魔法学校の清掃員さん
21-05 清掃員さんの願い
翌日、実質保健室での軟禁状態となったヒトハは、やることもなく暇を持て余していた。
ナイトレイブンカレッジの広い保健室には一通りの設備があり、水回りが充実しているおかげで一歩も外に出ることなく生活ができる。
保健室を主な仕事場とする養護教諭こと保健室の先生はほとんど監視役で、寝ていることに飽きて歩き回ろうとするヒトハを見つけてはベッドに沈めた。彼は「あれだけの毒に侵されたら普通は数日間は動けないはず」とぼやいていたが、クルーウェルお手製の魔法薬を常用していたヒトハに普通は通用しない。彼は驚異の回復力で病人らしからぬ落ち着きのなさを発揮するヒトハに、驚くどころか大いに呆れた。
クルーウェルはというと、宣言通り夜と朝には顔を見せ「何か欲しい物はあるか?」と尋ねては世話をしようとする過保護ぶりを見せた。とはいえ数日で解放されるだろうとたかを括っていたヒトハには、必要なものはあまりない。自室から着替えを持って来て欲しいと頼むと、クルーウェルは変な顔をしながら「女性職員に声を掛けよう」と言って購買部の高級プリンだけ置いて帰ってしまった。結局、女性職員が新品の衣類を持って来てくれることとなったのだが、これが経費なのか奢りなのかツケなのかは定かではない。
こうして八割方ベッドの上で暇をしていたヒトハの元に他の訪問者が現れ始めたのは、その日の放課後からだった。
マジフト部の生徒が怪我で保健室に訪れたことから始まり、まぁなんとか回復したらしいと聞いた親しい生徒が顔を出しては、まだ保健室の先生から許しの出ていないお菓子を積んでいく。見舞いというよりはお供えに近い光景だったが、その気持ちだけでもヒトハには十分嬉しいことだった。
翌日には休み時間の合間にセベクを始めとしたディアソムニア寮の生徒たちの顔も見ることができた。聞けば倒れた際に彼らが素早く対応してくれたおかげで処置が間に合ったのだという。あの日クルーウェルを呼んでくれたのはセベクなのだと聞いて、ヒトハは読書感想会で「助けてやるからそれまで死ぬな」と彼が言っていたことを思い出して涙ぐんだ。彼はきっちりと約束を守ってくれたのだ。
「マレウスもなかなかいい活躍ぶりじゃった」
リリアはマレウスの活躍もよく賞賛した。彼は他の生徒や先生たちにはできない芸当、魔法による瞬間移動をヒトハのために使ったのだ。
「若様、ありがとうございます」
「いいや、無事で良かったな」
今日ばかりはセベクも吠えず、ヒトハにはそれが少し面白かった。
保健室の先生やクルーウェルからはオクタヴィネルのバイト仲間たちもよく働いてくれたと聞いた。彼らは想像していたよりもずっと優秀な生徒だったらしく、それはクルーウェルに「将来はここで働けばいい」とまで言わしめたほどだ。そうなってくれたら、ヒトハとしてもこれほど嬉しいことはない。
この学園に来なければこんな目には遭っていなかったが、この学園に来なければこの縁には恵まれなかった。
ヒトハはすっかり手袋なしで過ごしている両手を見下ろしながら、今日あった出来事をポツポツと口にした。灯りがほとんど落ちてしまった夜の保健室。薄暗いベッド横の簡易な椅子で足を組み、クルーウェルはヒトハの手を取ってなにかの呪文を口にする。
それはこの保健室で過ごし始めた日の夜から彼が必ず行って帰ることだった。何なのかと聞けば“おまじない”なのだと言う。
「どんな“おまじない”なんですか?」
「さぁ? なんだろうな」
クルーウェルはとぼけるように答えるだけでなにも教えてはくれない。回復魔法に近いものだろうか。ヒトハが学んできた魔法には近いものが見当たらず、結局よく分からないままだ。
「早く仕事に復帰しないと」
クルーウェルのおまじない同様に、ヒトハも毎晩そう呟いた。先輩たちに仕事を任せっきりなのは申し訳なく、一刻も早く復帰しなければならない。
彼はヒトハのその言葉を聞くたびに複雑そうな表情を浮かべて「そうだな」と返したのだった。
「あっ、マズい」
ヒトハがそのことを思い出したのは、保健室での軟禁生活四日目のことだった。
やることもなく静かな窓の外を眺めて春の草花を愛でている最中、ぼうっとしていたヒトハの頭に電撃のように思い出されたのは、自室に残してきた小さな命――観葉植物の水やりのことである。
この学園で働き始めの頃に植物園から譲り受けたへんてこな形の観葉植物は、いまや大切な同居草と言っても過言ではない。なのに自身が大変な目に遭っていたせいで、一日一回の水やりのことが頭からすっかり抜け落ちてしまっていた。もしかしたら、もう萎れるか枯れるかしているかもしれないが、一度気になってしまったからにはどうなっているのか確認しなければ気が済まない。
ヒトハはベッドから下りて保健室をぐるりと回った。
「先生……いないんだった……」
広いわりにがらんどうの保健室には、今現在自分ひとりしかいない。保健室の先生は仕事で少し部屋を空けると言って、あと一時間は戻らないのだ。もう体調もかなり良くなったし、そろそろ家に帰らせてもらえないかと思ったのだが。
ちょっとだけ帰ってもいいだろうか、とヒトハは保健室の入り口の前に立って扉に手をかけようとした。
「ん?」
扉に触れる直前に、ふと手を止める。手袋のない指先にわずかに魔力を感じるのだ。
腰から杖を抜き取って先を向け、ほんの少し解析してみると、どうやらこの扉には魔法による施錠がされているようだった。
以前クルーウェルがやってみせた魔法薬学室に鍵をかける魔法に近い。それは魔法によって開けることが可能な簡易的なものだが、開ける際に“誰が開けたのか”の形跡が残る。魔法士相手には効果の高い魔法だ。
通常の施錠に加えて魔法までかけて行く厳重さに首を傾げながらも、ヒトハはこの扉には手を触れないことにした。無理に開けてもいいが、こうまでしているからには勝手に開けない方がいいだろう。
代わりに目を付けたのは、ベッド近くにある窓だ。
日中は換気のためにほとんど開け放っていて、人ひとりくらいは余裕で通ることができる。高さもそれほどではなく、ヒトハはその窓枠に手をかけた。
「よっと」
とん、と跳ねれば簡単に片膝が乗る。ナイトレイブンカレッジの保健室は校舎の一階にあたり、出るのも戻るのも少しの風魔法さえあれば難しいことではない。
ヒトハは着地に風魔法を使い、窓を閉じ、そこに魔法による施錠をした。
久しぶりの魔法だったが、思ったよりも調子がいい。ヒトハはそのまま久しぶりの外を束の間楽しむように、小走りで自室へ向かった。
今日はちょうど休日ということもあり、大半の生徒が寮内で過ごしている。職員の姿もほとんど見られず、ヒトハが自室の前に辿りつくまでの間、誰とも会うことがなかったのは都合のいいことだった。
ヒトハは扉を前にして、数日ぶりの我が家に妙な感慨深さを抱いた。たった数日の留守なのに、もうこんなにも懐かしく感じてしまう。あの非日常的な空間では、身体は癒えても心まで癒えることはない。
ヒトハが家の鍵を取り出し、それを鍵穴に持っていこうとしたその時、カッ、と警告のように鋭い靴音が響いた。
「触らないで」
その声は低いながらもよく通り、ヒトハの動きを止める力強さがあった。
カツカツと向かって来る音に振り返り、目を瞬く。その生徒は長身で細身、歩き方には足早ながらも品がある。遠目からでも中性的な整った顔立ちが目を引いて、ヒトハは思わず呟いた。
「ヴィ、ヴィル様……」
「あら、もしかしてアタシのファン?」
ポムフィオーレ寮長のヴィルは、唖然と自分を見上げるヒトハを見下ろして硬い表情を崩した。
ヴィル・シェーンハイト。世界的スーパーモデルでもある彼は、未だ接触のなかった生徒の一人だ。ヒトハは彼のことを個人的な趣味で一方的に知っている。つまり、彼の言う通りちょっとしたファンだった。恐れ多いと積極的に関わりに行くことはなかったが――今回の毒殺未遂事件で、ついに関わりができてしまった。あの日クルーウェルの補佐を務め、徹夜で解毒薬を作ってくれたのだ。
ポムフィオーレ寮はより強烈な毒薬を作れる者が寮長になることができる。この学園で最も毒薬に詳しい生徒として、これ以上ない人選だろう。
ヴィルはヒトハが鍵を挿そうとした扉を指で差し、「その扉」と言った。
「呪いがかかってるわよ」
「の、呪い!?」
ヒトハは素早く鍵を胸に寄せて後退った。
「アタシは毒も得意だけど、“呪い”も得意なの」
ヴィルは胸のマジカルペンを手に取ると扉に向けて軽く振った。
不気味な魔力の跡が浮かびあがり、すぐに掻き消える。明らかな悪意に、ヒトハは肌が粟立つのを感じた。
「せっかく助けた命なんだから大切になさい」
「あ……。ヴィル様も解毒薬を作るのを手伝ってくれたと聞きました。あの時は本当にありがとうございました。その、朝までかかったって」
「ええ、確かにその日は酷い徹夜になってしまったけれど、さすがに人の命に代えられるものはないわ。よかったわね、助かって」
ヴィルはペンを胸元に戻しながら小さく笑った。彼が微笑を浮かべるだけで場が華やぐ。ヒトハは思わずため息をつきそうになり、ぐっと堪えた。今は真剣な話をしているのだ。
ヴィルは内心落ち着かないでいるヒトハを見下ろして「それにしても」と声を低くすると、さっと周囲に目を走らせた。
「どうしてこんなに無防備に出歩いて……もしかして、先生から何も聞いていないの?」
「え?」
目を点にするヒトハに気が付いて、ヴィルは少し驚いたように「ふぅん」と呟いた。どこか探るような視線に、ヒトハは気まずく視線を逸らす。
「珍しいこともあるものね。でも、このまま何も知らないわけにはいかないでしょう」
ヴィルは再び扉に目をやった。何も知らされていなければ、呪いがかかっているだなんて思いもしないだろう。よく神経を尖らせれば違和感を抱く程度のものだ。
「この呪い、魔力の痕跡がいまいちはっきりしないの。魔法薬学室の保管庫にも似たものがあるけれど、呪いを封じたものをどこからか仕入れてきたのね。おそらく、詳しく解析しても知らない誰かさんにたどり着くだけでしょう」
ヴィルは先ほどとは別人のように冷ややかに言った。彼の低く抑揚のない声が、少しずつ今起きている出来事をヒトハの前で暴いていく。
「アンタを殺しかけた犯人はまだ捕まっていないし、アンタは犯人の顔を見ている。そして、この趣味の悪い罠。誰が何のために仕掛けたのか、もう分かるわよね?」
そしてヴィルは立ちすくむヒトハの前で、あたかも犯人であるかのように、うっすらとした笑みを浮かべた。圧倒的な美貌が、今は身を震わせるほど恐ろしい。
「アタシが犯人なら、アンタに見つかる前に殺すわ。今のアンタはさながら狼のいる檻に閉じ込められた子羊。……考えているよりも、ずっと悪い状況ってことよ」
「仔犬、脅し過ぎだ」
ハッとして振り返る。いつの間にかクルーウェルが背後に立ち、顔に苦々しさを滲ませていた。
「そうでしょうか? 先生こそ、過保護と優しさは違うのでは?」
ヴィルは一歩も引かず、クルーウェルの苦言に皮肉を返した。一時の沈黙を経て、ため息混じりに「それもそうだ」と折れたのはクルーウェルだ。
彼はヒトハの片腕を取ると、呪いのかかった扉の隣――空き部屋の方に向かった。すでに調べが済んでいるのか、その扉は躊躇うことなく開かれる。
「シェーンハイト、手間を取らせて悪かった。ここは俺がなんとかするから帰っていいぞ」
「……見張りでもしましょうか?」
「いや」
部屋にヒトハを押し込みながら薄く笑う。色素の薄い銀の瞳が一瞬だけ野性味を帯びたのを、ヴィルは見逃さなかった。
「俺の魔法を破ろうとするなら、そっちの方が都合がいい」
気をつけて帰れ、と添えられた言葉にヴィルは軽く息を吐いた。
(この前から珍しいものを見てばかりね……)
あの状態の彼に手を出せば手酷く返り討ちにされるに違いない。いくら寮長とはいえ、一介の仔犬が心配するだけ損というものである。
クルーウェルはやや乱暴にヒトハを部屋に押し込むと、杖で部屋に何重にも魔法をかけた。障壁、防音、感知とヒトハが知るものから知らないものまで手際よく部屋の守りを固めていく。それは彼がこの状況を最大限警戒しているからに他ならない。
「保健室で大人しくしていろと言ったのを忘れたのか?」
「ご、ごめんなさい……。体調もほとんど良くなったし、こんなことになってるって、知らなくて」
ヒトハは捕まれていた腕をそっと抑えながら項垂れた。
先ほど聞いたヴィルの話と自室にかけられた呪いという罠のことを考えると、そこまで考えが及ばなかったにしても、保健室から出たことは軽率だった。
――いや、本当は、頭の片隅に可能性を感じてはいたのだ。
ヒトハはこの状況に対して「まさか」ではなく「やはり」と感じてしまった自分を認めるしかなかった。ただ保健室でゆっくりしていた数日間、本当に平穏に過ごせていたから油断していたのだ。完全な想定外は、この安全な環境が誰かの手によって作られていたということである。
「見張りに保健室の先生がいたはずだが」
「それは、留守にしてたので、ちょっと窓から……」
クルーウェルは「窓?」と訝しむように言って、その盲点に気が付いたのか頭を抱えた。
「お前は……野生児か……? まぁ、はっきり言わなかった俺も悪い。シェーンハイトに言われた通りだな」
たしかにちょっと、いやかなり大人げないことをしてしまったことに気が付いて、ヒトハは顔を赤くした。生徒たちと過ごしている間に、振る舞いが当初目標にしていた大人っぽさからどんどん離れていっているような気がする。成人女性は普通、よほどのことがなければ窓から出ることはないが、この学園の生徒たちはそれをよくやって窓枠を汚しているのだ。
クルーウェルは魔法をかけ終わると、呆れながらもヒトハの前に立ち、少しだけ声を落ち着かせて話し始めた。
「大体のことは先ほど聞いただろう。ここ数日、まさかと思って事情を知る者だけで見回っていたんだが、今日ついに見つけてしまってな」
彼の言う事情を知る者、すなわち、解毒薬の調合に駆り出された生徒や教師のことだ。
今日出会ったヴィルもその一人で、彼は見回りの最中に呪いを見つけ、ここにクルーウェルを呼び出した。
クルーウェルはその呪いを見つけられたことを「運が良かった」としながらも厳しい顔をした。
「あれから学園内の出入り制限も厳しくしているし、仔犬どもの数も毎日きっちり揃っている。ということは、まだ学園内にお前の命を狙う者がいるということだ」
正式な生徒が犯人なら、生徒の総数で判断することが可能だ。抜けた穴が一番怪しいということになり、身元が割れる。
ヒトハはクルーウェルの話をそこまで聞いて、「あっ」と声を上げた。
「つまり、私がいれば犯人を見つけられるってことですよね?」
目撃者が生きていて、かつ、この学園から出られないのならば、犯人は先ほどヴィルが言っていたように見つかる前に殺そうとする。今回は罠だったが、向こうからの接触の可能性も十分にあるということだ。
しかしヒトハの冴えた閃きは、クルーウェルの疲れた声で打ち消されることになる。
「話を聞いていなかったのか? どうしてそうなる」
彼は重く長いため息をつくと、ヒトハの肩に手を置いた。
「ナガツキ、お前にとってこの学園はあまりに危険だ」
「それは……」
「いいから聞け。現在情報が開示されている職員の中にはお前を囮にするだとか野蛮な考えの連中もいるが、俺は反対だ。そんな不確かな方法でまた命を危険に晒すなど許してなるものか」
肩に置かれた手に力が入り、ヒトハは反射的に体を引こうとした。しかし逃げようとするヒトハを留めるように、その手にはいっそう強く力が込められる。
「だが、このまま無防備に保健室から出れば、否応なしに巻き込まれることだろう。不確かであれ、お前を使う方法が最も効率がいいことに変わりはない」
早口に言い切ると、クルーウェルはたっぷりと間を空けて「ナガツキ」と静かに言った。
「い、言わないで……」
考える間もなく、ぽろりとこぼれた。
つい先日の言葉の続きを、彼は言おうとしている。ヒトハはそれを直感で悟り、耳を塞ごうとした。その続きが何なのか、もう分かっているのだ。
聞きたくない。けれど、そうして逃げることをクルーウェルは決して許さなかった。
「保健室から出たら、荷物をまとめて極東に帰れ」
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