魔法学校の清掃員さん
21-01 清掃員さんの願い
将来の夢。立派な魔法士になること。
いっぱい勉強して、魔法で誰かの役に立てるようになること。
使い込んだ教科書を開きノートに絶え間なくペンを走らせ、黒々としたページを前に希望と絶望を何度も行き来する。努力をすれば越えられない壁はないはずだと信じていた。目標のために身を削り、年頃の楽しみを切り捨てて、立ち塞がる障害をなんともない顔をして乗り越える。そうすれば、いつか――いつか。
けれど走って走って走って我に返った時、ついに認めてしまった。
越えられない線があり、進めない道があり、光の射さない暗闇はあり、自分は何者にもなれない。
本当は見ないふりをしていた。最初から分かっていたのだ。自分の願いは叶わないことを。
***
「『今すぐ魔法薬学室に来い』……?」
それはいつもの魔法薬を受け取る日の前日のこと。放課後のオンボロ寮でエースとデュース、オンボロ寮の監督生、グリムとトランプに勤しんでいたヒトハは、唐突にクルーウェルの呼び出しを受けた。スマホになんとも味気のない一文を送りつけてくる横暴な呼び出しだ。トランプは連敗記録を更新中だが次で勝てるような気もしていたし、夜にはあのヴィル・シェーンハイトが出演するサスペンス映画が放映されるというのだから、今日は暇ではない。暇ではないのだが。
「すみません、クルーウェル先生から呼び出されちゃいました。私、帰りますね」
「えー! いいとこだったのに!」
そう言ってブーイングをするのはエースで、ここ何戦か続けているポーカーの暫定一位だ。彼の前には高くチップが積まれている。
「ヒトハさん、オレたちより先生の方が大切なの……?」
「そ、そういうわけじゃないですけど……」
エースが演技がかった声で追い縋る。ヒトハから全てのチップを巻き上げるまで辞めたくないという魂胆が丸見えだったが、彼の意地の悪い問いにヒトハは言葉を詰まらせた。どちらも大切で、嘘でも優劣がつけられるほど柔軟な性格ではない。
「エース、先生の方が大切に決まってるだろ」
なにも言えないヒトハの代わりにデュースが大真面目に反論をしてくれたのだが、それがまたなんとも言い難い心地悪さである。
「ちょっとぉ~! ヒトハさん、詳しく聞かせて!」
「えっ!?」
「先生との話、聞きたいな~!」
わざとらしく色めき立つエースと興味津々の監督生の視線を振り切るように、ヒトハは素早く立ち上がった。勢いでオンボロ寮の床が不穏に軋む。
「――続きはまた今度! チップはそのままで!」
ヒトハはそう叫んで、自分の残りわずかなチップを指差す。そして逃げるようにオンボロ寮を飛び出したのだった。
閉まる扉の振動ではらはらと埃が舞い、残された三人と一匹は首を竦めて天井を見上げる。つい最近雨漏りをしたあたりが心配だ。雨が降るごとに雨水が染み出す天井には、相変わらず濃く滲むような染みが残っていた。オンボロ寮の名は伊達ではない。
何事もないことを確認すると、彼らはテーブルに置かれたカードとチップに視線を落とした。
「あいつ、チップ二枚しか残ってねーんだゾ……」
グリムの呆れた呟きに「ほんと律儀」とエースが重ねる。自分だったら無効にして帰ってしまうところだ。
ヒトハ・ナガツキという清掃員はこと勝負事においては勝つまで戦いたがる負けず嫌いで、とことん不正を嫌う、真面目すぎる性格であった。
***
オンボロ寮から魔法薬学室までの道のりは遠くはない。
ヒトハは薄暗い道を小走りで行き、橋を渡り、植物園の向かい側に建つ魔法薬学室へたどり着いた。この時間帯にここへ訪れるのは週に一度、クルーウェルに会う時だけだ。呼び出したからにはすでに中にいるのか、扉の隙間から光が漏れ出ている。ヒトハはいつものようにその扉を開いた。
「早かったな」
部屋の奥で教本片手にクルーウェルが意外そうに言い、ヒトハはそれに少しムッとした。唐突に呼び出されたものだから、オンボロ寮での勝負も放って走って来たのだ。少しくらい労ってくれたっていいのに。
「急にどうしたんですか?」
ヒトハは奥に向かいながら問いかけた。あの横暴な呼び出しの理由を、まだ聞いていない。
クルーウェルは教壇の前までやってきたヒトハに魔法薬を一つ差し出した。
「明日の放課後は職員会議で時間が取れなくてな」
「え? それなら明日の昼休みでも良かったのに」
ヒトハは両手でいつもの魔法薬を受け取りながら正直に呟いた。おかげさまでゲームを中断しなければならなかったし、おそらく映画にも間に合わない。彼も彼で暇ではないだろう。昼休みにちょっと呼び止めれば済む話だ。
しかし少し間を空けて「それもそうだな」とクルーウェルが返す言葉には、ほんの少し棘があった。急に不機嫌を滲ませたクルーウェルを不思議に思いながら、ヒトハは近くの椅子に腰を下ろす。ここ最近の定位置で、教壇近くに座るクルーウェルから数歩空けて斜め前になる場所だ。これがお互いちょうどいい距離感だった。
「ま、せっかくですし、少しゆっくりしていきます」
曜日は違えどいつものように腰を落ち着かせた二人は、ほんの少し上半身を前に傾けてお互いに体を寄せる。取るに足らない雑談は、大抵の場合こうやって始まるのだ。
「――で、お前も来るか?」
「へ? どこにですか?」
そろそろ話も尽きるかと思われた頃、ヒトハは近くにあった机の汚れから目を離して聞き返した。今日仕事で来た時にはなかった汚れが気になって、つい話を聞きそびれてしまったのだ。
「話を聞いていなかったのか」
クルーウェルは呆れたようにため息をついた。
「今度知り合いのデザイナーがブランド立ち上げのパーティーをするから、お前も来るか? と聞いたんだ」
「あ、あー……でも私、そういう所は慣れないというか、何を着て行けばいいのかも分からないので……」
何を言い出すかと思えば、自分とは縁もゆかりもないようなパーティーへのお誘いである。
ヒトハは渋って答えを濁した。想像しただけでも行きたくない。まして、クルーウェルの知り合いだ。素朴さからは遠くかけ離れた存在に違いなく、そんな所へ行って気苦労はしても楽しめる気はしなかった。
クルーウェルはヒトハが言い訳をしながら逃げようとしているのを察すると、少しだけ不服そうに言った。
「俺が作ってやっただろうが」
「あのドレスですか?」
彼が言うのは先日完成して受け取ったあのドレスのことだ。完成品はフィッテイングからまた少しだけ変わってサイズが正確になり、あの時言っていた手袋も添えられていた。極端に派手なものでもなく、あれならばパーティーの雰囲気にも合うのだろう。
とはいえ渋る原因がこれで解消されるわけでもなく、ヒトハはなおも反抗を続けた。
「でもほら、先生と並んだら赤と緑で目が痛いことに……」
そう、あのドレスは緑なのだ。つまり赤と白と黒の彼が隣に来ると色彩の暴力となる。そしてこの重箱の隅を突くかのような苦しい言い訳は、ついにクルーウェルの逆鱗に触れたのだった。
「まさか……俺が年中この服を着ているとでも思っているのか?」
「え? 違うんですか?」
「違う! 俺をなんだと思っているんだ!?」
激しい音を立てて立ち上がり、いつの間にか手にした指揮棒を風を切って唸らせる。クルーウェルはそのままその指揮棒で手のひらを苛立たしくしきりに叩いた。これはかなり立腹の時にする動作で、こうなってはヒトハは嵐が過ぎ去るのを待つしかない。
肩を縮こまらせて黙り込んでいると、クルーウェルはつかつかと靴を鳴らしながらやって来て、ぴっと指揮棒の先をヒトハの下あごに添えた。
「お前、俺の顔が好きなんだったな?」
クルーウェルが艶のある猫撫で声でとんでもないことを言い出して、ヒトハは思わず「はぁ!?」と強く言い返した。
「私、そんなこと言いました? 客観的に見て、先生の素敵なところの一つとしてお顔が美しいと私は言っ――ひぇっ!」
恐ろしい勢いで指揮棒が鞭のようにしなり、そして派手な音を立てる。その辺のものに叩きつけたわけではない。自分の手のひらに叩きつけたのだ。
痛くないんですか、と聞けば恐らく火に油を注ぐことになる。ヒトハはまだ言い返したい気持ちを堪えて口を噤んだ。いくら頑固だとか芯が強いだとか言われても、自ら火の中に飛び込むような無謀な人間ではないつもりだ。一方クルーウェルは青筋を浮かべながら、ヒトハににやりと笑ってみせたのだった。
「センスの欠片も持ち合わせないお前にも、はっきりと! この俺のセンスと! 魅力が! 伝わるように完璧にコーディネイトしてきてやるから覚悟しておけ。いいな」
「えぇ……。なんか凄いこと言い始めてますけど、行くとは言ってな……いっ、行きます!」
かくしてこの日、ヒトハは不本意な約束を結ばされた。
思い出されるのはオンボロ寮に残してきた二枚のチップ。今日は本当についていない。ついていないならいっそ、なにか不運な出来事が起きてパーティーとやらが中止にでもならないものか。ヒトハはこの時、不謹慎にもそう願ってしまった。
まさかこの“不運な出来事”が想像絶する威力で跳ね返ってくるとは、思いもしなかったのだ。
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