魔法学校の清掃員さん

21-09 清掃員さんの願い

「ほら、やっぱり来た」

 フロイドは垂れた目を細めて深く笑んだ。隣で微笑を浮かべるジェイドは「ええ、少々遅かったですね」と棘のある言葉を口にする。
 ヒトハは首を反らせて彼らを仰ぎ見た。
 モストロ・ラウンジ。このオクタヴィネル寮の生徒が経営するカフェには絶えることなく学園中の生徒が訪れ、食事を楽しみ、歓談をする。彼らの店は表向き飲食店だが、知る人ぞ知るもう一つの顔があった。

「お待ちしておりました、ヒトハさん」

 遅れてやって来たアズールはVIPルームの革張りのソファの前に立ち、真っ白な手袋を胸に当てて言った。

「本日は何をお求めで? ああ、事情は結構。存じております」

 彼らには何もかも見透かされているようだったが、ヒトハはそれを意外とは思わなかった。レオナが自力で答えを推測できるのなら、彼らは自力で調べて答えにたどり着く。それも憶測ではなく、事実に。
 アズールは向かい側に立つヒトハに座るよう手で促すと、自身もゆっくりと腰掛けた。

「何でもお申し付けください。きっと、貴女の助けになります」

 真面目なメガネの向こうで、アズールは目を細めた。深海の商人は願いを叶えてくれる。あらゆる手段を使い、あらゆる願いを。ただし、対価さえ払えばの話だが。
 ヒトハはアズールの目を見据え、静かに口を開いた。

「対価は問いません」

 ヒトハは彼らに願うことを、ここに来るまでの間にすでに一つ決めていた。
 全てのチップを賭け勝負に出る。
 彼らに求めるのはそのために必要なもの。目の前に引かれた白線の先へ行くための、手段だ。 

***

 かつて、全てを投げ打っても叶えたい願いがあった。その願いを叶えるためなら体裁も気にせずがむしゃらに走れたし、前だけを見ていられた。けれどいつしか大人になって体裁を学び、振り返り、諦めることを覚えてしまった。引かれた線の先へ進むために努力をするよりも、他の道を探した方がずっと効率がいいと気づいてしまったのだ。だってそうした方が、心も体も傷つかない。誰にも心配も迷惑もかけないし、なにより楽だった。
 けれど今必要なのは、かつての自分だ。
 振り返らず走る。完走するまで立ち止まらず、怯まず、自分にできる最大限の努力をする。

(“やれるか”じゃない。“やる”の)

 ヒトハは燃えるような夕焼けを浴びながら何度も自分に言い聞かせた。部屋の近くまで付き添ってくれたリーチ兄弟と別れると、興奮から鳴りを潜めていた不安と恐怖がじわりと戻ってきたのだ。
 もう決めたのだから、躊躇ってはいけない。昔できていたのなら、今だってできるはずだ。

(でも……)

 油断をすると胸に忍び寄る影があった。
 アズールとの取引は問題なく、今後の計画も立てた。粗削りだし完璧ではないが、残り二日と思えばそれも仕方がない。
 しかしやはり、今一つ足りていないのだ。全てを賭けると覚悟を決めても、肝心な時に一瞬でも躊躇いを見せてしまったら、そこで足元を掬われることになる。それに万が一命を奪われ、犯人に逃げられでもしたら――恐らくこれが、一番阻止しなければならないことだろう。

「あ、ヒトハちゃん。安静にしなさいって言われてたのに、どこ行ってたの?」

 ヒトハはのんびりとしながらも不服そうな声に足を止めた。部屋の前で先輩が何かを手にして、珍しくご立腹の様子である。

「部屋でお腹を空かせてないかと思って、夜ご飯持って来たんだよ。シェフの友達に頼んだ特注なんだから、温かいうちに食べないと」

 先輩は「安静にするように」と口酸っぱく言っていた保健室の先生の言葉を覚えていたようで、気を遣って夕食を用意してくれたらしい。シェフの友達、といえばゴーストに違いない。先輩は大勢いるゴーストの中でも古参のようで、学園中に交友関係がある。
 ずい、とヒトハの前にトレーを差し出しながら、先輩はふとヒトハの胸元を見た。

「土がいっぱいついてるよ?」
「え?」

 ヒトハは胸元を見下ろしてぎょっとした。白いエプロンに湿った土の跡がしっかりと付いている。今も片手に持っているマンドラゴラを埋葬しようとした時に付いたものだろう。
 こんなわんぱくそうな恰好に神妙な顔をしながら歩き回っていたのか、と思うとヒトハは急に恥ずかしくなって慌ただしく土を手で払った。モストロ・ラウンジの三人は知っていながら指摘しなかったのだろうから、本当に人が悪い。
 その時胸元のみならず膝のあたりまで汚していたことに気が付いて、ヒトハはスカートを揺らした。

「あれ? 何か落としたよ」

 と、先輩がトレーを持ったままヒトハの足元を覗き込む。
 落ちていたのはエースから貰ったトランプ。そのうちの一枚だった。エースが「ツキが回ってきた」と言うくらいだから、お守りにでもならないだろうかとポケットに忍ばせていたのだ。
 先輩はその一枚だけを持ち歩いていたのが気になったようで「トランプ?」と不思議そうに言った。

「ああ、えっと、これは記念品で」
「記念品?」

 半端に説明をしてしまったせいか、先輩はますます不思議そうに首を傾げた。

「これはブラックジャックっていうゲームの……いや、実際やったのはアレンジ版なんですけど」

 ヒトハが手にしているのはAのカード。このカードはカードの数字を合計21に近づけるブラックジャックにおいて、10と組み合わせることで最高の手札となる。それはこれが“1もしくは11”の最小と最大を兼ねる最も柔軟なカードだからだ。
 ヒトハはふと、カードから顔を上げて先輩のもっちりとした姿を見た。
 今目の前にいる彼は一人だが、この学園には彼のようなゴーストが数えきれないほど多くいる。彼らはこの学園で長い時を過ごし、学園中を知り尽くし、そして何より――死んでいるのだ。

「……先輩」
「ん? なぁに?」

 先輩はきょとんとして聞き返した。

「手伝って欲しいことがあるんです」

 あの毒で倒れた清掃員が、毒を盛った犯人を探しているらしい。
 そんな噂がひっそりと急速に広がったことは、職員たちの頭を大いに悩ませた。そしてそれがヒトハの耳に入るには、そう時間はかからなかった。好奇心旺盛な生徒たちがこぞってそれらの情報を持ち込んで、否定すればするほど炎は煽られ、大きくなっていったのだ。噂とは、そういうものである。
 次の日、ヒトハはいつもの清掃員服に身を包み、段ボールを部屋に運んでいた。表向きは部屋の片づけだが、この学園にいるほんの一握りの人たちはそうとは思わないだろう。
 その途中、ヒトハはセベクに手伝いを頼んだ。彼は「なんでじっとしていないんだ」と呆れていたものの、なんだかんだと言いながらも昼休みの時間を少しだけ割いてくれたのだった。

「もう体調はいいのか?」
「ええ、おかげさまですっかり良くなりました。そういえばあの小説、とても面白かったですよ」

 あの小説、というのはヒトハが保健室で暇をしていた時にセベクが持ち込んだ本だ。
 彼は自分の選んだ本を気に入ってもらえたのが嬉しかったのか、「そうか!」とにっこりとした。こうして見ると子犬のようでなかなかに可愛らしい。若様の前ではよくこんな顔を見せているのだろうな、と思うと、若様が少し羨ましくなる。

「そういえば、なにやら物騒な噂があるが大丈夫か?」

 セベクは畳んだ大きめな段ボールを抱え直しながら、不安そうに言った。
 今この学園で最も熱い噂はセベクの耳にも入ったらしい。あまりこういった話には興味を持たない彼が知っているくらいなので、この様子ではかなり広範囲に広がっているのだろう。二人で歩いている最中にもチラチラと向けられる好奇の目は、間違いなくあの噂のせいだ。

「みんな暇なんですよ。否定してるんですけど、面白い話だからすぐ広がっちゃって」

 ヒトハは「しばらく大人しくするしかないですね」と笑った。生徒たちにとっては、この賢者の島という隔離された場所の、さらに狭い学園内での出来事が全てなのだ。少し変わった話題があればすぐに信ぴょう性を持って広がってしまう。モストロ・ラウンジでバイト仲間達に疑われた『クルーウェルとの仲について』がいい例だ。
 セベクはそんな様子のヒトハを見て途端に真剣な顔をすると、眉をぐっと吊り上げた。

「なにも面白くない話だ。いらん噂をされて、迷惑をしているのだろう?」

 静かな怒りを孕んだ声に、ヒトハはハッとした。彼はヒトハにとって不快であろう噂に、本気で怒ってくれているのだ。

「……そうですね。怒ってくれて、ありがとうございます」

 いつもであれば驚いてしまう彼の怒りが今日ばかりは優しく感じて、ヒトハは寂しく微笑んだ。
 たくさんの出来事とこれから挑むことに気を取られて、すっかり忘れていた。こうして自分を心から心配してくれる人たちのことを裏切って、危ないことをしようとしているのだ。

「ごめんなさい……」

 口の中で小さく呟いた言葉にセベクは「なんだって?」と眉を顰めて聞き返す。
 ヒトハはかぶりを振った。

「落ち着いたら、また紅茶をご馳走してくださいね」

 彼は目を丸めると「とっておきを淹れてやろう」とにっこりとしたのだった。

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