魔法学校の清掃員さん
19 清掃員さんと読書感想会
「そういえばホリデー中に借りたあの本、騎士道物語ですけど、結構恋愛がえげつないじゃないですか。不倫とか」
「そうだろうか? かなり昔に書かれたフィクションだからか気にならないな」
「へぇ……?」
「なんだその『へぇ』は」
「いいえ? 十六歳に不倫モノはまだ早いかと思ってましたけど、意外といけるんだなと思って。へへ」
「馬鹿にしているのか……? 僕だってフィクションとノンフィクションの区別くらいできる」
「え~? へっへへへへへ」
「おい、なんだ――――その笑い方をやめろ!!」
ヒトハは驚いて片手に持ったティーカップを揺らした。白いエプロンに中身が飛んで、茶色い染みができる。セベクの大声は相変わらずの爆音だった。恐怖よりも面白さが勝って「ごめんなさい」と言いながら笑いが止まらない。
ホリデーの浮ついた空気が抜けきって生徒たちが新学期に馴染み始めた頃、仕事終わりの時間帯にディアソムニア寮のゴミを回収しに来たヒトハは、談話室で若様の帰りを待っているセベクと鉢合わせた。どうやら今日は同じ寮の二人が若様と一緒のようで、部活の関係で寮へ戻る時間がずれたセベクは暇を持て余していたらしい。若様がいればヒトハのことは二の次になるが、そうでなければ時間を割いてくれるのが、この真面目で堅物かつ若様信者のセベク・ジグボルトである。
ヒトハが声を掛けると、彼はいつものように快く雑談に付き合ってくれた。しかも今日は寮内ということもあって、手ずから紅茶まで淹れてくれる手厚さだ。残りの仕事はゴミを捨てるだけだったこともあり、ヒトハは甘えて談話室の一角で一服することにしたのだった。
話題はホリデーに入る前に借りたセベクおすすめの騎士道物語の本のこと。なかなか古い本で、文体も難しいものだったが、名作らしく面白かった。そのことをホリデーカードにも少し綴ったのだが、あの小さな紙一枚では到底足りるわけもなく、こうして読書感想会を開催している。
ちなみにホリデーカードの熊ちゃんはジグボルト家で物議を醸し、そのカードの可愛らしさから彼女ができただなんだと大騒ぎになってしまい、ヒトハは年始早々お叱りを受けることになってしまった。さらに「熊が好きなのか?」とお土産にテディベアまで戴いてしまったからには「予想外のものを送ってみたかった」などと言うわけにもいかず、その日からテディベア愛好家ということになっている。
「それにしても私はああいう冒険譚は好きですけど、セベクくんも好きなんですね」
「そうだな。王に仕えているという点が共通しているからかもな」
セベクは空になったヒトハのカップに紅茶を再び注いだ。自分でも気が付かなかったことに少し恥ずかしさを覚えながら礼を言うと、この得意げな顔である。
彼から若様成分を抜けばこの通り、真面目で気の利く青年だ。けれどヒトハはこの若様が大好きなセベクが好きなのだ。年下ながらも誠心誠意、若様に仕える彼を尊敬している。まだ多少、難はあるが。
「セベクくん、本当に若様のことが好きですよね」
「おい、不敬だぞ。マレウス様と呼べ」
こうして和やかにお茶をしていても訂正してくるのだから彼の若様好きは本物である。ヒトハには何が悪いのかさっぱり分からなかったが、部外者である自分が若様を“若様”と呼ぶのが気に食わないらしい。毎回訂正されるのについ若様と呼んでしまうので、この流れはもはやお約束だった。
思い立って、ヒトハはセベクに一つ質問をしてみることにした。
「セベクくんは私とマレウス様、両方死にかけたらどっちを先に助けます?」
「愚問だな! 若様に決まっているだろう!!」
「で、ですよね」
セベクの考える時間は一秒にも満たず、ほとんど反射だった。この回答はあと一時間考えさせても覆りはしないだろう。ちょっとくらい悩んでくれるだろうかと期待して、結果的につまらない質問をしてしまった。
ヒトハが少しだけ沈んだ顔でカップに口を付けるのを見て、セベクは慌てて付け加えた。
「だが若様を助けたら必ず助けてやろう。だからそれまで死ぬなよ」
ヒトハはカップから口を離して、思わず目を瞬いた。自分でもだらしなく口元が緩んでしまうのが分かる。
「え~? へへへ」
「だから、その変な笑いをやめろ!!」
「ふふ、セベクくんの良いところ、そういうところですよねぇ」
なんだ、気持ち悪いな、と悪態をつきながら気恥ずかしそうにしているところも含めて、セベク・ジグボルトの良いところだ。真っ直ぐすぎるくらい真面目で、びっくりするほど素直で、彼の与えてくれる優しさはいつも純粋さで満ちている。
「セベクくん、マレウス様のためなら命もかけちゃいそうですね」
「当然だ。命をかけるに値するお方だ」
はっきりと言い切り、セベクはその考えに一片の疑いも持っていない。
それを聞いて、ヒトハはセベクのことを少し羨ましいと感じた。彼にとっての若様のような人が人生に一人でもいれば、それはとてつもない幸運であるはずだ。彼より長く生きていながら、それだけ大切に思える人が今までいただろうか。
ヒトハは束の間、この学園に来るまでのことを思い起こした。
人でなくても“物”でも“事”でも、モストロ・ラウンジの三人と話した“目標”でもいい。すべてをかけても惜しくない何か。命すらかけてもいいと思えるほどの大切なもの――
ヒトハはふと、あの騎士道物語の一節を思い出した。
「ああ、『貴女を失っては生きている意味がない!』ですね」
「分かってるじゃないか」
「これ、不倫相手への口説き文句ですけどね」
その後のお叱りは通りすがった寮生を跳びあがらせるほどの激しいものだったけれど、狙った通りの反応に、ヒトハはまた声を上げて笑ったのだった。
そろそろ帰ろうかと腰を上げようとした頃、向かいに座るセベクが突然ヒトハよりも素早く、垂直に立ち上がった。ヒトハがわけも分からずセベクを見上げていると、にわかに談話室が騒がしくなる。
ヒトハはゆっくり、セベクの視線が向く方へ立ち上がった。その先では小柄で可愛らしい生徒、銀髪の端整な顔立ちをした生徒、そして立派な角を生やした二メートルにもなろう体躯を持った生徒が今まさに談話室に入ろうとしている。
「若様! おかえりなさいませ!」
セベクは大声で彼らを迎え入れた。ヒトハが今まで聞いたことのないような、心からの歓迎の声だ。どうやらあの中に若様がいるらしい。
小柄な生徒はその大声を聞いて「セベクは今日も元気じゃな」とケラケラと笑った。見た目の割に渋い声をした生徒だ。驚いて見つめていると、応えるように視線が返ってくる。
一瞬、ぞっと背筋を這うものがあった。赤い瞳に普通の生徒ではない何かを感じる。彼の尖った耳は妖精族の特徴で、人間であるヒトハとは違う種族であることを表していた。彼らは魔法に長けていて、そして人間よりも遥かに長寿だ。そのせいか纏う空気が少しばかり浮世離れしている者が多い。
ヒトハはいたたまれず視線を外し、そっと真ん中の端正な顔立ちの生徒に向けた。
「わっ……!?」
驚きのあまり後退る。いつの間に移動したのか、小柄の生徒がほんの一歩前でヒトハの顔を覗き込んでいた。
彼は靴の踵の高さを合わせてもヒトハとほぼ同等の身長で、一見すると可愛らしい少年のようだ。大きな瞳が興味深げに細められ、その仕草は容姿に似合わず大人びていた。
「お主が例のセベクの友人じゃな!」
ヒトハは彼が値踏みをするように上から下まで自分を眺めるのを、ただ黙って見ていることしかできなかった。それは痺れを切らしたセベクが「リリア様にご挨拶をしろ!」と怒り出すまで続いた。
「えっと……極東の片田舎から来たもので、礼儀が分からず申し訳ありません。ヒトハ・ナガツキと申します」
「よい。ここではただの生徒じゃ。わしはリリア・ヴァンルージュ。あっちはシルバー、そして――マレウス・ドラコニア」
マレウス、と聞けばセベクがさんざん言っていたあの若様のことである。彼はいつの間にかシルバーを伴ってセベクと合流していた。
傍で見てみると、たしかに若様と呼ばれるだけあって風格が他の生徒と一線を画している。それは王族のレオナや富豪のカリムとも全く異なる、もはや異質とも呼べるものだった。
とはいえ、相手は大事な友人が仕える主だ。
ヒトハは数歩進み出て、リリアにしたように簡単な挨拶をした。茨の谷の作法は全く分からないが、極東流ではこれが精いっぱいだ。しかしマレウスはヒトハの正しいか正しくないかよく分からない挨拶を前にしても、ただ少し目を見開いて「ああ、お前が……」と呟くだけだった。話に聞いていただけの人物にやっと会えたのは彼も同じで、ふたりしてお互いを観察する。
(この人が“若様”……)
ヒトハは不躾であることを承知でマレウスの姿を角の先から爪先まで眺めた。彼も彼で同じようにヒトハを眺めていたからだ。
よくよく考えてみれば、彼も結局はこの学園の生徒の一人でしかないのだ。あまり身構えても失礼だろう。そう思って姿勢を緩めたヒトハに、マレウスは寛容だった。
「セベクがずいぶん世話になっているようだ。これからもよろしく頼む」
「いいえ、私こそ良くしてもらっていますので」
隣でセベクが「まるで借りてきた猫だな」と決して小さくない声で言い、ヒトハは彼の足の先を踏んづけた。目の前でリリアが面白そうに笑ったので、こっそりやったつもりが台無しである。
「そうそう、お主、手を溶かして傷痕が残っているのであろう? どれ、見せてみよ」
リリアが突然怪我のことを言い出して、ヒトハの前に片手を差し出す。この手のひらの上に素手を乗せて怪我の様子を見せてみろと言うのだ。
ヒトハは特に断る理由もなく、手袋を取ってリリアの手に乗せた。彼の黒い革手袋の上では濃く残った傷痕がいっそう目立って見える。リリアはそれを見ても眉一つ動かすことはなかった。ただヒトハの手のひらをひっくり返してはしげしげと観察している。
「ふむ、これは派手にやっておるな。酷い怪我を強引に治した後は皆こうなる。まだ若いのに、災難なことじゃ」
リリアはやけに老成した口調で、ヒトハをしみじみ哀れんだ。それはまるで今までにこのような怪我をした人たちを見てきたかのような言い方だった。彼の年齢では考えられないようなことだが、妖精族であるからには人間の常識を超えることがあってもおかしくはないのだろう。
「魔法薬の治療で多少は良くはなっているようじゃが、まだこの様子では――ああ、そうじゃ」
そしてリリアはヒトハの手を眺めながら、思い出したかのように言った。
「たしか熱砂の国を旅した時に優れた魔法医術士の噂を聞いたことがある。聞けばその分野では稀代の魔法士だとか。その者に頼めば、この傷痕も治せるかもしれんな」
ヒトハはリリアから離れた自分の手を見下ろした。ほんの少し前までこの手に傷痕はなく、まだ幾分か滑らかで、時にネイルアートで彩り楽しむことすらあった。自分の大切な身体の一部。今は素朴に整えられた爪先ばかりが、かつての姿を保っている。
元に戻れるなら、どれだけいいだろう。あの日切実に願ったことに今なら手が届くかもしれない。
その可能性を提示されながらも、ヒトハの心は自分でも驚くほどに落ち着いていた。
ヒトハは迷うことなく頭を振った。
「私にはすでにお世話になっている方がいるので」
その返答にリリアは驚き、そしてすぐに面白そうに笑ったのだった。
「くふふ。そうか、野暮なことを言って悪かった。早く治ると良いな」
「ええ、ありがとうございます」
リリアはそれ以上を言おうとはしない。見た目の割に声も仕草も考えも大人びているというのは奇妙だったが、彼は不思議とそれが似合う人だった。
「それにしてもセベクがこれだけ気に入っておるんじゃ、もしこの学園から出て行きたくなったら茨の谷に来るといい」
「そうだな……。お前であれば城の掃除くらいは任せられる。僕が推薦してやろう」
セベクが得意げに胸を張り、思わぬところで次の就職先を見つけたヒトハは「ありがたき幸せ」と本で見たような台詞を返した。
このナイトレイブンカレッジを辞めることは当分考えていないが、いつか茨の谷にも訪れてみたかったのだ。友人の故郷にはやはり興味があるし、真面目な彼に頼めば完璧な道案内をしてくれることだろう。若様さえ近くにいなければの話だが。
「それで、どうしてここに? セベクに付き合わせていたのなら申し訳ない」
「ああ、本を借りていたので読書感想会をしていたんです」
シルバーが申し訳なさそうに言い出して、ヒトハは談話室のテーブルにある一冊の本を手に取った。古い本だが、大切にされていたのか状態はとても良い。
リリアの手がスッと伸びてきて、そのまま本は彼の手に渡った。
「どれ……ああ、これか」
どうやらその本に覚えがあるようで、リリアは数ページ捲ると意地悪そうににやりとした。
「不倫モノはセベクにはまだ早いじゃろ」
「ですよね」
「リリア様まで……!」
尊敬しているリリアにまでそう言われてセベクは青筋を浮かべ、そしてなぜか行き場のない怒りの矛先はヒトハに向かった。
「――いいだろう! 次は僕が真に愛読している魔法解析学の本を貸してやろう!! たっぷり読書感想会でもしようではないか!!」
「え!? それは読書とは言わないんですよ! 勉強ですよ!?」
ヒトハは冷や汗を滲ませながら反論した。隣でリリアが
「感心じゃな」と笑い転げる。シルバーが「それは読書には向かないのでは」と至極真っ当なことを言うが、完全に腹を立てたセベクに届くはずもない。ただマレウスの「楽しそうだな」というゆったりとした声だけがセベクの耳に入ることを許され、彼は今日一番の満面の笑みを浮かべたのだった。
数日後、ヒトハはセベクから辞書のような分厚い本を手渡された。飾り気のない表紙に整然と並ぶ『魔法解析学Ⅱ』の文字。なぜⅡから始まるのか。
背表紙の厚みを呆然と眺めるヒトハに、セベクは「先んじて予習をしているのだ。シルバーに後れを取るわけにはいかないからな!!」と胸を張る。確かシルバーは二年生で、これでは先んじすぎだ。彼はこのまま飛び級でもするつもりなのだろうか。
しかしこれも身から出た錆というやつである。仕方なく分厚い本を抱えて訪れた先で、理系教科全般を得意とするはずの教師はこれまでにない渋い顔をした。
「先生、この三章五節についてなんですけど」
「………………俺は今忙しい」
「先生、助けてくれるって言ったじゃないですか! 私、これでセベクくんと感想会しないといけないんですよ!?」
「またか!? しょうもないことに俺を使おうとするな! 自分でなんとかしろ!」
この日、ナイトレイブンカレッジの広々とした廊下のど真ん中で白黒の毛皮コートに縋る清掃員と、それを引きずって歩く教師が目撃されることとなる。友人を無闇に揶揄ってはいけないと学んだヒトハだった。
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