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ヘアセットの話
「えっ! 先生、髪が………」
ヒトハは人差し指をクルーウェルの頭に向けて、口元を抑えた。
「分かれてない」
「『セットしてない』と言え」
彼は鼻に皺を寄せながら、前髪を掻き上げた。はらはらと前に落ちてくる髪は薄目で見れば白黒に分かれているが、境目がどうにも曖昧だ。
「急に呼び出されたおかげでメイクで精一杯だったんだ」
はぁ〜と長いため息をつく。早朝に学園からお呼び出しがかかったのだろう。言われてみれば、いつもよりも身支度が甘いようだ。
「そういうわけだから、ホームルームの前に整えに行く。用があるなら後でスマホに送っておいてくれ」
「はぁ」
そうは言っても用なんて昨日あったことを話すくらいだし、スマホに送るまでもない。ヒトハはクルーウェルの前髪が落ちているのを観察しながら「そのままでいいのに」とぼやいた。
目の下で切り揃えられた前髪は無造作ながらも左右に分かれていて、そこからさらに落ちた髪がいくらか目元に掛かっている。片側を後ろに流しているスタイルも当然似合っているが、こちらも気怠げな色気があって、悪くはなかった。
「髪を下ろしてる先生もかっこいいですよ。せっかくなので、今日はそのままでどうです?」
ヒトハが言うと、クルーウェルは横に結んだ唇をへの字に曲げた。やはり自分のスタイルを貫く彼にとっては、他人からの提案なんて余計なお世話なのだろう。
案の定、彼は「分かった、分かった」と鬱陶しそうに言いながら、ヒトハの提案を適当にあしらった。
「俺の容姿に関心があるのはいいが、始業まで時間がない。分かるな?」
「あっ」
指摘されてスマホを取り出す。時刻はなんと始業の十分前。仕事場までは距離があり、今すぐ向かわなければ遅刻してしまう。
「ヘアセット、頑張ってください! では!」
片手を額に当てて敬礼し、ヒトハはぴゅんと勢いをつけて駆け出した。背後から「本当に調子のいいやつだな」と聞こえてきたような気がしたが、気のせいだろう。たぶん。
彼に会ったのはそれきりで、ヒトハはその後の姿を見ることはなかった。
けれど翌日になって生徒たちが「昨日の先生の髪形がいつもと違っていたのはデートだったから」と色めき立っていたものだから、それですべてを察した。
「結局間に合わなかったんですね」
と、何気なく言った言葉に盛大なため息をくらい、「次からはヘアセットを先にする」とまで言われた理由だけは、分からなかったけれど。
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