは『魔法力と魔力増強の魔法薬を用意すること』、そして最後に『犯人を探している噂をなかったことにすること』。こちらは予定通り、やはり毒薬の誤飲だったのと、怪我の件は階段から落ちた事故で処理しておりますが、よろしいでしょうか?」
「ええ、構いません」
「かしこまりました。それにしても、犯人捜しの噂を流して自分を狙わせるなんて豪胆ですね」
「ふふ。犯人が学園にまだ残っていてくれて本当によかったです。最悪なのは、ここまでして狙われないことでしたので」

 今回の作戦で最も困るのは、犯人が学園から逃げてしまっていることだった。しかし事件後の生徒の徹底した管理やクルーウェルの言葉、ヴィルのような協力者の見回りでその可能性は低いと踏んでいた。それでも可能性がないわけではなかったから、狙い通り犯人が“見つかる前に殺す”という選択肢を取ってくれたのは幸運以外の何物でもない。エースの言った通り、やはりツキが回ってきていたのだ。
 アズールは満足げなヒトハを見て「それは『よかった』とは言えないのでは……」と苦々しく顔を歪めた。

「ああ、そう、支払いはこちらで結構です」

 アズールは突然、思い出したかのように目の前に積まれたマドル束の三分の一を手前に引き寄せた。最初に言われていた額から大幅に減らされて、ヒトハは首を捻る。

「あれ? いいんですか?」
「ええ、うちの寮生たちが大変お世話になっていますし。それに、貴女のような羽振りのいいお客様は久しぶりですので。お得意様価格とでも言いましょうか。次回のご依頼もぜひ当店に」
「えっ、でも……」
「あのさぁ、タニシちゃんが仲良くしてるうちの寮生、結構頭いーからアズールは貸しを作りたいの。わかる?」
「フロイド」

 アズールの咎める声に、フロイドはにやにや顔のまま口を閉じる。
 自分と仲良くしているオクタヴィネルの寮生といえば、あの三年生の三人組だ。バイト仲間で、今回の命の恩人でもある。先輩に引き続き、知らぬ間に強いカードを引いていたらしい。
 ヒトハはそれを聞いて、少しだけ目の前の彼らより優位に立てたような気がした。これはとても珍しいことだ。

「ほんの少しの口利きならいいですけど、悪いことには加担させませんからね」
「当然です」

 言質を取ると、ヒトハは手元に残ったマドル束をさっと引き寄せて、気持ちよく笑った。

「では、お言葉に甘えて! ありがとうございます!」

 全ての用事を終えて席を立ったヒトハは、見送りを丁重に断って扉へ向かった。あまり丁寧に接されても疲れるだけだし、なによりあのバイト事件が未だに頭に残っていて、少し疑心暗鬼になっている。
 代わりに先回りしていたジェイドが扉を押し開けてくれた時、彼は思い出したように一つ疑問を口にした。

「これは個人的な興味なのですが、ああまでして学園に残りたかった理由を教えてはいただけないでしょうか?」

 ジェイドらしからぬ質問にヒトハは二、三度瞬きをして「だってモストロ・ラウンジ二号店、まだ見てないですし」と微笑み、そしてVIPルームを後にしたのだった。

***

 残されたアズールとジェイド、フロイドは今日一番の取引を終え、各々ソファに腰かけて仕事の後処理を始めた。

「それにしても、この学園にいたいだけで命まで賭けるとは大したものです。失敗したら死ぬばかりか犯人まで逃がすというのに」

 アズールは契約書を改めながら、なんとなくそう口にした。
 サバナクロー寮の寮生ならあれくらいの豪胆さは見せるかもしれないが、一見普通の女性に見えるヒトハがそれをやってのけるのは意外だった。モストロ・ラウンジでバイトをしている時の彼女はたしかに真面目で根性があったが、まさかあそこまでの度胸があるとは思わなかったのだ。
 ますます惜しい人材を失くした、と悔いているところに、まさかのジェイドから突っ込みが入る。

「いえ、ヒトハさんは多分、死ぬつもりもなかったですし、犯人を逃がす気もありませんでしたよ」
「はぁ?」
「どゆこと?」

 それにはアズールもフロイドも疑問を感じて声を上げる。そんな話は契約時に聞いていない。
 ジェイドはおもむろにスマホを取り出して少しだけ操作すると、二人にその画面を突き付けた。

「なにこれ? 生徒の写真?」

 フロイドが訝しげに問う。そこには生徒の胸から上の写真があった。視線も体の向きもカメラと異なる方向を向いていたが、はっきりとその容姿は見て取れる。これといって特徴のない、平凡な生徒だ。

「これは犯人の写真です」
「はぁ!?」
「なんで持ってんの!?」

 まさかの事実に二人は素っ頓狂な声を上げた。それが本当なら、こんな重要な写真がこんな所にあっていいはずがない。

「ヒトハさんが『自分が失敗したらこれを好きに使っていい』と送ってくださったんです。『ジェイドくんなら上手く使えるでしょう』、と」
「なんですって?」

 ジェイドがスマホの画面を見返しながら文面のまま話し、アズールはそれを聞いて慌てて眼鏡を押し上げた。もしジェイドという人物を正確に捉えてこの行動を取ったのだとしたら、ヒトハ・ナガツキという清掃員は恐ろしい人物である。

「ジェイドに情報を握られるくらいなら素直に捕まった方がましというもの。分かってやっているなら、それこそ人の心がない」
「おや、それはさすがに酷いのでは?」

 ジェイドは鋭い歯を見せながら笑った。

「それと透明になれるゴーストを味方につけていたので、死にそうになったら間に入ってもらうつもりだったのではないでしょうか? 即死があり得るので死ぬ可能性はゼロではないですが、限りなく低いかと」

 ジェイドの言うことが本当なら、彼女は勝つ要素を限界まで揃えて戦いに挑んでいたことになる。それならそもそも、大怪我覚悟であんな一騎打ちをせずともよかったのだ。

「つまり、犯人は挑発に乗らずに逃げても捕まる、負けても捕まるし、万が一勝っても捕まるのに、ただ『勝負がしたい』という理由だけで一騎討ちを強要されていた……。彼女、チワワの顔した闘犬じゃないですか」

 あの優しげな女性がそれほどまでの闘志を見せるなど、一体誰が想像しただろうか。彼女を知る生徒たちのほとんどは、ただ明るく気の良い女性くらいにしか思っていない。
 アズールは以前ここでヒトハを酷使していた時のことを思い出した。あの時はクルーウェルが干渉してきたのを理由に手を引いたが、本当に警戒すべきは他でもない、彼女自身だったのだ。

「そういえば、クルーウェル先生はヒトハさんのことを“ジャックラッセルテリア”と喩えているらしいですよ」

 ジェイドがおまけ程度に言い、フロイドが「ふーん」と言いながらスマホを取り出す。
 親指を素早く画面に滑らせて数秒後、彼は画面を見ながら呟いた。

「……頑固で負けず嫌い、思い込んだら一直線、躾が難しい、だって」

 ジェイドとアズールはそれを聞いて「なるほど」としみじみと声を揃えたのだった。

***

「つまり、犯人の方が狼の檻に閉じ込められた子羊だったってわけ」

 ヒトハは爪の先まで手入れの行き届いた手がティーカップを持ち上げるのを目で追いながら「狼……?」と首を捻った。そして数日前に部屋の前で彼が言っていた言葉を思い出し、苦笑する。

「あの時はヴィル様には大変お世話になりました。本当にありがとうございました。それから、ごめんなさい」
「たしかに褒められた話ではないわね。でも、いいわよ。面白い話が聴けたから」

 ヴィルはカップに落としていた目をすっと上げた。ツイステッドワンダーランド中にその名を轟かせる彼の美貌は相変わらず息を呑むほどだったが、今はどこか年相応に好奇心に満ちた表情をしている。
 ヒトハは全て落ち着いてからというもの、世話になった人たち一人ひとりにお礼を言いに回ることにした。その一環でポムフィオーレ寮に訪れたのだが、逆に豪奢な談話室でもてなされてしまい、今に至る。
 ヴィルは所属する映画研究会で制作する映画の参考に、ヒトハの武勇伝が聴きたいのだという。さすがに参考にはならないのでは、と思いつつも、ヒトハは毒で倒れる前日からの話を事細かに語った。ストーリーの展開からして、前日からの話があった方が少しはドラマチックに聞こえないだろうかと趣向を凝らしてみたのだ。
 ヴィルはヒトハの話を全て聴き終えると、今回の出来事をこう評した。

「B級もいいとこだけど、なかなか痛快じゃない。ヒーローを置いて勝手に敵を倒しちゃうヒロイン、嫌いじゃないわね」

 ヒトハはそれを聞いて「それはなによりです」と笑った。
 現実は映画のようにドラマチックにはいかないが、その分お決まりではない展開だって起こる。今回はクルーウェルから説教中に散々聞いた「お前はいつも俺の想像の斜め上を行く」がヴィルにはウケたようだ。
 こうして一通りの話をして感謝と謝罪を伝えると、ヒトハの今日の目的は完了となる。しかしヒトハには、どうしても最後に聞いて欲しい“お願い”があった。

「あの、ヴィル様。こんな場で言うのもなんですが、実は一つお願いがありまして」
「あら? いいわよ。やり方はどうあれ、事件解決のために奮闘したんだもの。敬意を表さなければね」

 ヴィルはヒトハのお願いをすんなりと受け入れて、「それで?」と少しだけ身を乗り出した。
 さすがは世界的スーパーモデル。度量が大きい。と、ヒトハは喜びながらも躊躇いがちに携えてきた紙袋を漁った。そしてその中の物を両手に持つと、思い切って差し出す。

「あの、ファンです! サインください!」

 自分の写真集を前にしたヴィルといえばどんなメディアでも見たことのない顔で、それはヒトハの一生の宝物となったのだった。

***

 ヒトハが談話室を去ると、入れ違いに入室してきたルークがヴィルの前に置かれた二客のカップを見て「おや」と小さく驚いた。

「噂の彼女と話していたんだね」
「ええ、なかなか面白かったわよ。それより、あの子の話は口外しないようにね」
「もちろん心得ているさ」

 ポムフィオーレの副寮長であるルークは事件絡みでヴィルが不在にしていた間、寮を取り仕切り、寮長の不在を誤魔化すのに一躍買っていた。事情を知る数少ない人物の一人で、そして事件の中心にいたヒトハに興味を持った一人でもある。
 今も扉の方を見やり、うずうずとしている様子だ。

「ルーク、アンタまさかあの子を追いかけたりしないでしょうね」
「おや、どうして分かったんだい? さすがにヴィルの目は誤魔化せないかな」
「ふざけたこと言わないで。あの子に手を出しては駄目よ」

 ヴィルは呆れながらルークに釘を刺した。ルーク・ハントは狩りを得意とする。そのせいか、手強い人物を見つけるとつい追いかけたくなってしまう癖があった。例えばレオナ、さらにはマレウスまでもが対象で、今回その一人にヒトハを加えようとしているのだ。

「下手に突いてみなさい、怖いのが出てくるわよ。これは忠告。いいわね」
「ヴィルがそう言うのなら仕方がないね」

 ルークは名残惜しそうに肩を竦めてみせた。

「それより彼女、学園から出て行かずに戦うことを選んだのだね」
「そうよ。先生の言うことも聞かずにね」
「マーヴェラス! 自分の心に従って戦いを選ぶ。実に勇敢な選択だ」

 ヴィルはルークが大袈裟なまでにヒトハを称賛するのを見て、相変わらずだと呆れて笑った。
 彼は美しいもの、勇敢なもの、驚嘆すべきもの、心を揺さぶるもの全てに感じたことをあらゆる言葉を尽くして表現する。いささか大袈裟なところがあるが嘘はなく、ヴィルはルークの評価に信用を置いている。
 ふと、ヴィルは先ほどヒトハと交わした言葉を思い出した。

「アタシ、あの子に『事件解決のために奮闘したことに敬意を表する』と言ったけれど、今思えばちょっと違ったかもしれないわね」 
「と言うと?」

 ルークは思案するヴィルに興味深く見入った。自他共に厳しい彼がこうまで言うのはとても珍しいことだ。
 ヴィルは伏せていた瞼を開き、その答えをルークに告げた。

「恐怖に打ち勝ったこと」 

 そして宝石のように強く輝く瞳を細めて笑ったのだった。

「自分の中の恐れに打ち勝てるのは、絶対的な自信と、心の底から強く願った“願い”を持つ者だけよ」

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