魔法学校の清掃員さん
13-03 清掃員さん、連行される
どんなに逃げようと思っても、どうしても逃げられないイベントがある。
魔法薬学室で雑談をやめてから三回目になるこの日、恐々と扉を開き、先に来ていたクルーウェルと気まずく視線を合わせたり反らせたりしながら、ヒトハは魔法薬をいつものように受け取った。意外にも彼はその間は何も言うことはなく、ヒトハが魔法薬を飲んでいる姿を観察するだけだった。その気まずさといったらない。
(苦しい……)
あまりの緊張感と焦りで魔法薬が上手く喉を通らない。いつもであれば一気に飲んでしまうところ、何度も
クルーウェルはその様子を、やはり観察していた。切れ長の目を不機嫌に細め、何か考えごとをしているのか黙り込んでいる。視線は一瞬も反らされることがなく、つい先日首の後ろに感じた緊張感を全身に浴びる羽目になった。
(言うべきかな)
ここ数週間も頭を悩ませ続けた問題を、もうこれ以上自分の中で留めておくのも辛かった。
最初は自分の失態を知られて怒られるのが怖かっただけだが、今はもうほとんど惰性だ。ただ言いにくいだけで不信感を抱かれるのなら言ってしまった方がいい。
一方で、尋ねられもしないのに言う必要はあるのだろうか、という疑問もあった。
そもそも、クルーウェルは学園長の指示のもと魔法薬を作ってくれる人であって、自分の辛い状況を聴いて面倒を見てくれる人ではない。大体、彼は最初から「万一のことがあっても俺は助けない」と主張していた。面倒ごとに巻き込まれた話を聴いたところで要らない情報が入ってくるだけだ。それに、魔法薬を受け取った後の雑談は自分が始めたことで、彼の希望ではない。望まないまま貴重な時間を潰されて本当は迷惑をしていたかもしれない――
完全な逃げだ。それは分かっていたが、こうして辿り着いてしまった答えもまた、ヒトハには事実のように思えた。
ぼうっとしたまま水道で洗った瓶に映る自分の姿が酷く歪に見える。これは今の自分にとってこの上なく都合のいい答えなのに、胸に嫌な痛みが走るのだ。
「ありがとうございました。では、また来週……」
「ステイ」
今日初めてまともに聞いたクルーウェルの声はあまりに不機嫌そうで、ヒトハはびくりと体を震わせた。ステイ。待て、その場でじっとしていろ、という意味の犬用コマンドは彼の仔犬であるならば、すぐさま従うように躾けられている。
「えっと、すみません、今日は急ぐので……」
それでも世話しなく目を泳がせながら、そろそろと出口に向かう。今日はもう仕事の時間が迫っていて、これ以上の長居はできそうにない。
しかしクルーウェルは一度放った命令を無視されて黙っているような男ではなかった。
「――ひっ!」
あと数歩で出口というところで、ヒトハは小さく引き攣った悲鳴を上げた。半開きの扉に手をかけようとしたその時、身の丈よりもずっと大きくて重い扉が部屋を揺さぶるような衝撃と共に閉じたのだ。
数秒遅ければ鼻先が潰れてしまうくらいのタイミングに、ヒトハはひるんで数歩よろめきながら、瞬時に今置かれている状況を察知した。
(まずい……)
誰がどう見ても不機嫌に不機嫌を募らせた彼の仕業で、今日は絶対に逃がさないつもりである。駄目で元々と扉に手をかけてみたが、当然押しても引いてもびくともしない。魔法で鍵をかけたか、単に動かないようにしているだけなのか、解析しなければ判断もつかず、そうするには時間が足りない。
「俺が『ステイ』と言ったらステイだ。それとも、聞こえなかったのか?」
耳元で重い音がしたかと思えば、握りしめた赤い手が扉に叩きつけられている。前には開かずの扉、後ろには沸点を超えた鬼教師とあれば、ヒトハは逃げられずに扉にへばりつくしかなかった。
「ひっ……」
「答えは『はい』か『いいえ』だ」
「は……い、いいえ……」
「分かっていながら無視するとは、いい度胸だな?」
クルーウェルはヒトハの頭上から、よくよく言い聞かせるようにゆっくりと、そして地を這うような低い声で脅しつけた。
「まだ逃げられるとでも思っているのか? こっちを向け」
ヒトハは言われるがまま、向き合うように体を回転させつつ扉に背を張り付けて俯いた。扉に叩きつけられた方の腕一本分しか余裕がないせいで目のやり場に困る。結果的に足元を一生懸命見る羽目になったのは、もはや仕方のないことだった。
「お前、俺に何か隠しているな?」
「せ、先生に隠しごとだなんて……」
完全に見透かされている。咄嗟に否定の言葉が出てきたが、勝手に声が震えるせいでまったく意味をなしていない。
ヒトハは蛇に睨まれた蛙のように、肩を竦めてじっとしていた。そんなことをして逃がしてくれるような人ではないことは分かっているが、とはいえ次に何をしたらいいのかも分からなかった。
「嘘をつくな。こっちを見ろ」
「見ろと言われましても……」
クルーウェルは苛立った様子でしきりに片足のつま先を床に叩きつけている。トントンと音が鳴るたびに「早くしろ」と急かされているようで、ヒトハは渋々少しだけ顎を上げた。それでも高さが合わなくて、ちらりと上目遣いで見上げる。そしてそのあまりの近さに驚いて、再び慌てて視線を泳がせた。心臓は今にも止まりそうなほど冷え冷えとしているのに、顔だけはどんどん体温が上がっていく。
「お前が隠しごとをする時は大体ろくでもないことになっているはずだ。一体何をやらかした?」
「やらかしただなんて、そんな」
「箒で墜落した時のことを忘れたか」
「忘れてません……」
クルーウェルの鋭すぎる指摘に、ヒトハはもう何も言えず口を噤むしかなかった。
「ん? なんだ、だいぶ疲れているようだな?」
クルーウェルは不意に空いた親指をヒトハの目元に添わせた。冷たい革手袋の質感が頬骨の上をなぞる。そこはちょうど今朝がた「隈が目立ってきた」と気にしていたあたりだった。びくりと肩が跳ね、ヒトハは弾かれるように顔を上げた。
険しく細められた銀色の瞳に自分が映り込んでいる。よくは見えなくても、それがとても情けない顔をしているであろうということだけは確信できた。
「――もうっ! やめてください!!」
ヒトハは叫びながらその手を跳ね除けると、後ろ手に握った杖を扉にコッと軽く打ち付けた。こっそりと解析していた扉の魔法を解き、狙い通り金属が噛み合うような軽い音がする。そのまま体重をかけ、扉を押し開けた。
「なっ……」
「事情は今度説明します! 時間がないので!」
不意打ちを喰らったクルーウェルが舌打ちするのを片耳で捉えながらも、振り返ることなく走る。一瞬でも走りを緩めてしまったら、沸騰寸前の頭がどうにかなってしまいそうだった。
ヒトハがかつてないほどの勢いで開店前のモストロ・ラウンジに転がり込むと、準備途中のウツボの兄弟は目を丸くして驚き、そして可笑しそうに笑った。
「タニシちゃん、顔真っ赤~。タイみてぇ」
「おや、風邪でもひきましたか?」
「ひいてない! ひいてないですっ!」
ヒトハは双子に向かって叫んで、そのままありとあらゆる雑念を振り払うように更衣室に走ったのだった。
その日の仕事はいつもの何倍もよく動き回る羽目になった。少し気を抜けば余計なことを考えてしまうし、やけに生々しい革の質感を思い出してしまう。その都度壁に向かって顔を冷やしていては仕事にならないからだ。無心になるために必死で仕事をしていたら「今日は調子がいいね!」とポジティブに捉えられてしまったのは、喜ぶべきなのか、悲しむべきなのか。
気が付いた時には、ヒトハはくたくたの状態で鏡舎の外にいた。
(やり切った……)
しみじみと今日の働きっぷりを思い返しながら、夜空を見上げる。遮蔽物もなく、余計な灯りもない空には澄んだ星の輝きが散りばめられている。このところ夜というものにはあまりいい思い出はないが、それでもこの学園の夜はとても美しい。昼間の喧騒から解放された校舎はずいぶんと静かなのに、絶えず輝き続けてはその周囲を優しく照らしている。古城のような厳しい風貌も、この夜にあってはただ穏やかなだけだ。
ヒトハは帰り際のベンチに腰を下ろした。ほんの少しだけ、と上着を脱いで膝に抱える。オクタヴィネル寮から帰って来ると外は冷え込んでいたが、それでも疲れた身体に冷たい外気が滲みて心地良い。
最初はずいぶんと生地が硬いと思っていたこの制服も、今では柔らかく体に馴染んでいる。モストロ・ラウンジが彼らの卒業後にどうなるかは分からないが、これから何年と働いていけば、この手袋のようにいつか体の一部になってしまうのだろうか。
(先生、怒ってるかな……)
一度気を抜いてしまうと、やはり今日のことを思い出してしまう。また、逃げてしまった。
言いつけを守らなかったことを怒られるのはいい。ただあの時に浮かんでしまった考えが、決意しかけた心を揺るがせた。こうして困った状況に置かれている自分を知られ、「だからどうした」と切り離されるのを恐れてしまったのだ。
クルーウェルは暇ではない。仕事も忙しいし、魔法薬も欠かさず提供してくれるし、すでに多くのものを与えてくれている。バイト仲間たちは「助けてくれるかも」と言ったが、そうやって期待することすら罪に思えた。これ以上はあまりにも贅沢だ。分かっているのに。
(……早く帰って、化粧を落として、寝ないと)
毎日変わらない明日の予定を確認しながら、ヒトハはうとうととしていた。
モストロ・ラウンジの仕事は楽しくはあるが、体力を考えると決して楽ではない。生徒たちは授業を受けてバイトもしているのだろうから彼らほどではないが、それでもいくらか自分が年上であることを考えると、結構な無理をしているであろうことは確かだ。
ぼんやりとした頭のまま、そろそろ帰ろうかと腰を浮かせたところで、急に木製の座面が軋み、激しく揺れた。
「わっ!」
ヒトハは小さく悲鳴を上げた。まったく気が付かない間に、隣に誰かが勢いよく腰を下ろしたのだ。
「まぁ待て」
反射的に逃げ出そうとすると、素早く片腕を掴まれる。自分を引き留めた声は聞き馴染んだものだが、今はとても歓迎できる状態ではない。昼間の出来事を思い返しながら、ヒトハは苦し紛れに声を絞り出した。
「せ、先生……」
クルーウェルは不釣り合いに素朴なベンチで足を組んで、固まるヒトハを上から下まで値踏みするように眺めていた。
「シャツの布が余っているな。腕周りも、胴の周りも緩い。パンツの腰の位置が下がっているだろう? 少し痩せたか?」
「えっ、私、痩せたんですか?」
「言っておくが、褒めてはいない」
クルーウェルは片眉を上げて「お座り」と隣を指差す。お世辞にも広いとはいえないベンチで、ヒトハは仕方なくわずかに端に寄って座った。
彼は昼間のことなんてなかったかのように平然としていた。あれは夢だったのだろうかと多少期待したところで、彼は暗いアイシャドウがのった目を細め、薄く笑ったのだった。
「さて、今回は何をしたのか聞かせてもらおうか」
「そうなりますよね……」
この距離では逃げようもない。ヒトハはもういい加減、観念することにした。仕事中にあれだけ気持ちが荒れてしまうのはもう御免だし、なにより今日の別れ際に「事情を説明する」と約束してしまった。これからどのようなことを言われようとも、どんな態度を取られようとも、すべて受け入れなければならない。
「その……実は……」
ヒトハは渋々、重い口を開いた。
リーチ兄弟にモストロ・ラウンジへ連行されたことから始まり、アズールと交渉したこと、帰りにうっかり壺を割ったこと。
言葉を選びながら事細かに説明するヒトハの話を、クルーウェルは静かに、時に眉間の皺を深くしながら聴いていた。唯一、アズールに提案された内容だけは最後まで口にしなかったが、彼はそこを追求しようとはしなかった。
「――で、アジームから譲ってもらった壺を割って弁償する羽目になったと」
クルーウェルは額に手を当てて、今までで一番のため息をついた。
「お前は……俺の言いつけひとつ守れないのか? それとも忘れたとでも言うのか?」
呆れ声で言われて、ヒトハは目を泳がせながら口を噤んだ。言い返す言葉ひとつ思いつかない。なにせ言いつけを覚えていたし、守らなかったし、挙句の果てに隠そうとしたのである。
「ごめんなさい」
「次からは素直に従うように。いいな」
「はい……」
クルーウェルは長い指で落ちてきた前髪を掻き上げながら「それから」と小言を続けた。
「お前は隠すのが下手すぎる」
「ううっ」
「下手に隠すくらいなら相談か報告くらいはしろ。さすがに目に余る」
そう言われて、ヒトハは下に落ちかけていた視線をふと持ち上げた。クルーウェルが驚いたように、わずかに眉を上げる。
「で、でも……でも、相談したとして、先生は私を助けてくれるんですか……?」
考えるよりも先に、そんな疑問が口をついた。たしかに彼は多少言葉がきつくても面倒見が良く、見放されたことは一度だってなかった。でもそれは仕事として、あるいはどうしようもない自分の不運を憐れんで手を差し伸べているだけだと思っていたのだ。それなのに、自ら「相談しろ」と言う。
クルーウェルは少し間を置いて、静かに答えた。
「ああ、助けてやる。お前が望むならな」
ついでに「その様子では機会は少なそうだが」と笑う。
ヒトハはその答えを聞いて、このところずっと心に纏わりついていた不安がすっと消えていくような気がした。
(先生は、私を助けてくれる……)
本当は、もっと頼ってもよかったのだ。不安なことを「不安」と言って、辛いことを「辛い」と言ってもいい。負担でも、迷惑でもなく、学園長からの依頼という義務を超え、彼は求めるままに手を貸すと言った。どうしてもっと早く、話をしなかったのだろう。
「でも先生、この前『俺は助けない』って言ってたじゃないですか」
「気が変わった」
「虫の時は助けてくれなかったのに!」
「あれくらいは自分でなんとかしろ。とはいえ、たしかに、お前に任せたのは失敗だったな」
思い出したかのように「次からはお前は手を出すな」と釘を刺してきたので、それがおかしくてヒトハは堪え切れず笑った。言い出したのは他でもない彼である。
「――あの、先生?」
ひとしきり笑って、ヒトハは控えめにクルーウェルの顔を見上げた。
「どうして私に良くしてくれるんですか?」
ずっと疑問だったのだ。彼にとって必要なものを、自分は何一つ持っていないことを知っている。貰ってばかりで返せるものなんてささやかな親切くらいのものだ。それでは勘定が合わない。
クルーウェルは眉を顰めて「どうして?」と聞き返した。
「面白いからな、お前」
「お、おも……そんなに面白いんですか、私……?」
「お前ほど頑固で意地っ張りで甘え下手の女もそういないだろう。とはいえ、理由なんてあってないようなものだ。いちいち理由をつ
けて親切して回るほど俺は暇じゃない」
クルーウェルの率直すぎる評価に、ヒトハはちょっと顎を引いた。思い当たることがないわけではない。無理を通して魔法士養成学校に通った日から、あまり周りの助けには期待してこなかったものだから。それがきっと彼には頑固で意地っ張りで、甘え下手に見えるのだろう。
それならもう少し、甘えてもいいだろうか。
「先生、私のこと助けてくれるんですよね?」
「さっきからそう言ってる。何度も言わせるな」
クルーウェルはいい加減鬱陶しそうに片手を払うように振るった。
つまりこれはただの気まぐれではなくて、本当にそうするつもりでいるのだ。今回の件も一言「助けて」と言えば、彼の高いプライドにかけてなんとかしてくれるに違いない。
けれどヒトハには、その事実だけで充分だった。頑張れるだけ頑張って、もう駄目だと思った時に助けてくれるというのなら。たとえどんなに辛くとも、もう一走りできるような気がするのだ。
「ありがとうございます。でも、今回は大丈夫です。やってしまったことの責任はちゃんと取りたいですし」
クルーウェルはヒトハの宣言に少しだけ目を見開くと、柔く細めた。
「お前ならそう言うと思った。呆れるほど頑固だからな」
「頑固じゃないです。真面目と言ってください」
むくれて言い返すヒトハに、彼は「どうだか」と茶化すように鼻で笑う。
ヒトハはようやくベンチから立ち上がった。どこか地に足が付いていないような、ふわふわとした感覚だ。上着に袖を通す間、ヒトハは憂鬱に感じていた明日に確かな希望を見た。これでもう、なにもかもが上手くいくような気がするのだ。
「私、なんだかまだ頑張れる気がしてきました」
借金の返済はモストロ・ラウンジの仕事を少し緩やかにしてもらって、時間がかかってもやり遂げよう。自分の納得のいくように、後悔のないように。
ヒトハは振り返り、今度はしっかりとクルーウェルを見据えた。
「おやすみなさい、先生」
星空の下、素朴なベンチに足を組み座る男は月明かりのせいか眩しく目を細め、走り行く背を見届けたのだった。
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