魔法学校の清掃員さん
13-02 清掃員さん、連行される
張りのある薄紫色のシャツに少し光沢のある黒い生地のジャケット。下はパンツと踵の高いパンプス。いつもの薄汚れた制服ではなく、清潔感のある姿はやはりまだ落ち着かない。
「ヒトハさん、これ三番テーブルに」
「はい」
「ヒトハさん、こっち手伝ってください!」
「はい!」
「ヒトハさん! 一番テーブル片づけお願いします!」
「はい! ――あっ」
前を行く従業員が両手に乗せた皿を傾け、落としそうになったところをヒトハは間一髪のところで“止めた”。片手にトレーと空の皿をいくつか積み重ね、もう片方で杖先を傾いた皿に向けている。皿も料理も時が止まったように宙に浮いていて、それを見ていた客と従業員がどこからか小さく拍手をした。
「おぉ……!」
「いや、落としちゃうから、感心してないで早く……片づけて……」
なけなしの魔力ですら、この忙しさの中ではフル稼働せざるを得なかった。
モストロ・ラウンジのびっくりするほど高い壺を割ってしまったヒトハは、「弁償」と口に出してしまったが最後、“多額のマドル”か“能力”のどちらかを差し出さなければならなくなった。貯蓄は少なからずあれど足りるはずもなく、かといって能力を差し出すのはどうしても避けたい。結果、労働力の提供――その賃金で手を打ってもらうことになったのだ。これはアズール曰く『海の魔女の慈悲の精神』によるものらしいが、ヒトハはそれを信じてはいない。そもそも、彼らは単に労働力を欲していた。
ナイトレイブンカレッジ全体が期末試験に向けて準備をする中、ヒトハという労働力はとにかく都合がよかった。試験勉強にも追われておらず、シフト調整の必要がなく、ある意味借金を抱えているせいで逃げられない。本業で忙しい生徒たちの代わりに働くことになったヒトハを、モストロ・ラウンジの従業員たちは諸手を挙げて歓迎したのだった。
「おつかれさまです」
休憩室の片隅にあるささやかな椅子に腰を下ろし、ヒトハは抱えた全ての疲れを吐き出すようにため息をついた。すでに三人のオクタヴィネル寮の生徒がいて、彼らはヒトハの様子を見て苦々しく笑う。
「ヒトハさん、おつかれ」
「はい、おつかれさまです」
彼らはオクタヴィネル寮の三年生で、このモストロ・ラウンジのバイト仲間だ。元々ヒトハにホールの仕事を教える教育係だったが、社会人経験から早々に彼らの手を離れたヒトハにとっては先輩というより友達に近い。
窮屈そうにパンプスを脱ぐヒトハを見て、一人がスマホ片手ににやりとした。
「ヒトハさんも壺割って借金なんて、ついてないよね」
「本当に。でも、やってしまったことは仕方がないですし」
「ふーん、真面目」
入れ替わるようにもう一人が身を乗り出す。
「そういえば今日聞いたんだけど、ヒトハさんってクルーウェル先生と仲いいってほんと?」
ヒトハは脱いだパンプスに踵を乗せながら「んー」と首を捻った。
「仲がいいかは分かりませんが……。色々良くしてもらっているので、悪くはないと思います」
「へぇ~」
「な、なんですか……?」
「いや、先生と仲がいい噂って珍しいなと思って。先生って結構怖いし」
きょとんと目を瞬く。すぐに苦々しい笑いが口元からこぼれたのは、彼の言っていることが間違いだからではない。自分も少し前まで恐ろしい人だと思って接していたことを思い出したからだ。もちろん、未だに怒らせたら怖いとは思っているが。
ヒトハが校舎を彷徨ったあの日、クルーウェルが慰めのために自らの思う教育を全て曝け出したわけではないと理解している。けれど道に迷って我を失った自分を引き戻すために必要な言葉を選び、伝えてくれた。あの人をそれでも恐ろしいと思えるものだろうか。
「先生なんですから、多少厳しくなるのは仕方のないことです」
ヒトハがそれだけ言うと、三人は「ふぅん」と答えた。説教じみた言葉は聞き飽きているとも言いたげで、そう思う気持ちも分からないでもなかった。
これ以上は何も言うまい。ヒトハはバイト後半戦を憂鬱に思いながら、浮腫んだ足を再びパンプスに詰め込んだ。生徒たちはその様子を見ながら、まだ何かソワソワとしている。ヒトハが靴先を床で叩きながら整えていると、彼らは溢れる興味を隠しもせずに聞いたのだった。
「で、付き合ってるの?」
「なっ……! つ、付き合ってません!!」
――モストロ・ラウンジ閉店後。
照明の大部分が落ち、最低限の灯りが青紫にぽつぽつと灯って深海のような姿に変わった店内で、ヒトハは客の居なくなったテーブルに突っ伏していた。トン、と前に料理の乗った皿が置かれ、のっそりと起き上がる。仕事終わりに提供される賄い料理は、この忙しい仕事の中で唯一の楽しみだった。料理を持ってきたジェイドを見上げると、彼はにこにこと人の良い笑みを貼り付けている。相変わらず、腹の内では何を思っているのか読めない曲者だ。
「ずいぶんとお疲れのようですね」
「それはそうでしょうよ。一日中働き詰めですし」
ヒトハはキノコをフォークで突きながら口を尖らせた。
日中の清掃員の仕事が終わったら、休む間もなくモストロ・ラウンジへ来て働くのだ。プライベートな時間はほぼ失われてしまい、仕事をしているか寝ているかという状態では気も休まらない。特に辛いのが、週に一度の魔法薬の受け取りにも時間が割けず、魔法薬を一気飲みしてモストロ・ラウンジへ走らなくてはならないことである。今日もクルーウェルとの雑談の時間はなく、先週に引き続き訝しむような目を向けられながら逃げるように仕事へ来ていた。事情を話せば済むのは分かっていても、言いつけを守らず起きた不運を教える気にはなれなかった。
「タニシちゃん、おつかれ~」
「フロイドくん、おつかれさまです。あの、もうちょっといい感じの名前に変えられません?」
フロイドはヒトハの要望に耳も貸さず「疲れた~」とマイペースを貫いている。気が付けばテーブルの向かい側に座って、ずるずると椅子に沈んでいった。
何かと水生生物のあだ名を付けたがるフロイドがヒトハに付けた名前は“タニシ”。水槽を掃除するからという単純な理由で適当に付けられたあだ名だが、ヒトハはどうしてもこれが好きにはなれなかった。聞けばクルーウェルはイシダイなのだという。自分もせめて魚類にして欲しかったが、彼はわざわざそれを聞き入れるような性格ではない。
「ヒトハさんはよく働いてくれるので助かります。モストロ・ラウンジの二号店ができた暁には、バイトリーダーでも任せましょうかね」
ヒトハが見たこともないキノコをもそもそと食べていると、アズールが軽快に靴底を鳴らしながら現れた。今日は売り上げが良かったらしい。
「せめて社員にしてくださいよ……って、二号店できるんですか?」
「ええ、もちろん。まだ計画段階ですが近いうちに必ず」
「へぇ、学生なのに凄いですねぇ」
ここで働き始めてからというもの、アズールの商魂たくましい姿にはいつも驚かされている。学生なのか経営者なのかたまに分からなくなるが、彼は寮長というだけあって成績も良い。本分も忘れないところが努力家な彼らしかった。
「そういえば、ヒトハさんには何か目標はないんですか?」
黙って話を聞いていたジェイドが不意に質問を投げかけてきて、ヒトハは目を瞬いた。
「目標? いえ、特には」
目標。唐突に言われてもなにも思い浮かばない。子供の頃ならまだしも、大人になってからは働いて余暇を楽しく過ごして、それだけで日々が過ぎていく。きっと多くの大人たちがそうなのではないかと思ったが、まだ学生である彼らにとって、その回答はとてもつまらないものだったらしい。
アズールはこれ見よがしにため息をついた。
「貴女、魔法士養成学校卒でしたよね? 一体何を目的に卒業したんです? 魔法士としての才能があればまだしも、別の道もあったでしょうに」
歯に衣着せぬ、とはこのことである。ヒトハは痛いところを突かれて「うっ」と言葉を詰まらせた。
「たしかに適正はなかったですけど。でも、憧れてしまったんだから仕方ないじゃないですか。それに、今こうしてここにいられるのも学校を出たおかげなので、ある意味夢が叶ったというか……」
ヒトハは答えながら言い淀んだ。
魔法士として生まれたのだから、魔法士としての職に就き、誰かの役に立ちたい。学生時代の目標はそんな曖昧なもので、彼らのような野心的なものではなかった。もっと明確に未来を思い描けていたなら、また違った未来があったのだろうか。
「だから目標とか、そういうのは今のところなくて。強いて言うなら壺代の返済でしょうか……」
それにはあとどれくらいこの生活を続ければ……と考え始めて、げんなりとした。まさか一生をモストロ・ラウンジのバイトリーダーで終えてしまうのではないかと思うと胃が痛い。
「はぁ、こんな夢も希望も野心もない大人にはなりたくないものですね」
「まったくです」
「タニシちゃん、つまんねー」
「ひどい……」
ヒトハのそんな心中を察するでもなく、アズールをはじめモストロ・ラウンジの面々は好き勝手に言っている。最近こうやってずけずけとした物言いをしてくるのは彼らなりに仲間意識が芽生え始めたからなのか。複雑ではあったが、そこまで悪いことのようには思えなかった。
恐れていた日はいつも唐突に訪れる。
いい加減疲れてきた、と眠気と格闘しながら清掃の仕事に勤しんでいた午前の中頃に、廊下を歩いていると首の後ろに妙な感覚があった。どうにもチクチクとするような、ゾッとするような、そんな感覚だ。
ヒトハは授業の合間で生徒たちが多く行き交う中、まさかと思って人混みに紛れながら一瞬振り返った。
(やばい)
さっと視線を前に戻し、気づかないふりをして靴底をガツガツと鳴らしながら廊下を速足に進む。
今まで仕事中にあえて話しかけに来ることのなかったクルーウェルが、明確に狙いを定めてこちらに向かっていた。しかも、顔が相当に苛立っていて歩調も速い。身長差が頭一個分以上、かつ足の割合が自分より上となれば悠長にしていてはすぐに追いつかれる。
(なんで……!?)
こうまでして追いかけられる理由が、すぐには思い浮かばなかった。ヒトハは生徒の間を縫うように歩きながら考え、そして憶測ながらその理由を思いついた。
(避けてるのがバレた!?)
わっと冷や汗が噴き出す。他でもない、ヒトハ自身が先に避けていたのである。
この数週間は一方的に気まずさを感じ、校舎の東で見かければ西へ行き、二階で見かければ一階へ下りていた。魔法薬の受け渡しの日も大した話もせず逃げるように切り上げること二回。最初は不審に思う程度でも、積み重なればさすがに気が付くのだろう。
いつかこうなることはなんとなく分かっていた。むしろ今まで気付かれることなく視界に入らないようにできていたこと自体が奇跡である。
でも避けている理由をまだ――まだ知られたくない。なんとなく。これが我儘であることも、早いうちに正直に言わなかったせいで余計に言いづらくなっているのも分かっている。でも怖いのだ、まだ。
ありとあらゆる言い訳を胸に、ヒトハは無心で足を動かした。廊下の角を曲がり、中庭に面した外廊下に出て知り合いの姿を見つけ、まだ追いつかれていないのをいいことに走る。
「ちょ、ちょっと隠して……!」
中庭の外周に並ぶ高く茂った生垣の傍。雑談をしていたオクタヴィネルのバイト仲間たちに慌てて告げると、ヒトハは細かくて硬い葉を掻き分けて裏側に回った。
彼らは「え?」と戸惑いながらも三人分の体を活かしてそれとなく横一列に並んで隠してくれる。ややあって緊張感が漂ったのは、追跡者がほんの数歩先にやって来たからだ。
「おい、仔犬ども。ナガツキ……清掃員を見なかったか? 女性の」
「清掃員さんならあっちに行きましたよ」
なかなかの名演技である。生徒の一人がそう答えて平然とその場を凌ぐのを、ヒトハは冷や汗を滲ませながら聞いていた。
気配が過ぎ去ってしばらくすると、三人のうち誰かが「先生行ったよ」と声を掛けてくれる。再びガサガサと生垣を掻き分け表に出て、ヒトハは体中についた葉を叩き落とした。これは庭師に怒られてしまいそうだ。
「ヒトハさん、なんで追いかけられてんの?」
生徒の一人が呆れかえって言うのを「な、なんででしょうねぇ」と下手にはぐらかす。当然そんな回答で納得がいくわけもなく、彼は腕を組んで聞き方を変えた。
「じゃあなんで逃げてんの」
「それは、その」
もごもごと言って、ヒトハは渋々白状した。
「借金してモストロ・ラウンジでバイトしてるの言ってないから、気まずくて」
仲がいいとまで噂の流れた二人が追いかけっこをしている理由を察して「ああ」と三者三様に声が上がる。理由も分からないまま逃げられ続ければ、追いたくなってしまうのは当然のことだ。
「先生に正直に言ったら助けてくれるかもよ? なんかヒトハさんのこと気にしてるみたいだし」
生徒の提案に、ヒトハは首を横に振った。
「いいんです。余計なことを言って先生にこれ以上負担をかけたくないですし」
あと、と声を落とす。
「知られたら絶対怒るから怖い」
「ああ~」
こればかりは三人とも同じ、共感とも同情とも取れる声を上げたのだった。
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