魔法学校の清掃員さん
20 清掃員さんと補習
ナイトレイブンカレッジへの入学が決まってからというもの、優等生になるのだと誓ってあらゆることに励んできたが、どうしてもまだ上手くいかないことがたくさんある。けれどそんな苦手も、不得意も、これから克服していけばいいのだとデュースは思っていた。
だから魔法薬学で失敗したこの日、放課後にクルーウェルの補習を受けることになったとしても酷く落ち込むようなことはない。目標に向かって努力する自分を、エースはたまに茶化してくるけれど。
***
放課後の魔法薬学室で、デュースはクルーウェルの補習を受けていた。彼の指導は丁寧かつ分かりやすい。しかしデュースにとって、一つ解決すれば二つ疑問が湧いてくるくらいに魔法薬学という教科は複雑で難しいものだった。クルーウェルが粘り強く質問に答えてくれることで、なんとか理解が進む程度である。彼は躾と称した厳しい指導と厄介な課題を出すことで有名な教師だが、そのプライドの高さゆえか、責任感からか、勉強が分からないという生徒を放り出すようなことだけはしない。根気は人一倍のデュースと相性が良く、こうしてクルーウェルと二人で魔法薬学室に缶詰めになる補習は珍しいことではなかった。
デュースは今日もいつも通り小テストの解説を聞きながらノートにペンを走らせていた。授業ではどうしても周りと足並みを揃えないといけないから、一対一で解説をしてもらえるのはありがたいことだ。自分に向けて分かりやすく説明してくれるし、解説途中の質問も遠慮なくできる。
「あの、先生……」
それはデュースがいつものように質問をしようと手を上げかけた時のことだった。今日はいつもと違い、補習中にもかかわらず魔法薬学室の扉が勢いよく開かれた。
「おつかれさまです!」
机で向き合っていたクルーウェルとデュースは、驚いて扉の方に素早く視線を走らせた。
慌ただしく飛び込んできたのは清掃員の制服を纏った女性だ。ヒトハ・ナガツキという極東の島国から来たこの女性は働き始めて早々に薬品で手を溶かし、今は治療のためクルーウェルの元に定期的に通っているという。とんでもない不運の持ち主だが、そこが入学早々シャンデリアを破壊した自分と重なって他人事とはどうにも思えない。いつも一緒にいる二人と一匹もそう思っているのか、彼女とは変な仲間意識のようなものがあった。
「あら? デュースくん」
「ヒトハさん、おつかれさまです」
ヒトハはデュースを見つけるなり、不思議そうに首を傾げた。
「補習中だ。薬はそこにあるから勝手に飲め」
クルーウェルが煩そうに教壇を指差して、「はぁい」と慣れたような声が返ってくる。
ヒトハはどこからか持ち出したグラスに水を注ぎ、手際よく準備をすると魔法薬を一気に煽った。彼女が飲んだ魔法薬はデュースが今まで見た中でも屈指の気持ち悪い色をした魔法薬だ。泥水でも入っているのかと思うほどで、魔法薬と聞いていなければ絶対に口にはしないだろう。
彼女はこっそりと「おえ」とえずいた声を漏らして一口に水を飲み切ると、ほっと息をついた。あれを毎週欠かさず飲み続けているというのだから、彼女の根性は並大抵のものではない。
ヒトハはデュースの視線に気が付いて小さく微笑んだ。
「何か飲み物持ってきましょうか。デュースくんは……紅茶の方が飲み慣れてますよね?」
「は、はい!」
「ちょっと待っててくださいね」
ヒトハはそう言って休む間もなく奥に引っ込んで行く。クルーウェルはそれを見送ってから説明を再開しようとして、ふと顔を上げた。
「いや、お前なんて所に私物を隠しているんだ」
「え? まさか知りませんでした? いつもここに仕舞ってありますよ。あ、ちゃんと綺麗にしてるので大丈夫です!」
と姿を見せないまま奥から元気な声が飛んでくる。
クルーウェルが「そうじゃない」と返すものの返事はなく、聞こえなかったのか聞こえないふりをしているのかは定かではない。きっとこのまま彼女の私物はこの魔法薬学室に置きっぱなしになるのだろう。頭痛がするのか、クルーウェルは額を抑えて「まったく」と嘆いた。
「はい、どうぞ」
しばらくして戻ってきたヒトハは、二人の前にそっとティーカップを置いた。ハーツラビュルで見るような柄が入ったものではないが、シンプルで形の良いカップだ。
そこそこ長く集中していたせいかクルーウェルは彼女のお節介に文句を言う気はないようで、自然と持ち手に指をかける。デュースはそれに倣ってそっとカップを持ち上げた。土と薬草の入り混じった独特の匂いが漂うこの教室で、紅茶の香りはいっそう爽やかだ。
「美味しいです」
「良かった。先生ってば紅茶の淹れ方に煩いんですもん」
「最初はそこら辺の草でも煎じたのかと思ったが、これでやっと及第点といったところだな」
鼻で笑いながら言われて、ヒトハが不服そうに「じゃあ先生が淹れてくださいよ!」と口を尖らせる。
クルーウェルの珍しい姿に、デュースはつい二人を交互に見やった。彼は彼女といるとぺースにのまれているのか、ずいぶんと穏やかだ。もちろん厳しいとはいえ“教育は飴と鞭”を信条としているらしいので、褒める時はとびきり褒めてくれる優しい面もあるのだが。
(それにしても……)
デュースは温かなカップに口を付けながら考えた。性懲りもなく言い争いを続けてはいるが、それなりの年齢の男女に変わりない。ヒトハだって普段生徒たちに紛れている時は学生かと見間違えるほどだが、こうしてクルーウェルと並べて見ると彼女が子供ではないことは明らかだった。あまりこういったことは得意ではないが、やはりデュースも他の生徒たちと同様に気になってしまう。
「二人はいつもその……お茶会を、しているんですか? ここで」
デュースがなんとか言葉を選びながら問うと、二人はふと言い争いをやめて顔を見合わせた。先に口を開いたのはヒトハで、「週に一度ですね」と答える。
「元々は魔法薬を貰うだけだったんですけど、気が付いたらちょっとした雑談をするようになって――それで、なんで紅茶なんですっけ?」
「お前がクローバーからタルトを貰ってきたおかげで菓子を持ち込む習慣ができたのが発端だ」
「ああ、そうでした。そういうわけで、魔法薬のお口直しも兼ねて雑談とお菓子のお供に飲み物を用意し始めたというわけです。珈琲と紅茶どっちがいいですか? って」
「珈琲も最初はそこら辺の……」
「その話はもういいです!」
ヒトハはギュッと眉を吊って「飲んだなら片付けますからね!」と声を荒げた。さっさと食器を取り上げて再び奥へ引っ込んでいく。
クルーウェルはいつものことなのか特に気にした様子もなく、それどころか少し目元に楽しさを滲ませているほどだ。
「先生って、ヒトハさんとどう……」
デュースがヒトハに聞こえないように声を低くすると、クルーウェルは「スペード」とその先を言おうとするのを口早に咎めた。
「残念ながら、お前の期待するようなことは何もない。休憩は終わりだ。教科書を開け」
次の瞬間にはいつもの教師の顔をしているのだから、デュースにはこれ以上何も問うことができなかった。
言われた通りに教科書を開き、再び始まった解説に耳を傾ける。調合方法の『数分加熱して青色に変色したら』と書かれているところで躓いて、デュースはペンを止めた。以前この調合をした時に緑色から青色へ緩やかに変化していく過程で、青色を見誤って失敗してしまったのだ。実際、あれはまだ緑だったのだという。
クルーウェルは難しい顔をしているデュースに気が付いて、解説途中の口を閉じた。
「そうだな。これは実際に見た方が分かりやすいだろう。――ナガツキ、カム」
「はい!」
少し遠くで食器と魔法薬の瓶を洗っていたヒトハは、そのままの場所で声を張った。
「スペードに調合の過程を見せてやれ」
「え? 私? 先生の方がいいんじゃないですか?」
ヒトハはパタパタと小走りでやって来て、そっとデュースの見ているページを覗き込んだ。
わずかに渋った顔をして「うーん」と小さく唸る。
「俺が説明するから、お前は手を動かせ。お前の方がなにかと丁寧だろう?」
「…………デュースくんのためですよ?」
どうやらクルーウェルは彼女の扱いを熟知しているようである。彼女は満更でもないのか、口元の緩みを隠しきれていない。
「すみません、ヒトハさん。よろしくお願いします」
ヒトハは「ええ、任せてください」と胸を叩いて、にこりと笑った。クルーウェルに任されたからには自信があるのか、いつもより頼り甲斐があるように見える。いくら生徒に混じって友人のように振る舞っても、やはり彼女は年上で、魔法士の先輩で、姉のような人なのだ。
早速ヒトハは使用する素材を棚から手際よく集めて使用順にきっちりと並べると、ラベルをデュースの方に向けた。慣れているのか器具を手早く用意するので「普段から魔法薬を作ってるんですか?」と聞くと、「最近ちょっとだけ」と苦笑いが返ってくる。
「学生時代は魔法薬の調合って苦手で、先生から『お前はその魔法薬で人でも殺して回るつもりか』とか言われたりもしたんですが、意外とできるようになるもんですね」
「お前、そんなことを言われていたのか」
聞き耳を立てていたクルーウェルが呆れたように言うと、ヒトハは慌てて取り繕った。
「最初だけです! 最初だけ! あ、先生、後ろの薬品取ってください」
ヒトハは「あれです、あれ」と棚を指差した。あれと言っても棚には膨大な薬品が並んでいて、デュースにはどれのことを言っているのかさっぱり分からない。クルーウェルは面倒そうな顔をしながら「あれでは分からん」と言いつつも茶色の瓶を一本取り出す。
「ありがとうございます」
渡された薬品で合っていたのか、ヒトハは満足そうに礼を言うと早速調合に取り掛かった。
目の前で調合されていく魔法薬が、彼女の手によって目まぐるしく色を変えていく。魔力を込める工程は苦手だからとクルーウェルに任せるものの、それ以外では小言ひとつ貰わず調合できているのだから、その腕は確かなものだ。学生時代は調合が苦手だったと言うが、とてもそのようには見えない。
「ここで灯火の花の蜜を一滴入れます」
「いいか、スペード。色が変わり始めるが焦るな。この青になるまで待て。待っても変わらないのなら、それより前の工程に問題がある」
「は、はい……!」
デュースは二人の熱心な解説を聴きながら、ずっと胸に抱いていたものを思い出した。それは補習中にいつも感じていた不安のようなもので、意識すればするほど惨めな気持ちにすらなる、枷のようなものだった。
どうして自分は他の生徒と同じようにできないのだろう。どれだけ真剣に挑んだって、テストの勉強をしたって、理解できないものは理解できない。こうして補習を受けずに合格点を取る生徒なんて大勢いるのに。このナイトレイブンカレッジで優等生になるのだと誓ってあらゆることに励んできたが、まだまだ上手くいかないことがたくさんある。そしてそれは山のように高く、果てしなく積み上がり視界を遮ってしまうのだ。
――これ以上良くなることなんてあるのだろうか?
長らく抱えたままだった疑問に今日、彼女はひとつ答えをくれたのだった。今はできなくても、いつかきっとできるようになる。
厳しい指導で妥協を許さないクルーウェルの隣に立って、魔法薬の調合をやってのけるくらいに。そして自分のような誰かに勉強を教えてあげられるくらいに。それはほんの小さな灯火だった。全てを照らすほどの眩さはないけれど、確かな道標になる、小さな光だ。
「ヒトハさん」
補習の終わりに、デュースはヒトハを呼び止めた。器具や薬品の片付けに教室をあちこちと移動して回っていたヒトハは足を止めてデュースに向き合う。もうすっかりいつも通り、校内で見かける姿に戻っていた。
「実は魔法薬の調合がまだ苦手で……。上手くなるコツとかって、ありませんか?」
ヒトハは「コツ?」と首を傾げた。
「うーん、コツは私も知りたいですね……。あっ、でも必要なことは分かります!」
彼女はちらりとクルーウェルの方を見て「忍耐……」と囁き、「それから、いつも通り頑張っていれば、いつの間にかできるようになりますよ」と微笑んだのだった。
「デュース、今補習終わったのかよ。夕飯食いっぱぐれたじゃん」
寮に戻るやいなや、なんだかんだと帰りを待ってくれていたらしいエースが呆れたように言った。夕食の席にいなかったのが心配だったようだが、そうとは言わず捻った言い方をするのが彼らしい。
「いや、ヒトハさんがいたから……」
デュースは上手い答えが見つからず、言葉を濁した。
本当は補習が夕食時までかかってしまい、気を遣ったヒトハが「何か買って来ましょうか?」と言い出して、結局クルーウェルが財布を出すことになったのだ。しかしこのことは口外するなと言われている。仔犬どもにたかられてはかなわん、とのことらしいが、そんなことができる生徒は校内中を探しても一握りだろう。今日はとてもついている日だった。
「え!? いいなー、俺も今度奢ってもらお」
デュースは言い方が悪かったせいでエースに誤解をさせてしまったことに気がついて、訂正するべきかほんの少し悩んだ。しかしやはり上手い答えが見つからない。
(ヒトハさん、すみません……)
最終的には諦めて、心の中でそっと謝罪することにした。彼女のことなので、ちゃんと謝れば困ったように笑いながら「まぁ良いですけど」と言ってくれるだろう。
「で、クルーウェル先生の補習って受けたことないけど、やっぱ厳しいの?」
次にエースの興味は度々行われる補習の方に移った。今日はいつもより帰りが遅かったせいか、どんな厳しい指導をされたのか、と面白半分に聞いてくる。エースの意地悪さはヒトハ曰く“筋金入り”で、それはほとんど正解である。
「いや、先生は分かるまで丁寧に教えてくれるぞ! それに今日はヒトハさんがいたからな」
「ヒトハさん? どういうこと?」
エースはよく分からないのか、不思議そうに首を傾げた。きっとこれはクルーウェルの補習を経験しなければ分からないのだ。それも親切な彼女付きで。
デュースはこの意地悪でちょっと世話焼きな友人に一つ提案をすることにした。
「エースも一度補習をしてみるといい」
その提案には、ものすごく嫌な顔をされたけれど。
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