魔法学校の清掃員さん

17-04 清掃員さんとホリデーの夜

 毎年恒例のウィンターホリデーは仕事を忘れて休暇を楽しむことにしている。旅行に出かけ、趣味の車を走らせ、普段なかなか手をつけられない本を読む。しかし今年ばかりは特別贅沢をして食事をする時も、音楽を嗜む時も、街へ出る時も、頭の片隅に何か引っかかるものがあった。休暇前にやり残したことがあるかのようなもどかしさ。あるいは、大事な忘れ物をしたかのような後悔だ。

(……何をしているだろうな)

 雪に覆われた学園で、寒さに白い息を吐きながら微笑む彼女の姿が脳裏にちらついて離れない。
 生徒たちのいない学園で過ごすホリデーは退屈だろう。あの騒々しい彼女のことだ。きっと寂しさに耐えかねているに違いない。そして寂しかったくせに、平気だったと笑うに違いないのだ。
 気が付けば、揺れる列車の中から単調な道行を眺めていた。ナイトレイブンカレッジで教鞭を執り始めてもう幾年も経つが、ウィンターホリデーの学園に戻るのは、これが初めてのことだ。
 初めてだから、賢者の島にこんなにも厚く雪が積もることを知らず、静寂の銀世界に佇む校舎の荘厳さも知らなかった。そして極寒の地に立ち生徒の帰りを待つ彼女の後ろ姿を見た時、つい歩調が速まってしまうことも、知らなかったのだ。

 ――とはいえ、この望んだ再会が全て想像していた通りの美しいものであるとは限らない。型にはまらず、突き破って想定外を地で行く女。それがヒトハ・ナガツキという清掃員である。

「先生、せっかくだからゆっくりしていきません?」

 その一言にすっかり気を許して「彼女がそう言うのなら」と腰を上げなかったことを、こうも後悔する羽目になるとは。

「先生ぇ~! 全然飲んでないじゃないですか!」
「ワインは大量に飲むものじゃない。なんだこれは。なんなんだ、お前は」

 サムから買ったというとっておきのワインを開けて一、二杯。何か様子がおかしいと思っていたらこれだ。
 クルーウェルは酒好きの恐ろしい下戸ことヒトハの厄介な絡みに顔を苦々しく歪めた。
 彼女は鼻先から耳の先まで顔を真っ赤に染め上げ、普段以上のだらしない笑みを浮かべている。口調と行動ははっきりしているが、明らかに本来の性格から逸脱した発言と行動を繰り返していた。つまり、泥酔している。
 ヒトハは三分の一程度に赤ワインの注がれたグラスを両手に持ち「もう! 先生ったら!」と口を尖らせた。

「私はヒトハです。ヒトハ・ナガツキ。へへ、ヒトハって呼んでください」
「めんどくさいな、お前……」

 成り立っているようで成り立っていない会話は明後日どころか明明後日の方向に突き進む。クルーウェルはもはやグラスをテーブルに置き、飲む気を失っていた。ワインは彼女の言う通り上等なもので、口当たりも良く飲みやすい。良いものであるのは確かなのに。
 クルーウェルは深々とため息をついて、木製のダイニングテーブルから立った。ヒトハの持つグラスを取り上げて、手が届かないように高く掲げる。

「もう飲むな! この酔っ払いが!」
「ああ~っ! やだぁ! 先生、返して!」

 ヒトハは取り上げられたグラスを追うように両手を伸ばし立ち上がると、そのままフラつく足でクルーウェルの体に凭れかかった。体格差にして頭ひとつ分。女性らしい体つきの彼女がぶつかってきたくらいで体勢を崩すことはないが、さすがに動揺して半歩下がる。釣られて体重をかけてくるヒトハの上半身を慌てて片腕で支えると、自然と抱く形になってしまうのはもう仕方のないことだった。
 柔らかく、しなやかな身体をぐんと逸らして、ヒトハは焦点の合わない目でクルーウェルを見上げた。やっと視線が合ったかと思うと、うっとりと目尻を下げる。

「あ、こら」

 手袋をしていない指先が目元に伸びて優しく触れる。酒のせいか指先が燃えるように熱い。あるいは、自分がそう感じてしまっただけなのかもしれないが、この状況ではどちらかは分からなかった。

「ふふ、先生の目、本当に綺麗」
「やめろ。おいたがすぎる」

 クルーウェルが片手にワイングラス、片手に崩れそうな体を支えて自由が効かないことをいいことに、ヒトハは思うがままに振る舞った。
 無遠慮すぎるスキンシップも物言いも、熱い視線も、正気であれば絶対にしないだろう。酒で理性が壊れた状態であるならば、こちらが本性なのかもしれないが、これは正気の時の彼女の性格からしたら間違いなく“恥”に分類される。
 後腐れない男女の関係であれば食指も動くというものだが、彼女のことを思えば、さすがにそれは憚られた。第一、酔っ払いに手を出すほど落ちぶれてはいない。
 クルーウェルはグラスをテーブルに置き、顔に触れる手をやんわりと引き離した。

「お前な、男にこんなことをして襲われでもしたらどうする。……いや、これは俺が襲われているのか?」

 クルーウェルの親切な忠告に、ヒトハは「はぁ?」と声を上げた。

「先生はそんなことしませんよね!?」

 酔いの回った顔に精一杯の真面目な表情をして、ヒトハは「そうに違いない」と信じ込んでいるようだった。
 恐ろしく無防備。愚かなほどの信頼。潔いまでの思い込み。

「………………しないな」
「でしょお?」

 にこにこと笑う顔にここまでの抑止力があろうとは、生まれてこのかた知らなかった。

「どけ、ナガツキ。お行儀が悪い」

 両肩に手を置き真っ直ぐに立たせようとすると、ヒトハはたちまち不満そうに眉を吊り上げて猛抗議を始めた。

「もー! ヒトハって呼んでください! うう、みんなヒトハって呼んでくれるのに、先生だけナガツキって言う……先生、私のこと嫌いなんだ……」
「学園長もナガツキ呼びだろうが」
「……そうでしたっけ?」

 はて、と首を傾げる。そうまでして名前呼びをされたいものだろうか。たしかに生徒たちからは一部を除いて「ヒトハさん」と気安く呼ばれてはいたものだが。

「分かったから離れろ、ヒトハ」
「はぁい」

 望み通りにしてやると、ヒトハは満足したのか、すんなりと離れた。

(めんどくさいな、こいつ……)

 めんどくさい。酔っ払いは総じてめんどくさいものだが、彼女の場合は行動がやけにはっきりしているところが厄介だ。フラフラしてなにもできなくなるタイプならまだ楽なものだが。
 クルーウェルはそのままヒトハの腕を取り、椅子の背に無造作にかけられた彼女のコートを小脇に抱えると部屋の出口へ向かった。

「もう部屋に戻るぞ。寝ろ。そして起きてくるな」

 隣の部屋は自室だと言っていた。部屋に帰せばこの面倒ごとも終わりだ。
 よたよたとしながらもしっかりとついてくるヒトハに「鍵」と言うと、「コートのポケット」と返ってくる。クルーウェルはヒトハの部屋の前で厚いコートのポケットを弄り、鍵と硬い封筒を見つけた。

「カード……?」

 黒に銀のあしらいが入った封筒は恐らくホリデーカードだ。出し忘れたのかと呆れて裏表とひっくり返してみて、ふと手を止める。

「ふぅん、なるほど」

 後ろで半分目を瞑っているヒトハに振り返る。よもや送り損ねたカードを見られているとも知らず、眠気に誘われて夢現だ。
 クルーウェルは鍵を差し込み扉を開けると、生活感あふれる部屋に足を踏み入れた。
 備え付けの家具は使い込まれたようにそこにあり、カーテンやカーペット、寝具のデザインばかりが素朴な彼女の好みを表している。出窓に不気味に座り込むマンドラゴラはどこかで見た覚えがあるが、なんであんなものを飾っているのかはよく分からない。彼女の場合、見た目が好きで飾ってるわけでもないのだろう。思い入れがあればどんなものも大事にするような情の深い性格だ。
 部屋に男が侵入したのもよく分かっていないのか、ヒトハは先ほどと打って変わって眠そうにベッドに腰を下ろした。うつらうつらと頭が揺れる。
 このままベッドに押し込むわけにもいかず、クルーウェルはコートをベッドに放ると、跪きブーツに手をかけた。

「この俺に酔っ払いの介抱をさせるとは、いい度胸だな、お前」

 履き馴染んだ革のブーツを脱がせる間、ヒトハはひどく素直だった。眠気でぼんやりとしたまま、されるがままに白い足を差し出す。ブーツを脱がせたあともぼうっとするばかりで動こうとはせず、クルーウェルが渋々両膝の裏と背に腕を回して軽く横抱きにしてベッドに横にさせると、ヒトハはようやく枕に頭を埋めたのだった。薄く開いた目は相変わらず焦点が合わないが、酔いというよりは眠気の勝った目をしている。

「酔いが醒めたら覚えてろよ」
「はぁい」
「覚えてなさそうだな……」

 そして何度目かも分からないため息をつきながら毛布を掛けてやる。
 やることはやった。帰るか、と屈めた腰を上げると、眠りかけているくせに敏感に察知したのか、ヒトハはクルーウェルをはっきりと見上げた。

「ん、先生、もう帰っちゃうんですか」

 掠れた声に名残惜しさを乗せて、彼女は言った。ほんの少し後ろ髪を引かれるような気がして、クルーウェルは少し下がった毛布を指で摘んで引き上げてやり、ゆっくりと言い聞かせる。

「元々一日だけのつもりだったんだ。もう帰るからさっさと寝ろ。片付けはしといてやる」
「やだ……」

 毛布の入り口からそろそろと伸びた手がクルーウェルの手を優しく掴んだ。人差し指と親指で手の先を摘む程度の控えめな我儘に引き止めるほどの力はなく、本当はこれでもうしばらくの別れだと理解している。
 クルーウェルは片手を取られたままベッドの縁に腰を下ろした。寝るまでの間くらい一緒にいても、帰りに支障はない。
 ヒトハは満足そうに柔らかな笑みを作ると、ゆっくりと口を開いた。

「ホリデーの学園、結構楽しかったんですよ。雪も積もって、綺麗で、先輩たちもいて、それから、仔犬たちと雪だるまを作って」

 楽しいホリデーの記憶を思い出したのか、眠たげな双眸に温かさが宿る。そして少しだけ眉を下げ、ヒトハはクルーウェルを寂しそうに見上げた。

「でもやっぱりちょっと、寂しかったんです。ひとりで過ごすホリデーがこんなに寂しいなんて、私、知らなかった……」

 平気だと思っていたんですけど、と語る言葉にはわずかばかりの後悔が滲み出ている。
 やはり、とクルーウェルは眉を下げて笑った。この騒々しい彼女が、学園でひとり過ごすのを寂しいと思わないわけがない。その口ぶりからして昔はそうでもなかったようだが、この学園で出会ってから頻繁に関わってきたクルーウェルにしてみれば、今の彼女こそ本当の姿に思えた。
 このヒトハ・ナガツキという女は、これだけ生きていながら、まだ自分のことをよく知らない。思っているよりずっと寂しがり屋で、芯が強く、努力家で、健気で、表現は下手だが感性は豊かで。その全てが彼女の魅力なのに、哀れなことに知らないのだ。またそれもひとつの魅力といえば、そうなのだろうが。
 クルーウェルはヒトハの温かな手を握り返しながら優しく言った。

「来年は旅行にでも行くか。今年は北国に車を走らせたが、なかなかよかったぞ」
「寒いから南がいい」
「……わがままだな、お前」

 きゅっと眉を寄せる。肝心な時に可愛くないのはどうしてなのか。
 ヒトハはそれを見て、ふっと息を吐くように小さく笑った。

「約束ですよ、先生」
「お前が無事に覚えてたらな」
「起きたらもう一回言ってください」
「覚えてなさそうだな……」

 次に目が覚めた時、彼女は今日のことをどれほど覚えているだろうか。もしかすると全部忘れ去ってしまっているかもしれない。そう考えると、少し腹立たしい。
 クルーウェルがひとつふたつ瞬きをする間に、ヒトハは目を覆って静かに寝息を立てていた。彼女は驚くほどの寝付きの良さで、言いたいことを言い、聞きたいことを聞き、こちらの都合を考えもしない。

「子供か?」

 クルーウェルは穏やかな寝顔を眺めながら呆れて呟いた。
 こうも自由に振る舞い、トラブルを持ち込み、手間をかけさせるのに、どうにも放っておけない。しかしそれが友情によるものなのか愛情によるものなのか、はたまた恋によるものなのか、まだ簡単には判断できなかった。二人を結ぶか細い糸にまだ名はなく、ただただ強い信頼と穏やかなものが織り込まれている。
 クルーウェルはベッドに腰を下ろしたまま、コートのポケットに仕舞った封筒を取り出した。上質な紙でできたそれを丁寧に開き、中のカードに目を通す。女性らしい丸い文字が綴る言葉の一つひとつの優しさを噛み締めて、再び穏やかな寝顔を見下ろした。
 目元にかかる前髪を指先で払い除ける。緩く閉じた瞼の裏で、どんな夢を見ているのだろうか。

「おやすみ、ヒトハ。いいホリデーを」

 願わくば、残りのホリデーが良い思い出となるように。翌年もこうして穏やかに過ごせるように。彼女の幸せが続くように。
 初めて過ごすナイトレイブンカレッジでのウィンターホリデーの夜に、こうしてやっと大事な忘れ物を取り戻して、クルーウェルは静かに部屋を去った。

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