魔法学校の清掃員さん
21-02 清掃員さんの願い
翌日の昼休み、食堂の隅の隅でヒトハは昼食のリゾットを突いていた。大食堂のほとんどはもう生徒で溢れていて、端っこの柱の傍にひとり追いやられている。
今日のおすすめリゾットは見たことのないキノコの入ったもので、頭の片隅にあの兄弟の片割れが作ってくれた賄い食が何度もちらついた。ジェイド・リーチは海で生まれ海で生きてきたが、陸のこの学園へ通い始めて山を愛しキノコを愛し始めたのだという。あのクルーウェルですら一歩引くほどの曲者だ。よもや食堂にまで息がかかっているのではないかと勘繰ってしまう。
ヒトハはトレーに載ったグラスの水を少しだけ口に含み、そういえばと思い出した。少し離れた所にいつもの魔法薬の瓶と、水の入ったもう一つのグラスがある。
今日はクルーウェルが職員会議で不在で、いつものように魔法薬学室に行くことはない。事前に預かった魔法薬をひとりで飲まなければならないのだ。ホリデーの間も孤独に苦しみながら飲んだが、やたらに時間がかかった辛い思い出しかない。今から憂鬱だ。魔法薬を飲むために水をもう一杯用意したものの、果たしてこれで足りるだろうか。
そんなことを思いながら魔法薬とグラスを見つめていると、その先に白いカーディガンの生徒が現れた。生徒は元気の良い声で「ここいいか?」とヒトハに声をかける。
「ええ、どうぞ」
スカラビア寮長のカリムはにこにこと眩いばかりの笑みでヒトハの向かい側に腰を下ろした。
カリムは洪水事件といいモストロ・ラウンジの件といい、なにかとヒトハに降りかかる不運に縁のある生徒だが、その性格は快活で優しく憎めない。こうして気軽に話すことも珍しくはなかった。
そしてカリムは学園生活のほとんどを副寮長のジャミルと過ごしている。今日もカリムから一歩下がった所にジャミルがいて、彼はヒトハに軽い挨拶をすると、カリムに「少し待ってろ」と言い残して厨房へ向かった。
彼は熱砂の国の大富豪の息子であるカリムの従者なのだという。学生なのに学問に加えて仕事もしなければならないのは、セベクやシルバーに似ている。その大変さはヒトハには想像もつかないことだ。卒業した学校は平凡な魔法士養成学校で、レオナのような王族もいないし、カリムのような富豪もいなかった。名門校と名高いナイトレイブンカレッジならではのことなのだろう。
カリムは目の前の魔法薬を物珍しそうに見ながら「ひどい色だな!」と笑っている。これでは今からカリムが魔法薬を飲むかのように見えなくもない。代わりに飲んでくれたらありがたいことだが、そんなことにでもなったらジャミルに叱られるだけでは済まされないだろう。
ヒトハはそこでふと、カリムが何をするわけでもなく食堂を見渡して楽しそうにしていることに気が付いた。
「あれ? お昼ご飯は食べないんですか?」
「ああ、オレはジャミルの作ったものしか食べないんだ。ジャミルの作った料理はうまいぞ! 今度うちの寮に食べに来いよ!」
「そういえばそうでしたね。ええ、ぜひお邪魔させてください」
それは彼がモストロ・ラウンジでも言っていたことだった。ジャミル曰く「何があるか分からない」とのことだが、これにはどうやら実家に関わる複雑な事情が絡んでいるらしい。これはあのモストロ・ラウンジ事件の後にクルーウェルから聞いたことで、教員である彼が口にするということは周知の事実でもあるようだった。
このナイトレイブンカレッジは各地から生徒を集めている都合上、こういった複雑な事情を持つ子は少なくはない。ヒトハは特に彼らの事情に踏み込むつもりもなく、カリムの厚意を素直に受け取った。スカラビア寮の宴はそれはもう豪奢なのだという。一度でいいから見てみたいと思っていたのだ。
「それで――あっ」
突然硬い食堂の床に金属がぶつかる音が響く。ジャミルの帰りを待つカリムと二言三言交わしたところで、ヒトハは手にしたスプーンをうっかり落としてしまった。大食堂の喧騒でもよく響く高い音にドキリとして、慌てながらテーブルの下に上半身を傾ける。
「大丈夫か?」
ヒトハがそうしていると、心配したカリムも同じようにテーブルの下に上半身を滑り込ませた。従者のジャミルが見たら卒倒しそうな光景だ。
そうして二人揃って「それじゃないか」「あれじゃないか」と机の下で言いながら腕を彷徨わせていると、ふいにヒトハの指先に棒のようなものが触れた。
「あった!」
ヒトハは自分の足元にスプーンを見つけ、それを取り上げて上半身を起こした。急に机の下から体を起こした勢いで、トンと背中に何かがぶつかる。
「あっ、ごめんなさい」
そう謝りながら振り返ると、生徒がちょうどヒトハの後ろを通り抜けようとしているところだった。食堂の長テーブルの間にある決して広くはない通路だ。大きな動作をしてはすぐに誰かにぶつかってしまう。
ぶつかった生徒はヒトハに一瞬視線を落としたが、すぐに逸らして足早に去って行った。一言も喋らなかったところを見ると寡黙なのか、よほど腹が立ったのか――しかし、ヒトハにはそのどちらにも見えなかった。
(なんだろう、あの子……)
その違和感はヒトハの胸をにわかにざわつかせた。あの目、あの表情は普段見ている生徒たちの持つものではない。明るい子にも、大人しい子にもある生気がなく、ただぽっかりとした空虚なものを感じたのだ。
「あ! 見つかったのか!?」
カリムのその声で意識を引き戻され、ヒトハは「ありました」とぎこちなく答えた。片手に落としたスプーンを持って見せると、カリムは「良かったな!」と明るく笑う。
「カリム、戻ろう」
「あっ、ジャミル」
問題が解決したところで用事を済ませたジャミルがカリムの元へ戻って来た。厨房の巨大な保管庫に預けていたのか、はたまた譲ってもらったのか、両手に食材を抱えている。
カリムはジャミルが戻ってきたと知るやいなや、ぴょんと立ち上がった。
「ヒトハ、じゃあな! 今度宴に招待するから来てくれよな!」
ジャミルはヒトハを見下ろすと少しだけ口元を緩め、「失礼します」と言い残してカリムを連れて去っていく。
ヒトハは二人に手を振り見送ると、落としたスプーンに視線を戻した。交換をしに行かなければ残されたリゾットを食べることができない。が、なんだか腰が重い。
ふとテーブルに置いていた魔法薬を先に片付けようかと思い立ち、ヒトハはそれをおもむろに手に取った。いつもよりぐっと力を込めて蓋を開けると、いつもの得体の知れない嫌な臭いが漂ってくる。
ヒトハは少し離れた所に置いていたグラスを引き寄せ、ひとつ息を吐くと魔法薬を一気に喉に流し込んだ。胃が拒絶するほどの気持ち悪さを抑え込むために、用意していたグラスを手に取る。
そしてそれを再び一気に煽り、テーブルにグラスを置いて一息ついた時、ヒトハは小さく首を傾げた。胃から胸のあたりに妙な違和感がある。
(……なんだろ?)
魔法薬によっては効果が出る時に痛みなどの異変が起きるものも少なくはないが、この味は間違いなくいつもの魔法薬のはずだ。あのクルーウェルが調合を間違えるわけがない。
不審に思いながらも空の瓶に目を向けたその時、抑え込んだはずのものが急に迫り上がってくる感覚がヒトハを襲った。
「――――っ!」
なんの前触れもなく吹き出す冷や汗に、思わずテーブルに手を突いた。勢いで皿が跳ねて途端に周りが静まり返ったような気がしたが、それが生徒たちによるものなのか、自分の耳がおかしくなったからなのか判断がつかない。鼓膜をぶち抜くような酷い耳鳴りがする。
「う」
咄嗟に口元に手を当てる。しかしヒトハは口から溢れ出るものを抑えることができなかった。あまりにも唐突で、それを受け止めるにはとてもではないが片手では足りない。指の間から滴る赤色は、自分のものだというのに酷く不気味だった。
視界が激しく揺れる。空気を求めるように速まる呼吸が、自分に尋常ではないことが起きていることを示していた。あまりに唐突な異変に思考が追いつかず、この苦しみにただただ耐えることしかできない。
口の中に広がる生々しい鉄の味が気持ちが悪い。全部吐き出したはずなのにまだ溢れようとするものが気持ち悪い。妙な寒気に指が震えて――もはや、震えているのかも分からなくなった。
急速に思考が剥ぎ取られ、何も考えられなくなっていき、そしてヒトハの意識は、ブツリと途切れたのだった。
***
大食堂が騒がしいのはいつものことだ。こうして昼休みの時間になると学園中の生徒たちがこの場所に集まるからだ。
セベクはいつものように授業が終わると同郷のマレウスとリリア、シルバーと共にテーブルを囲んだ。人の集まる場所はマレウスのような高貴な身分の者には危険が多い。いっそう気を引き締めねば、とセベクがきのこのリゾットをスプーンで掬い上げた時のことだった。
食堂の隅、自分たちのいる場所からテーブルを一つ挟んで向こう側で激しい物音が鳴った。この昼休みの喧騒の中でも響く重い音。誰かが倒れたかのような音だ。マレウスの護衛として訓練を積んだシルバーもセベクも、その師匠であるリリアも、そういった音には特別敏感だった。
じっと耳を澄ませて状況を探るセベクの耳に「ヒトハさん」と囁き声が聞こえだす。セベクは思わず手にしたスプーンを置いて立ち上がった。視線の先に人だかりができ始めている。まさか、まさか――と考える間にいち早く背を押したのはリリアの手だ。
「嫌な匂いがする。見に行くぞ」
珍しく切迫した声に嫌な予感を抱きながら、セベクは集まり始めた野次馬を掻き分け、その中心に飛び込んだ。
「ヒトハ!?」
むっと充満する不快な匂い。――死の匂いだ。
数人の生徒がヒトハの肩を揺さぶって声をかけるが、力なくテーブルに伏した頭が応えることはない。彼女の首筋からは血の気が引き、いつもの血色の良い肌は色をなくし始めていた。
伏した時にぶちまけてしまった食器やグラスは無残なもので、それらは上塗りされたかのように赤く染まっている。
一瞬足を止めてしまったセベクの脇をシルバーが通り抜け、ヒトハの頭を両手でぐっと傾ける。
「親父殿、毒です」
シルバーがリリアに囁く。
「これはちとマズいな」
二人の師匠でもあるリリアの判断は、この場にいる誰よりも信用のおけるものだ。
続けて、おや、とリリアが小さく驚いた声を上げる。セベクの隣で静観していたマレウスが静かに歩み出ると、テーブルに伏せるヒトハの腰に腕を回したのだ。
「若様……!」
「構わない。お前の大切な友人なのだろう?」
マレウスはそう言ってヒトハを難なく抱え上げた。制服の袖に生々しい赤色が移る。
大切な友人――その言葉に、セベクはやっと夢から覚めるような心地がした。大切な友人が死にかけているのに、じっとしているわけにはいかない。なぜなら自分は、彼女に「助ける」と約束をしたのだ。
「マレウスの魔法でも毒の治癒は難しかろう。とりあえず“保健室”じゃ!」
リリアはマレウスに言って背中を軽く叩いた。早く行け、と急かしている。
マレウスの魔法であれば保健室までは一瞬だ。悔しいことに、自分の足で運んでは時間がかかりすぎる。セベクは全く相応しくない振る舞いであると自覚しながら、マレウスの前で首を垂れた。
「若様、どうか、どうかお願いいたします」
主に友人の助命を乞うなどありえないことだ。けれど約束を反故にすることもまた、このマレウス・ドラコニアの騎士としてありえないことだ。そうであるならば主の手を借りなければならない自分を受け入れるしかない。
マレウスは目を大きく見開き、ふっと細めた。
「安心しろ。瞬きの間だ」
光の粒が舞い、マレウスはヒトハを連れて、それこそ瞬きの間に姿を消した。
続けてパン、とリリアが手を叩く音に視線を引き戻される。リリアはテーブル上に散乱するものを集め始めるオクタヴィネルの生徒たちを横目に見て、「あっちは大丈夫そうじゃな」と感心したように言った。
解毒薬の調合にはどんな毒薬が使用されたかを解析するところから始めなければならない。症状で推測できなくもないが、現場に毒薬が残っていればより確実だ。
「ほれセベク! しっかりせよ!」
リリアはセベクの背を力いっぱい叩いた。この小さな体から出る力とは思えないほどの強い衝撃に、セベクは思わず咳き込む。
見下ろすと赤く大きな瞳が強くセベクを見つめていた。
「さぁ、“解毒薬の調合が上手い先生”を呼んでこい!」
「は……はい!!」
この学園で最もこの分野に長けた教師、そして一番に知らせなければならない人物。
セベクは弾かれたように駆け出した。
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